SSブログ

トルストイ:『私の宗教』第7章 [翻訳]

トルストイ:『私の宗教』第7章





 「  なぜ人々はイエスが命じたように振舞わなかったのか? イエスが、人々の手の届くところに最大の幸福、彼らが切望してきたし、いまだに望んでいる幸福を確保したというのに、なぜ人々はイエスが命ずるように振舞わなかったのか? この問いに対する答えは、違った仕方で表現されることはあるにしても、つねに同じである。イエスの教義は立派であり、たしかに、我々がそれを実行するならば、神の国が地上に打ち立てられるのを我々は目撃することになるだろうが、それを実行するのは困難であり、したがって、この教義は実行しがたい。イエスの教義は、人々にいかに生きるべきかを教えるものであり、それは立派で神的である。それは真の幸福をもたらすが、それを実行するのは困難である。我々はこのような言い訳を繰り返す、そして、それが何度も何度も繰り返されるのを耳にするので、こうした言葉に含まれる矛盾に、われわれはもはや気づけないほどなのである。

人間一人一人にとって、最善と思われることをすることは当然である。いかに生きるべきかを人々に教える教義は、どれも、各自にとって最善なことを教えているにすぎない。我々が、人々に、各自にとって最善のことを達成するために何をしなければならないかを示すとき、その人々は、それをしたいのだが、それを達成することは不可能であるとどうして言えるだろうか? より悪いことをすることができないのは本性上当然であるが、彼らは、最善のことをすることはできないと言い張るのである。

存在の最初期の段階から、人間の理性的な活動は、人間の生を含む矛盾に満ちた諸要因の中で最善のものを探し求めることに向けられた。人々は土地を求め、自分に必要な様々な物を求めた。そして彼らは様々な物品を分配し、それを所有物と呼んだ。こうした申し合わせを打ち立てるのは困難だったが、それが最善であると見出したので、彼らは所有権を維持した。彼らは女性の所有をめぐって相互に戦い、子供達を見捨てた。そして彼らはお互いが自分の家族を持つことが最善であると見なした。そして、家族を養うことは困難ではあるが、彼らは、所有権や他の多くのことと同様、家族制度を維持した。人々は、あることが最善であると発見するやいなや、それがいかに到達困難であっても、それを実行するものである。であるならば、イエスの教義は立派であり、イエスの教義にしたがう生活が、いま人々が送っている生活よりもより良いはずなのに、それは困難であるという理由からこのより良い生活を送ることはできないと言うことの意味は一体何なのか? 

このように使われる「困難」という語が、もし、より優れたものを手に入れるために肉体的な欲求の一時的な満足を断念することは困難であるという意味に理解されるならば、パンを求めて働くことは困難であるとか、木の実を味わうために木を植えるのは困難であるとかどうして言わないのだろう? 最も低次元な理性を備えた存在であっても、何か良いもの、これまで享受してきたものよりも優れたものを手に入れるには、困難を耐え忍ばなければならないということを知っている。しかし、我々は、イエスの教義は立派だが実行不可能だ、なぜなら困難だからであると言う。さて、それが困難なのは、それに従うとき我々は我々がこれまで享受してきた多くのものを断念せざるをえないからである。我々の欲求のすべてを満たすことよりも、困難や欠乏を耐え忍ぶことの方がはるかに自分のためになるということを、我々はかつて聞いたことがなかっただろうか? 人は動物のレベルにまで落ちてしまうことがあるかもしれないが、自分の動物性の弁明を考え出すために、自分の理性を使うべきではないだろう。理性を働かせ始めるや否や、彼は、理性を与えられていることを意識するし、この意識は彼を刺激して、理性的なものと非理性的なものを区別させる。理性は命ずることはしない。それは照らし出すのである。

私が暗い部屋に閉じ込められていて、ドアを探そうとして絶えず壁にぶつかるということを想定してみよう。誰かが明かりをもってくる。私にはドアが見える。ドアが見えるのに、身体を壁にぶつけるはずはない。ましてや、ドアの外に行くことが最善であるのに、そうするのは難しい、だから、むしろ壁に体をぶつけでいたいのだと断言するはずはないだろう。

