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トルストイ:『私の宗教』第一章(翻訳) [翻訳]

 トルストイ:『私の宗教』第一章

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  私は、別の二冊の大部の論考の中で、なぜ私がイエスの教義を理解しなかったのか、そして、いかにしてそれがついに私に明らかになったかを説明するつもりでいる。これらの著作は、教義神学の批判と、コンコルダンス(=語句索引)付きの四福音書の新たな翻訳である。 これら著作において私は、人々から真理を蔽い隠そうとするすべてのことを見つけ出そうと努めている。私は四福音書を、新たに一語一語翻訳し、それらを新しいコンコルダンスにまとめている。その作業は六年間続いてきた。毎年、毎月、私は根本にある考えを強化する新たな意味を発見した。私は、忍び込んでいた誤りを訂正したり、すでに書き上げたことに最後の筆を入れたりしている。私の生涯の最期はもうそれほど遠くにあるわけではないが、それはおそらく私がこの作業を終える前に終わるだろう。しかし私は、この作業が極めて有益なものとなることを確信している。私はそれを完成にもたらすために、私にできるすべてのことをするつもりである。

  私は、今ここで、神学についての外的な作業にではなく、まったく別種の性質をもつ内的な作業に関心を向けたい。今、私が関わるのは、体系的あるいは方法論的なことではなく、私に福音書の教義をその単純な美しさにおいて示してくれた突然の光にだけ関心を向けることにしたい。そのプロセスは、誤ったモデルにしたがって、砕け散った大理石の破片から彫像を復元しようと努めながら、最も扱いにくい破片の一つを手にして、自分の理想 が無益であったことを感じる人が経験したものと少しは似ていた。その後、彼は新たに始め、 以前の調和しない破片の数々の代わりに、一つ一つの断片の輪郭をよく見ながら、すべてが 調和し、一つの矛盾のない全体を形成することを見出すにいたる。これこそまさに私に起きたことであり、私がこれから物語ろうとすることである。私がいかにしてイエスの教義の真の意味を解く鍵を見出したのか、そして、この意味によっていかにして疑いが決定的な形で私の心から駆逐されていったかを語りたいと思う。発見は以下のようにして起こった。

  子供のとき、私が新約聖書を読み始めた頃から、 私は、愛や謙譲や自己否定や「悪に対して善をもって報いろ」といった義務を教えるイエスの教義の部分に、もっとも心を動かされた。その部分が、私にとっては、つねに、キリスト教の実質的な部分であった。私の心は、懐疑心や絶望にもかかわらず、それが真実であるということを認識していた。 そのために、私は多くの勤労者が信じている宗教(彼ら勤労者は、そこに人生の解決を見出していた)、つまり、ロシア正教会によって教えられている宗教に従おうと決めた。しかしながら、教会に従おうとしたとき、私は、その信条の中に、キリスト教の本質を確証するものを見出せない、ということにすぐ気がついた。私にとって本質的なことは、教会の教義においては、たんなる付属物にすぎないように思えた。私にとってもっとも重要なイエスの教えは、教会によっては、そのように見なされていなかった。おそらく教会は、愛や謙譲や自己否定などの内面的な意味とは別に、外面的で教義的な意味をキリスト教の内に見ているのだ、と私は考えた。そして、その外面的な意味は、いかに奇妙でいかに忌まわしく見えようが、それ自体としては悪しきものでも、有害なものでもなかった。しかし、私は教会の教義に従順になろうとすればそれほど、まさにこの点において、私が最初に理解した以上の重要なものをはっきり見てとった。私が教会の教義の中でもっとも忌まわしく思えたのは、その教義の奇妙さと、迫害や死刑や、あらゆる宗派に共通する不寛容によって起こされた戦争に 対して教会が与える是認、いや、支援であった。イエスの教えの中で私に本質的と思われたものに教会がいかに無関心であるか、そして私にとっては二次的なものにしか見えないことに教会がいかに熱心であるかということが判り、私の信仰のほとんどは砕け散ってしまった。私は何かが間違っていると感じたが、その間違いがどこにあるのかは判らなかった。なぜなら教会の教義は、私にとってイエスの教義の本質と見えたものを、否認していなかったからである。この本質は、充分に認識されていた。しかしそれは、そこに第一等の地位を与えないような仕方での認識であった。私は教会がイエスの教義の本質を否認しているといって非難することはできなかったが、その本質は、私を満足させないような仕方で認識されていたにすぎなかった。教会は私が教会に期待していたことを与えてくれなかった。私がニヒリズムから教会に移行したのは、私は宗教なしに生きることは不可能だと思ったからである。すなわち、動物的な本能を越えた善悪の知識なしに生きることは不可能だと思ったからである。私はキリスト教の中にこの知識を見出そうと望んだ。しかし、キリスト教は、当時の私には、曖昧な霊的傾向をもつものとしてしか見えなかったし、そこからは、何か明確で決定的な人生の指針のための規則といったものを引き出すことは不可能だった。だが、私が求めていたのは、まさにそういうものであったし、私が教会から求めていたのも、まさにそういうものだった。教会が私に提供した規則は、キリスト教徒としての生の実践を教えてくれないばかりか、そのような実践をますます困難にしてしまうようなものであった。私は教会の弟子になることはできなかった。キリスト教的な真理に基づいた生活は、 私にはなくてはならないものだったが、教会が私に提供してくれたのは、私が愛していた真理に真っ向から反する規則であった。信仰箇条、教義、サクラメント(=秘跡)の遵守、断食、祈祷に関する教会の規則は、私にとって必要ではなかったし、キリスト教の真理に基づいているようにも見えなかった。おまけに、教会の規則は、それのみが私の生に意味を与えてくれるような キリスト教の真理に対する欲求を、弱めるだけであり、ときには、それを破壊さえした。



