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メタファーとしての情動   [最近の論文]

メタファーとしての情動  近年の情動論の一動向

1. 情動についての古典的な見解
2. 「世界の魔術的変容」
3. ソロモン:情動の合理性から情動のポリティクスへ
4. 情動の社会性
5. メタファーとしての情動

 “Emotion”―― ここでは「情動」と訳しておく――とは何か。
 「情動」の定義の試みを以下でいくつか紹介することにしよう。最終的に得られる答えを先取りして言えば、「情動は定義できない」。それは、情動があまりに多くの要因と重なり合っているからなのだが、ここには消極的な意味合いはいささかも込められてはいない。つまり、「できない」という点に強調が置かれているわけではない。むしろ「情動とは何か」という問いかけが成り立つための前提を崩すことが目的である。その問いかけが成り立つためには、情動という定義可能な「もの」がなければならないだろうが、その前提を否定することが以下の狙いの一つである。
 まずウィリアム・ジェームズから始めてみよう。ジェームズは情動の源泉を、身体内に生ずる生理的変化に求めた。ジェームズは、デカルト以降の伝統に忠実であったし、その後多くの反駁を受けたにもかかわらず、その外観を変えながら命脈を保ちつづけており、自然科学的な構えをとる今日の情動論にとっても一つの基本的前提をなしている、と言えるだろう。
 しかし、1970年代以降、その前提を根本的に見直そうとする動きが活発となった(すでにサルトルが先鞭をつけていたのだが)。それは、情動を伝統の縛りから解き放して人間固有な現象として捉える試みであり、日常的な社会生活の中で与えられるがままの情動のあり方を記述することから始める試みであり、従来の伝統とはまったく違った所に、情動を把握するためのモデルを求める試みである。そこから、「情動とは判断である」、「情動とは一種の戦略である」、「情動とはコミュニケイションである」、「情動とはシナリオあるいはストーリーである」等の多様な定義が提起されることになった。これらは一見無関係に見えるが、じつは相互に深く関係している。それらは、いずれも、デカルト-ジェームズ的な生理学的伝統から情動を解放しようとする試みのヴァリエイションだからである。この対立関係の由来と経緯を概観し、新たな方向性を持った見解に何がしかの意味づけをしてみたい。