イエスの教義は素晴らしくその実行は世界に真の幸福を与えるだろうが、人間は弱く罪深い、そして、人間は最善をなそうと欲しながら最悪をなしてしまうものであるから、最善のことをなすことはできないというこの素晴らしい主張、この奇妙な言い逃れには、一つの明白な誤解がある。欠陥のある推論とは何か違うものがある。何か奇妙な観念といったものがある。現実を存在しないものと誤解し、存在しないものを現実と見なすような奇妙な観念に導かれて、人々は、真の幸福のためになると自分で認めることを実行に移す可能性を否認してしまうのである。

人々をこのような状態に追いやる奇妙な観念は、教義的なキリスト教の観念、様々な教理問答書を通して、自らを教会のキリスト教徒であると信じるあらゆる者に対して教えられるような教義的キリスト教の観念である。この宗教は、その信者によって与えられた定義によれば、実在しないものを現実的として受け入れることに存する(ヘブライ11:1以下参照)。これらはパウロの言葉であり、信仰の最良の定義としてあらゆる神学や教理問答集で繰り返されている。この実在しないものの現実性に対する信念のおかげで、人々は、イエスの教義は万人にとって素晴らしいものであるが、生き方のガイドとしては何の価値もないという奇妙な主張をするに至るのである。この宗教が教えていることの厳密な要約を以下に掲げよう。

人格的な神は、太古の昔より三位一体の一つのペルソナであるが、それは霊からなる世界を創造しようと心に決めた。この善なる神は、霊からなる世界を、霊自身の幸福のために、創造したが、たまたま、その霊の一つが自発的に凶悪なものになった。時がすぎ、神は物質的な世界を創造し、人間を人間自身の幸福のために創造し、人間を幸福に、不死なる者に、そして罪のない者として創造した。人間の幸福は、苦労なく生を享受することにあった。人間の幸福は、この生が永遠に続くべしという約束のためであった。彼の罪のなさは、彼が悪についてのいかなる観念ももっていないためであった。

人間は、楽園において、最初に創造された霊の一つで、その後自然に凶悪になってしまった存在によって欺かれた。そこから、人間の堕落が始まり、人間は自分と同じように堕落した他の人間を生み出し、そのときから、人々は労苦や病気や苦しみや生き続けるための肉体的道徳的苦難を耐え忍ぶことになる。すなわち、堕落に先立つ素晴らしい存在が、いまや、我々が知るような存在に、我々がそうでないと想像する権利も理由ももたないような現実の存在に成りかわるのである。苦労して働き、苦しみ、自分のためになるものを選び自分の害になるものは拒絶し、そして死んでいく人間の状態こそ、現実的で唯一考えられる状態であるのだが、それは、この宗教の教義によれば、人間の通常の状態ではなく、自然ではない一時的な状態だとされる。

この教義によれば、この状態はアダムの楽園追放以降のすべての人類の歴史の間、続いてきたのであるが、世界の始まりからイエスの誕生まで、そしてイエスの誕生以降もまさに同じ状態で続いてきたのだが、信者たちは、これが正常ではない一時的な状態であると信じるように求められる。この教義によれば、神の子、三位一体の第二のペルソナでありそれ自身神である存在が、人間の姿をまとって神により世界へと遣わされたのだが、それは、人々をこの一時的で正常ではない状態から救うためであり、アダムの罪ゆえに同じ神によって与えられた苦しみから人々を解放するためであり、そして、以前の通常の幸福な状態に、不死で、罪もなく労苦もないあの状態へ立ち返らせるためであった。三位一体の第二のペルソナは、この教義によれば、人間の手にかかって死にいたることによって、アダムの罪を償い世界の始まりから続いてきた正常ではない状態に終止符を打った。そのとき以降、イエスに信を置く人々は、楽園における最初の人間の状態に戻った。すなわち、不死で罪もなく労苦もないあの状態へと戻ったのである。