  人類の不幸、互いに裁き合ったり国々や諸宗教に判決を下す習慣、そしてそこから結果する戦争や大虐殺、これらすべてが、教会の賛同とともに行われたことに、私は大変困惑した。イエスの教義(裁くな、謙虚になれ、罪を許せ、自己を否定せよ、愛せ)は、教会によって言葉の上でだけは称賛されていたが、同時に教会は、その教義とは両立しがたいことを是認していた。イエスの教義がそのような矛盾を容認するということがありうるのだろうか? 私にはそのようには思えなかった。教会についてのもう一つの驚くべきことは、それがその教義の主張を基づかせている箇所が、とても曖昧であったということである。他方で、 道徳的な法が由来する箇所は、この上無く明瞭で簡潔である。教義とそれに基づく義務は、教会によってはっきりと定式化されていたが、道徳的な法に従えという勧告は、この上なく曖昧で神秘的な言葉で述べられていた。これはイエスの意図だったのだろうか? 福音書だけが私の疑念を解消することができるだろう。そうして、私は一度、二度と福音書を読んでみた。



  福音書のあらゆる箇所のうちで、山上の教えはつねに私にとって例外的な重要性をもっていた。私はかつてないほど頻繁にその箇所を読んだ。この箇所でほどイエスが厳粛に語っているところはない。ここにおいてほど、イエスがはっきりとそして実践を目指して、道徳的な規則を宣べ伝えているところはない。ほかの形式で宣べられた規則が、これほど容易に人間の心にこだまを引き起こすこともない。ほかのいかなる場所でも、イエスがこれほど多くの一般人に向けて語っている箇所もない。明確で正確なキリスト教徒の原則というものがあるならば、ここに見出すべきであろう。ゆえに、私は、自分の懐疑を解く鍵を、山上の教えを含むマタイ第五章、第六章、第七章に求めた。これらの章を私はしばしば読んだが 、読む度に、もう一方の頬を向けよとか、上着も与えよとか、全世界と平和でいろとか、敵を愛せとかを聞き手に向かって説く節に到達すると、その度に同じ熱い感情が込み上げてきた。しかしながら、その度に、同じ失望感も湧きあがってきた。神の言葉は明確ではなかった。それは、私が理解するような人生の息の根をまったく止めてしまうほどの絶対的な放棄を勧めていた。それゆえ、すべてを放棄することは、救いにとって本質的なことではありえないと私には思われた。そして、このことが絶対的な条件であることをやめた瞬間に、明確さと正確さも終わりを迎えた。



  私は山上の教えだけを読んだわけではない。私は他のすべての福音書と福音書についての神学的な注釈書をすべて読んだ。神学者たちは、山上の教えは人間が望むべき完全さを指し示すものにすぎず、人間は罪によって圧倒されているので、そのような理想に達することはできないし、人類の救済は信仰と祈りと恩寵のうちにあるのだと説いていたが、私は満足しなかった。私はこうした言明が真であることを認めることはできなかった、イエスが、万人が理解できるようにあれほど明快で立派な規則を宣べ伝えていながら、その教義を実行に移すことは人間には出来ないということも理解していたなどということは、私には奇妙に思えたからである。