この教義は、贖罪の実践的な結果にはさほどの関心を示すことはない。贖罪がなされたならば、イエスが到来して以降の大地は、再びいたるところで肥沃になり人間の労働を必要としなくなり、病気は停止するはずであるし、母親は苦しみもなく子供を出産出産するはずであるのだが(少なくとも、信者たちにとっては)、 そのことに、この教義はあまり関心を向けない。過度の労働によって疲弊したり苦しみに倒れる信者に、労働は軽微で苦しみは容易に耐えられると確信させるのは困難だからである。

しかし、死と罪の廃棄を宣べ伝える教義の部分は、他の部分ともくらべてより一層の強調をもって断言される。死者は生き続けると断言される。死者は自分が死んでいると証言することもできなければ、自分は生きていると証明することもできないので(ちょうど石が自分は話せるとか話さないとか断言することができないのと同じように)、この否認の不在は死者が死んでいないことの証明と認められ、そして、死者は死んではいないと断言される。イエスの到来以降、イエスに信を置く人は罪から自由である、すなわち、イエスの到来以降、人間は理性によって自分の生活を導く必要はないし、何が最善かを自分で決める必要もないということが、より一層の厳粛さと確信をもって断言される。人間は、イエスが自分の罪を償ってくれたと信じさえすればよく、そうすることで、人間は無誤謬の、すなわち、完璧な存在になる。この教義に従うならば、理性は無力であり、それ故、人々は罪を免れている、すなわち、もはや誤ることはないと人々は信じるべきなのである。信者は、イエスの到来以降、労働することがなくとも、この地上は作物を生み出し、出産はもはや苦しみを伴わず、病気はもはや存在せず、死と罪、すなわち、過ちは破壊されたと確信すべきである。一言で言って、在るものは在らぬものであり、在らぬものは在るものであると確信するべきなのである。

キリスト教の神学の理論を厳密に論理化すれば、以上の通りである。この教義はそれ自体としては罪のないものに見える。しかし、真理からの逸脱は無害では済まないし、その結果の意義は、それらの誤りが適用される主題の重要性に比例する。しかも、ここで問題とされる主題は、人間の生全体である。この教義が真の生と呼ぶものは、個人的な幸福の生であり、罪もなく永遠なる生である。すなわち、誰一人知る者がない生、実在しない生である。だが、存在する生、我々が知っている唯一の生、我々がいま生きている、そして、すべての人類が生きている、そしてこれまで生きてきた生は、この教義によれば、堕落した悪の存在であり、我々に与えられる幸福な生の単なる幻影(phantasmagoria)にすぎない、というのである。


人間の生の本質をなす動物的本能と理性との葛藤について、この教義は何も考慮をしない。アダムが楽園において経験した葛藤、知恵の木の実を食べるべきか食べざるべきかを決める際の葛藤は、この教義によれば、もはや人間の経験の範囲内にはない。その問いは、決定的な仕方で、楽園のアダムによって決定されたのであり、アダムは万人のために罪を犯した。言い換えれば、彼は間違いを犯し、そして、すべての人間は、取り返しのつかないほどに堕落してしまった。理性によって生きようとする我々のあらゆる努力は空しく冒涜ですらある。このことを私は知るべきであって、なぜなら、私は取り返しのつかないほど悪い存在だからである。私の救いは、理性の光によって生き、善悪の区別をわきまえた後で善を選ぶことに懸かっているわけではない。アダムが決定的な仕方で私に代わって罪を犯したのであり、そして、イエスが決定的な仕方でアダムによって犯された間違いの償いをした。だから、私は、傍観者として、アダムの堕落を嘆き、イエスによる償いを喜ぶべきなのである。

人間の心の内にある真理と善に対する愛、理性の光によって精神的な生を照し出そうとする努力は、この教義によれば、すべて少しも重要でないばかりではない。それらは誘惑であり、高慢さを生み出す誘因である。この地上における生、その喜びやその輝き、理性と闇との格闘をともなうこの地上での生、私の目の前で暮らすあらゆる人々の生、内的な葛藤や勝利を伴う私自身の生、これらすべては真の生ではない。それは、堕落した生であり取り返しのつかないほど悪い生なのである。真の生、罪のない生とは、ただ信仰の中にのみある、すなわち、想像力の中にのみある、すなわち、精神異常の妄想の中にのみあるのである。

幼少期からのこのような信仰の習慣を中断してみよう、そして、この教義をあるがまま、はっきりと見ることにしよう。そして、偏見もなく、この教義とは無関係な教育を受けた人間の立場に立ってみて、その人に自問させてみよう、この教義はその人に絶対的な狂気の産物として見えないかどうかということを。

これらのすべてが私にとってどれほど奇妙でショッキングに見えようとも、私はそれを検討するよう余儀なくされた。なぜなら、イエスの教義の実行不可能性に関連していたるところで耳にしたあの反論、イエスの教義は素晴らしいし人々に真の幸福を与えるだろうが、人々はそれに従うことできないというあの論理的でもないし常識的でもないあの反論の説明を見い出せるとしたら、ここ以外にはないと私は思ったからである。真の現実は実在せず、実在しないものこそが現実であるという確信だけがこのような驚くべき矛盾に人々を導くことができる。そして、この誤った確信を、私は、一五〇〇年もの間、人々が教え続けてきた偽のキリスト教の中に見出したのである。

イエスの教義は素晴らしいが実行不可能であるという反論は信者から発せられるだけではなく、懐疑論者からも、人間の堕落と償いの教義を信じていないかあるいは信じていないと考えている人々からも発せられている。自分自身はあらゆる偏見から自由であると考える科学者や哲学者からも発せられている。彼らは、自分たちは何も信じていないし自分自身は堕落と償いの教義といった迷信はのり超えていると見なしている。最初、私には、こうした人々が、イエスの教義を実行する可能性を否認する大きな動機をもっているのだろうと思われた。しかし、彼らの否定の源まで調べるにいたったとき、私は、こうした懐疑論者が、信者と共に、間違った人生観をもっていると確信した。彼らにとって、人生とはあるがままのものではなく、そうであるべきだと彼らが想像するものであり、このような人生観は信者の人生観と同じ基盤に立脚しているのである。確かに、懐疑論者は、何も信じていないかのように言い張り、神を信じないしイエスも信じないしアダムも信じない。しかし、彼らは間違った人生観の根底にある根本的な考え方を信じている、すなわち、人間が幸福な生に対する権利をもっているということを信じているし、神学者以上に堅く信じているのである。

科学や哲学が「人間の心」の裁定者というポーズをとっても無駄であって、それらは、実際は、ただたんに「人間の心」の召使いにすぎない。宗教は人生観を提供してきたが、科学は踏み固められた道を進んでいくものである。宗教は人生の意味を明らかにするが、科学はその意味を諸々の事態の進展に当てはめるのみである。そして、宗教が人間の生の意味を偽造するならば、科学は、同じ土台に立って理論を築き上げるものであるから、同じ空想上の考えを明瞭にするだけなのである。

教会の教義に従うならば、人々は幸福への権利をもち、この幸福は彼ら自身の努力の結果ではなく、外的原因の結果なのである。この考え方は、科学や哲学の基礎となった。宗教、科学、世論は、みな、我々の現在の生は悪いものであると一様に語り、同時に、自分自身がより良くなることによって生を改良する方法を教える理論は実行不可能な理論であると断言する。宗教は言う、イエスの教義は我々自身の努力により生の改良のための理性的な方法を提供するものだが、それはアダムが堕落し世界が罪へと陥ってしまったがゆえに、実行不可能であると。哲学は言う、イエスの教義は、人間の生が、人間の意志とは独立した法則に従って発展するがゆえに実行不可能であると。言い換えれば、科学と哲学の結論は、原罪と贖罪の教義において宗教が到達した結論とまったく同じなのである。