  
  それからこれらの金言を読むにつれ、私は、今この瞬間、実行に移し始めることができるかもしれないという喜びに満ちた確信に満たされるようになった。私が感じた燃えるような欲求は、私をそのような試みに導いたが、教会の教義が私の耳の中で鳴った: 「人間は弱い。こういう境地に人間は達することができない」と。すると、すぐに私の力は萎えてしまうのだった。あらゆる側から、「信じて祈らなければならない」という声が聞こえてきた。しかし、私のぐらつく信仰心は祈りの邪魔になった。再び、「あなたは祈らなければならない、神はあなたに信仰心を与えてくれるだろう、その信仰心が祈りの気持ちを抱かせるだろう、そして、その祈りが、今度は、信仰心を呼び覚まし、それが、またさらなる祈りの気持ちを抱かせるだろう、そして無際限に続いて行くのでだ」という声が聞こえてきた。理性と経験はともに、そのような方法は無益であると私に確信させた。唯一の真の道は、自分がイエスの教義に従おうと試みることであるように思われた。
 
  

  そうして、イエスの教義が神的であるかどうかについて書かれた賛成論と反対論すべてについての実りのない探求と注意深い省察の後で、これらの疑いや苦しみをすべて味わった後で、私は神秘的な福音書のメッセージに向き合った。私は、他の人が見出した意味を見出すことはできなかったし、私は私が求めていたものを発見することもできなかった。賢明な批評家や神学者の解釈を拒絶した後で初めて、「子どものようにならなければ、天の国に入ることはできない」というイエスの言葉(マタイ18:3)に従って、私は、突然、以前まったく無意味だったものが理解できるようになった。私は、解釈的な空想力やテクストを深遠で天才的な仕方で組み合わせることによって、理解したわけではなかった。私は私の心からすべての注釈を 追い出したので、すべてが理解できたのである。私に全体を解く鍵を与えてくれたのは次の箇所である。


 「目には目を、歯には歯をと言われていることを汝らは聞いている。しかし、私は汝らに言う。悪人に逆らうな」(マタイ5:38-39)。



  ある日、これらの言葉の厳密で単純な意味が私の脳裏に浮かんだ。イエスは、彼が言ったこと以上でも以下でもないことを言いたかったのだと私は理解した。私が見たのは何ら新しいものではなかった。私から真理を隠していたベールが落ちただけだった。そして、真理が、その偉大な姿において、明らかにされたのである。


 「目には目を、歯には歯をと言われていることを汝らは聞いている。しかし、私は汝らに言う。悪人に逆らうな」。



  これらの言葉は、かつて一度も読んだことがないかのように私には思われた。これまでいつも、私がこの箇所を読んだとき、奇妙なことに、ある言葉が私の注意から逃れたままになっていた。「しかし、私は汝らに言う。悪人に逆らうな」の言葉がそれである。私には、今引用したばかりの言葉が決して存在しなかったかのように、あるいは、一定の意味をもっていないかのようにかのように思われた。後に、私が福音書をよく知っている多くのキリスト教徒と話したとき、私は、しばしば、これらの言葉に対する同じ盲目ぶりに気がついた。誰もその言葉を覚えていなかったし、しばしばその箇所について語るとき、キリスト教徒たちは福音書を手に取って、その言葉が本当にそこにあるのかどうか確かめたほどだった。これらの言葉を同じように見過ごすことによって、私はそれに続く言葉も理解しなかった。


 「汝の右の頬を打つ者に対しては、もう一方の頬を向けてやれ」(マタイ5:39)。


  やはり、これらの言葉も、私には、人間の本性に反する苦しみと欠乏を要求するように思われた。これらの言葉は私の心を動かした。私は、その言葉に従うことは高貴なことだろうと感じたが、私はそれを実行に移すだけの力をもっていないとも感じた。私はこう自分に言い聞かせた。「もしも一方の頬を向けるならば、私はもう一度打たれるだろう。もしわたしが与えるならば、私がもっているすべてのものが奪われるだろう。生きていくことは不可能になってしまうだろう。人生は私に与えられたのだから、どうして私はそれを捨てるべきなのか? いくらイエスでもそこまでを要求することはできない」と。