贖罪の教義の根本には二つの主導的なテーゼがある。1. 人間の通常の生は幸福な生ではあるが、地上での我々の生活は悲惨な生活であり、それは決して我々自身の努力によってより良いものとすることはできない。2. 我々の救いは信仰の内にあり、信仰こそが不幸の生からの脱却を可能にする。これら二つのテーゼが、信者も懐疑論者も抱く、我らが偽キリスト教社会を構成する宗教観の源なのである。第二のテーゼが教会とその組織を生み出した。第一のテーゼからは、一般の世論や我々の政治的・哲学的理論の一般的に受け入れられた命題が由来する。ヘーゲル主義やその末裔のような、現行の秩序を正当化しようとするあらゆる政治的及び哲学的理論の種子は、この最初のテーゼの内にある。人生に対してそれが与えてくれないものを求め、その後に人生の価値を否認するペシミズムも、同じ教義の命題の内にその起源をもつ。人間は自然の諸力の産物でありそれ以外の何ものでもないという奇妙で熱心な主張を掲げる唯物論は、地上の生は堕落した生であると教える教義の正当な帰結である。教養ある支持者を抱える唯心論は、哲学と科学の結論は、人間の自然の遺産であるにちがいない永遠なる幸福という宗教的教義に基づいているということを示す最善の証明である。

この間違った人生観は、理性的な人間の活動すべてに嘆かわしい影響を及ぼした。堕落と贖罪の教義は、最も重要で正当な力の行使の領域から人間を遠ざけ、自分の人生をもっと幸せにもっとより良いものにするためにどんなことでも自らの手でなし得るのだという観念を人間からすっかり奪ってしまった。科学と哲学は、自らが偽キリスト教に敵対的であることを誇らしげに信じているが、偽キリスト教の命ずることを実行しているにすぎない。科学と哲学は、あらゆることに関心をもつが、人間が自分自身をより良いもの、より幸福なものにするためにいかなることもできるという理論にだけは関心をもたなかった。倫理的および道徳的教えは、我々の偽キリスト教社会から跡形もなく消え去ってしまった。

いかに生きるか、いかに我々に与えられた理性を用いるかという問題にほとんど関心をもたない信者や懐疑論者は、我々のこの地上の生がなぜそうであるべきだと自らが想像するようなものではないのか、そして、それがいつになったら自分たちの望むようなものになるのかと問いかける。この奇妙な現象は、人類の骨の髄まで染みついた誤った教義のおかげである。善悪の知識は、人間が不幸にも楽園で得たものであるが、それが及ぼす影響は、あまり長く続いたようには思われない。なぜなら、生きることは動物的な本能と理性との間の矛盾を解決することに他ならないという真理を軽んじているため、人間は、愚鈍にも、自分の動物的な本性を支配する歴史的な法則の発見に自らの理性を適用しようとしないからである。

偽キリスト教世界の哲学的な理論を別とするなら、我々が知っているあらゆる哲学的宗教的な教義、ユダヤ教、孔子の理論、仏教、ブラーマンの宗教、ギリシャ人の叡智、それらはみな、人間の生を統制し人々に自らの置かれた条件を改善するためには何をしなければならないかについて啓蒙することを目指すものである。孔子の理論は、個人が完全になる術を教えた。ユダヤ教は、神との契約に個々人が忠実であることを教えた。仏教は動物的な本能によって支配された生から脱出する術を教えた。ソクラテスは個人が理性を通して完璧になる術を教えた。ストア派は、理性の独立を真の生の唯一の基盤として認識した。

人間の理想的な活動は、つねに、理性の灯火によって幸福に向かう進歩の道を照らし出すことであったし、それ以外にはありえなかった。哲学は、自由意志は幻想であると語り、そして、そのような断言の大胆さを誇る。自由意志は幻想であるだけではない。それは、神学者や刑法の専門家によって考案された空虚な言葉である。それを反駁することは風車との戦いを企てることである。しかし、理性は、我々の生を照らし我々が自分の行為を修正するように強いるものだが、それは幻想ではまったくないし、その権威は決して否認できない。善を追求する上で理性に従うことは、人類の巨匠たちの教えの実体であり、イエスの教義の実質でもある。それは理性そのものであり、我々は、理性を使用することによって、理性を否認することはできないのである。

人の子というフレーズを利用しながら、イエスは、あらゆる人間が善と理性に向かう共通の衝動をもっていると教えている。「人の子」が「神の子」を意味するということを証明しようと試みることは無駄なことである。「人の子」という言葉でそれが意味するものと違うことを理解することは、イエスが、自分が言わんと望んだことを言うために、意図的にまったく違う意味をもつ言葉を利用したと想定することである。しかし、かりに、教会が言うように、人の子が神の子を意味するとしても、それにもかかわらず、人の子というフレーズは人間に当てはまるのである。なぜなら、イエス自身があらゆる人々を「神の子」と呼んだからである。

「人の子」の教義は、ニコデモとのやり取りの中で、最も完全な表現を見出す。あらゆる人は、その物質的、個人的な生、および、肉における誕生の意識とは別に、霊的な誕生(ヨハネ3:5,6,7)、内面の自由、内面にある何かについての意識をもっている。これは、いと高きところから、我々が神と呼ぶ無限からやって来る(ヨハネ3:14-17)。さて、もし我々が真の生を所有したいのであれば、この神から生まれる内的な意識を、人間における神の子を、我々は所有し育まなければならない。人の子は、神と同質(同じ族のもの)である。

自分自身の中にこの神の子を高く掲げる者は誰でも、そして自分の生を霊的な生と同一視するものは誰でも、真の道から迷い出ることはないだろう。人々が真の道からさまよい出てしまうのは、自分の中にあるこの光を信じないからである。ヨハネが「神の内に生があった。生は人々の光であった」と言ったとき(ヨハネ1:4)、彼はこの光について語っているのである。イエスは、神の子である人の子をあらゆる人々に対する光として、高く掲げよと我々に語る。我々が人の子を高く掲げたとき、我々は、その導きなしには何もなしえないことを知るだろう。「この人の子とは誰か?」と問われて、イエスは次のように答える。

「まだ少しの間、光があなたがたのところにある。光をもっている間に歩め。闇があなた方をとらえないためである。そして、闇の中を歩む者は自分がどこに行くのかを知らない」(ヨハネ12:35)。

人の子とは、あらゆる人間の内にある光であり、それが彼の生を照らし出しているはずである。「ゆえに、あなたの中にある光が闇とならないように注意せよ」。これが、イエスが民衆に向けて発する警告である(ルカ12:35)。

人類の様々な時代のすべてを通して、我々は、人間とは天からの神的な光を容れる器であるという同じ思想を見い出す。この光は理性であり、理性のみが真の幸福への道を示すことができるのだから、われわれの崇拝の対象であるべきなのだ。これは、ブラーマンによって、ヘブライの預言者たちによって、孔子によって、ソクラテスによって、マルクス・アウレリウスによって、エピクテトスによって、あらゆる真の賢者たちによって言われてきたことである。すなわち、哲学的な理論を積み上げるだけの人ではなく、自分自身および他者のために善を求めた人々によって言われたことである。しかしながら、我々は、贖罪の教義に従って、我々の内にある光について考えるのは全く余計なことであり、我々はそれについてまったく語るべきではないのだと、断言するのである。

信者たちは言う、我々は、三位一体の三つのペルソナを学ばねばならない。そのペルソナの各々の本性を知らなければならないし、どのようなサクラメントを行うべきか、あるいは、行わざるべきかを知らなければならない。なぜなら、我々の救いは、我々自身の努力に懸かっているのではなく、三位一体と定期的なサクラメントの実行に懸かっているからであると。また懐疑論者は次のように言う。我々は、この微小の物質の粒子が無限の空間、無限の時間において進化してきた法則を知らねばならない。しかしながら、理性のみによって、我々が真の幸福を確保できると信じるのは馬鹿げたことである。なぜなら、人間の状態の改善は、人間自身に懸かってるのではなく、我々が発見しようと努めている法則に懸かっているからである。