  そのように私は推論し、イエスは苦難と欠乏を賛美するとき、明確さと正確さに欠いた言葉を使ったのだと納得していた。だが、私が「悪人には逆らうな」という言葉を理解したとき、イエスは誇張しているわけではなく、苦しみのための苦しみを求めているわけでもなく、まさに自分が言いたいことを偉大な明確さと正確さをもって言い表したのだということが私には判った。「悪人には逆らうな」。悪人とは、一方の頬を殴り何の抵抗にも出会わなかったならば、もう一方の頬を打つような人間であり、上着を奪った後で、下着も奪おうとする人間であり、あなたの労働を利用しながら、報酬も与えずにさらにもっと働かせようとする人間である。しかし、これらすべてのことがかりに起こったとしても、悪人には逆らうな。自分を傷つける者たちに善をなせ。私がこれらの言葉を書かれた通りに理解したとき、それまで意味不明だったものがすべて私には明瞭となり、誇張されているように見えたものが まったく理性的であることが私には判った。初めて私は、「悪人には逆らうな」という言葉の内に、軸となる考え方があることを把握した。私は、それに続く箇所が、この命令を発展させたものにすぎないことを理解した。イエスは、我々が苦しむためにもう一方の頬を向けろと勧めているのではなく、彼が勧めているのは、悪人には逆らうなということであり、苦しみはこの金言を実行することのありうる帰結であるということを、後になってイエスは述べているということが、私には判った。。




  息子が遠い所まで旅に出ようとしているとき、父親が彼に、途中で長逗留するなと命じるとき、彼は息子に、宿にも入らず夜を過ごせとか、食べ物を捨てろとか、雨や寒さに身をさらせと言ってるわけではない。彼は、「道を進め、ぐずするな、たとえ濡れたり寒い思いをするとしても」と言っているのである。それと同じように、イエスは もう一方の頬を向けて苦しめと言っているわけではなく、悪人に逆らうなと言っているのである。何が起ころうと、逆らうなと。


  悪人には逆らうなというこれらの言葉の意味を私が理解したとき、それは私にとって残りのすべてを開く鍵となった。そして私は、これほど明確で正確な言葉を理解しなかった ことに驚いた。


  「目には目を、歯には歯をと言われていることを汝らは聞いている。しかし、私は汝らに言う。悪人に逆らうな」。


   どのような害を悪意ある人々があなたに加えようとも、それに耐えろ、もっているものをすべて与えよ、しかし逆らってはならない。これほどはっきりとしたこれほど明確な、これほど理解できることがあるだろうか? 私は、これらの言葉の単純で正確な意味を、語られたとおりに把握したとき、イエスの教義のすべてが、山上の教えで述べられた教義のみならず、福音書全体におけるイエスの教義すべてが、私には明確なものとなった。それまで矛盾しているように見えたものが、今や、調和するようになった。何より、余計なものと見えたものが、今や、なくてはならないものとなった。一つ一つの部分が調和のとれた統一に収まり、それ固有の役割を果たした。それはまるで、砕け散った彫像の断片が、彫刻家の意図と調和する形につなぎ合わされたときのようだった。福音書の全体を通してもそうだが、山上の教えにおいても、私は、いたるところに、悪には逆らうなと同じ教義が主張されているのを見出した。


   他の多くの箇所と同様、山上の教えにおいても、イエスは弟子を代表している、いずれも、もう一方の頬を向ける者として、上着を放棄する者として、迫害される者として、悪意をもって利用される者として、欠乏している者として、悪に対する無抵抗の規則を遵守する者たちなのである。いたるところで、イエスは、自分の十字架を運ばぬ者、世間的な利益を放棄しない者、喜んで「悪人に逆らうな」の命令の帰結を全て耐え忍ばない者は、自分の弟子になることができない。


   その弟子たちに向かって、イエスは言う。仮にそれによって迫害や苦しみや死を自分の身の上に招きよせるとしても、あえて貧乏になれ、悪に抵抗することなくあらゆることを耐え忍べと。



  悪に抵抗するよりも死を喜んで耐え忍ぶイエスは、ペテロの怒りを戒め、追従者たちに、抵抗するな、つねに自分の教義に忠実なままでいろと勧めながら、死んだ。初期の弟子たちは、この規則を守り、悪に対して悪のお返しをすることなく、苦境と迫害のうちにその一生を過ごした。
そうであるならば、イエスは、まさに、実際に述べたことを言いたかったのだと思われる。我々はそのような規則を実行することはとても難しいと言うだろう。それに従う人が 幸福を見つけられることを否定するだろう。我々は、不信心者とともに、イエスは、実行不可能な原則を宣べ伝える夢想家であり理想家だったと言うだろう。しかし、イエスは自分の言いたいことを明確で正確な仕方で述べたということを認めないことは不可能である。つまり、彼の教義に従えば、人は悪に抵抗してはならないし、したがって、彼の教義を採用する者は誰でも、悪に抵抗することはない、ということを認めないことは不可能である。しかしながら、信者も、非信者も、イエスの言葉についてのこの単純で明確な解釈を認めようとはしないのである。












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