数世紀後、我々が現代の科学的活動と呼んでいるものの歴史は、未来世代にとって、笑いや憐れみの対象となるだろうと、私は堅く信じている。彼らはこう言うだろう、何世紀にもわたって、ユーラシア大陸の西側の学者たちは伝染性のある狂気の犠牲者となった。彼らは、自分たちが永遠の至福の生を所有していると想像し、そして自分では地道な作業することもなく、すでに所有している生を改善するために何をすべきかに関心を抱くこともなく、この至福の生が実現される仕方を決定しようと試みる様々な労作の執筆に忙しかったと。そして、未来の歴史家にとってもっと物憂げなことは、この人々にはかつて師がいて、その師は、彼らに多くの単純で明快な規則を教え、彼らの生を幸福なものにするために何をしなければならないかを指摘し、そして、この師の言葉は、ある者によっては、その師が雲に乗っていつか人間の社会を作り変えるためにやって来るだろうということを意味するように解釈され、また別の者によっては、それは立派な教義だが実行不可能であって、それというのも、人間の生は彼らがそうだと考えるようなものではないし、したがって、考察に値しないからだ、人間の理性に関して言えば、それは個々人の人間の幸福に関心を寄せることなく、想像的な存在についての法則の研究に関心を向けなければならない、というように解釈されたということである。

イエスの教義は、この地上では、文字通りの仕方で実行されることはできない、なぜならこの地上の生は本質的に悪であり、真の生の影にすぎないからだと教会は言う。最良の生き方は、この地上での生を軽蔑し、そして、来るべき幸福で永遠の生に対する信仰に(すなわち想像力に)導かれること、そして、この地上では悪い生を送り続けながら、良き神に祈りを捧げることなのである。

 哲学も科学も一般の世論も、イエスの教義はあるがままの人間の生には適用できない、なぜなら人間の生は理性の光に拠っているわけではなく、一般的な法則に拠っているからであると、口をそろえて言う。ゆえに、理性に絶対的に従いながら生きようとするのは無益である。我々は、歴史的社会学的進歩の法則に従って、長い間とても不完全な生き方をした後で、突然自分の生がとても良いものになったと見い出せるだろうという信念をもって出来る限り生きていかねばならない。

人々がある農場にやって来たとしよう。彼らは、そこに、生活を維持するのに必要なものすべてを見い出す。調度品が揃っている家、穀物が満杯の納屋、食料や農機具や馬や牛がいる貯蔵室や物置。要するに、快適で安楽な生活のために必要なものはすべてそこに見出せるので、誰もがこの有り余るものの利益に与ればなあと思うが、誰も自分のことしか考えておらず、他者のことや自分の後に来る人々のことは考えに入れない。誰もがこの全体を自分一人のものになればと望み、手に入れられるだけのすべてをつかみ取ろうとし始める。そのとき、真の略奪が始まる。彼らは戦利品を我が物にしようと戦う。牛や羊は殺される。荷車や他の道具類は壊され、薪に変えられる。彼らはミルクや穀物のために戦う。自分で消費しきれないほどのものを手に入れようとする。誰もが、すでに手に入れた戦利品が他人に奪われないかと思って、いまもっているものを静かに楽しもうと腰を下ろすこともできないが、結局は、もっと力がある者に引き渡すことになる。これらの人々は、みな、傷つき腹を空かせながら農場を去る。その後に、主はすべてを元通りにし、再びそこで平和に暮らせるように物事を整える。農家はふたたび物で溢れる宝物のようになる。そのとき、また別のグループがやってきて、同じ戦いと騒動が繰り返され、これらの人々もまた、傷つき怒りながら去っていく、なぜこれほど少なく粗悪な物しか与えてくれないのかと言って主を呪いながら。良き主はそれで意気阻喪することはないから、また生活を維持するために必要なあらゆるものを備え、同じ出来事が何度も何度も繰り返される。

とうとう、農場にやって来る者たちの間に、仲間に向かってこう言う者が現れる。「兄弟たちよ、我々は何と愚かなのか、何とすべては豊かに与えられているのか、そして何とすべては立派に設(しつら)えられているのか。ここには、我々や、我々の後にやって来る人々にとって十分なものがある。理性的に振る舞おう。互いのものを盗み合うのではなく、助け合おう。働き、作物を植え、物言わぬ動物たちの世話をしよう。そうすれば、誰もが満たされるだろう」。仲間のある者はこの賢者の言うことを理解する。彼らは、喧嘩をして互いに盗み合うのをやめ働き始める。しかし、別の者たちは、賢者の言葉を聞かなかったか、その賢者を信用していないので、以前と同様に、主の物の略奪を続ける。この事態は長い間続く。賢者の助言に従う者たちは、周囲の者たちに、こういう喧嘩はやめよう、主の物を無駄にするのはやめよう、そのほうが暮らし向きは良くなるだろう、あの賢者の助言に従おう、と言う。それにもかかわらず、多くの者たちは聞こうとしないし、信じようともしない。そして、事態は以前と大して変わらずに進んでいく。

これらすべては自然なことで、人々が賢者の言葉を信じない限り続くだろう。しかし、やがて農場にいる誰もが賢者の言葉に耳を傾け理解し、神が賢者の口を通して語ったのだ、そして、賢者自身はじきじきに現れた神様に他ならなかったのだと理解し、万人が彼の言葉に信を置くときが来るだろうと、我々は聞かされる。ところが、賢者の助言に従って生きるかわりに、各人は自分自身のために戦い、情け容赦なく殺し合い、こう言うのだ。「生存競争は避けがたい。我々にはそれ以外にどうしようもできないのである」。

これらすべては何を意味するのか? 動物たちでさえ、仲間の欲求に干渉することなく、野原で草を食んでいるというのに、あの人々は、真の生活の条件を学んだ後でも、あの賢者自身が彼らに真の生活の仕方を示したと確信した後でも、依然として悪しき生活習慣にしたがっていて、それ以外の生き方をするのは不可能だ、などと言っている。あの賢者の言葉を聞いた後でも、以前と変わらぬ生活をし続け、他者の口からパンを奪い取り、戦いすべてを自分の手中に収めようとし、かえって自分自身が破滅していくというのであれば、農場にいるあの人々についてはどう考えたらいいだろうか? 彼らは賢者の言葉を誤解したのだ、そして事態が実際とは違うあり方をしていると想像したのだ、と言うべきであろう。賢者は彼らに言った。「あなた方のここでの生き方は悪い。生き方を改めよ、そうすれば良い生活になるだろう」と。そして、彼らは、あの賢者が農場での生活を非難し、彼らに別のより良い生がどこか他の場所にあると約束してくれた、と彼らは想像した。農場は一時的な住処にすぎず、そこできちんと暮らそうと努めることは価値がないと彼らは心に決めた。重要なことは、別のところにあると約束された別の生を騙し取られないことだ。これこそ農場の人々の奇妙な振る舞いを説明できる唯一の仕方であって、彼らのある者は、あの賢者は神だったと信じ、別の者は、知恵のある人間だったと信じるが、誰もが、賢者の言葉など意に介さず、前と同様の生き方を続けるのである。彼らは、あの賢者の教えに含まれるすべてのことを理解したが、たった一つの重大な真理だけは理解しなかった。その真理とは、彼らは自分の農場における平和と幸福を自分自身で勝ち取らなければならないという真理である。彼らは、別のところで所有できる良い生のことをつねに考えながら、農場を一時的な住処と見なすのである。

賢者の教えは立派で神的ですらあるが、それは実行困難であるという奇妙な断言の起源はここにある。 キリストが炎の馬車に乗って自分達を助けに来てくるのを待ちながらでも、人々が悪しき生活習慣を止めてくれさえすればいいのだが! 物質の諸力を動かす微分・積分の法則やら何らかの歴史的な法則に訴えかけるのを止めてくれさえすればいいのだが! 彼らが自分自身を助けようとしなければ、誰も彼らを助けに来てくれることはない。そして、自分がより良い生活を送れるよう自助努力をするには、天や地から何も期待する必要はない。自分自身の破滅に結びつくような生活習慣を止めさえすればよいのである。         」 (おわり)


 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。