1. 情動についての古典的な見解

 情動(emotion)とは何か。その問いに対して、ウィリアム・ジェームズが与えた答えは非常に単純なものだった。ジェームズは、なんらかの身体的変化を伴うような情動を「標準的情動(standard emotion)」と呼び、そのような変化を伴わない情動をこの論文では扱わないと断った上で、次のように記す。
 「これらの標準的情動についてわれわれが抱く普通の考え方は、ある事実についての心的な知覚が、情動と呼ばれる心的作用を引き起こし、この後者の心的状態が身体的表出を産み出す、というものである。これに反して私の主張は、身体的変化が、[情動を引き起こす]事実の知覚の直後に起こるということであり、[身体に]生ずるのと同じ変化を感じることが情動なのである」(1)。
つまり、通常の考えでは、心的な知覚→情動→身体的反応となるのだが、これは間違いで、なんらかの知覚から間をおかず、無媒介的に身体がそれに反応し、その反応を感じ取ることで情動が生ずる(知覚→身体的反応→情動)、というわけである。さらに引用を続けよう。
  「常識的な言い方によると、われわれは財産を失い、悲しくなって泣く。われわれは熊に出くわし、びっくりして逃げ去る。われわれはライヴァルに侮辱され、怒り殴りかかる。ここで擁護されている仮説によると、この順序は不正確であって、一つの心的状態[情動]は、もう一つの状態[知覚]によって即座に引き起こされるいるのではないのであって、身体的表出がまず間に挿入されなければならないのである。より合理的な言い方をすれば、われわれは泣くから悲しく感じるのであり、殴るから怒るのであり、震えるから怖いのであって、悲しいから泣く、怒っているから殴る、怖いから震えるわけではない。知覚に次いで生ずる身体的状態がなければ、その知覚は実質上たんなる認識とかわらないことになってしまい、生気がなく、無色で、情動の暖かさをかいたものとなるだろう。もしそうならば、われわれは熊を見て、逃げ去るのが最上だと判断したり、侮辱を受けて殴りかかるのが正しいと考えることはあっても、実際に怖しとか腹立たしいと感じることはできなくなるだろう」。
 ここで述べられていることの不合理さというか、実感との乖離を指摘することはたやすい。泣いたり、殴りかかったり、震えたりといった「身体的表出(bodily manifestation)」を伴わない情動の実例を挙げることは、誰にでもすぐできることだろう。そのような反論を先取りして、あらかじめジェームズは、ここで問題にしているのはあくまで「標準的情動」なのだという条件をつけていたのだが、それは見かけだけのことである。論文の後半部分で、一見「情動の暖かさをかいて」いるように見える「知的感情(intellectual feeling)」であっても、必ずやなんらかの「身体への反響(bodily reverberation)」を伴っているのだと述べているのだから(2)、ジェームズにとって、すべての情動は「標準的情動」なのである、つまりはなんらかの「身体的変化」を含んでいなければならないのである。しかし、財産を失うことがなぜ「泣く」ことに直結するのか。悲しいからなのではないか。たしかに熊に遭遇したなら、全身総毛だって逃げようとするだろう。だが大型の熊のぬいぐるみを見ても、身体は自動的にそのような反応を示すのか。やはり「本物の熊だ。怖いぞ」という判断が、知覚と身体変化の間に介在しているからこそ、そのような違いが生ずるのではないか。また熊との遭遇といった生命の危機を含意する出来事ならいざ知らず、侮辱といった高度に文化的な観念に対してまでも身体は即座に反応するものなのか。たぶんジェームズは、侮辱されてカッとなり頭に血が上るというような経験を念頭においていたのだろう。熊との遭遇にせよカッとなる経験にせよ、そうじてジェームズの念頭にあるのは短期的な(あるいは瞬間的な)出来事なのだろう。だが情動がすべて短期的だということはなんら証明されてはいない。悔恨は? 不安は? 復讐心は? 自尊心は? またそれらに特有の身体的表出なるものを、何か挙げることができるだろうか。
 このような一見して判る不合理な点にもかかわらず、ジェームズの考え方には、そう簡単に否定し去ることのできない要因が含まれている。二点だけ取り上げてみよう。
ⅰ) 情動vs 知性 
 ジェームズは情動を知性との対立関係において把握しているように見える。情動から身体の関与を取り去ってしまえば、「知性的な知覚という冷たい中立的な状態が後に残るだけ」だろう(3)。それは、鼓動が早まり、息遣いが荒くなり、唇が震え、足がガクガクし、鳥肌がたち、内臓が液状化することもなく、「熊がきた、逃げるのが得策だ」と冷静な判断を下す「感情のない認識(feelingless cognition)」のことであるが、このような「まったく身体から切り離された(disembodied)人間の情動なるもの」は考えられないだろうというのである。たしかにそのようなものは考えられない。身体の関与がなければ、すべては冷血な認識に平板化されてしまうだろう。身体の関与があって初めて、認識の冷血さに暖かさと熱が加わる。そしてそれを感じることによって情動が生ずるとされるわけだが、 見られる通り、ここには、つぎのような二組の対立関係が前提されている。
         認識(知性)  ⇔  身体
         認識(知性)  ⇔  情動
そこに、「情動とは身体的変化を感じることである」というあの定義を重ね合わせるならば、この二組の対立関係はほとんど同じことに帰着する。つまり
         認識(知性)  ⇔  情動(身体的変化を感じること)
だが、ここには一種の混同があるように思われる。「認識(知性)  ⇔  身体」は、デカルト以降お馴染みの心身二元論の対立図式であるのに対して、「認識 (知性)  ⇔  情動」の方は、「心」の内部での対立関係である。情動から身体の寄与部分を取り去るならば冷血な認識が残るだけというジェームズの想定を額面通り受け取って裏返してみれば、情動とは認識に何かが付け加わった結果だ、ということになるだろう。つまり、情動は認識を前提にしていることになる。ただし「身体からの反響」が加わるために、「冷血な認識」は「熱い認識」にならざるを得ない。それが情動なのである、と考えることはできないだろうか。もしそう考えるならば、情動はあくまで一種の認識である、ということになる。
 しかしジェームズは、このようには考えなかった。彼にとって、「認識(知性)  ⇔  情動(身体的変化を感じること)」という単一の対立関係がすべてなのである。おそらくジェームズは、この単一の対立関係に収斂させるために、あの定義を操作的に案出したのだろうと思われる。だが、それによって、「認識(知性)  ⇔  情動」の対立は、「認識(知性)  ⇔  身体」の対立に逆戻りしてしまうのである。情動は、一種の認識という身分を剥奪されて、身体の(あるいは物質)の側へと追いやられてしまう。情動には、いかなる意味での認識(知性)の要素も認められない、ということになる。そこから当然ながら、情動とはまったく認識を欠いたもの、したがって、まったく不合理なものということが帰結する。しかしはたして、情動はそれほど不合理なものであろうか。
  後のジェームズ批判は、情動の不合理性という問題に集中する。ソロモンのジェームズ批判はこの一点に集中していたし、また心理学内部では、シャクターが「情動のニ要因説」(つまり、身体的変化+認識=情動という修正ジェームズ主義)を提唱したり、「情動は認識を含むか否か」をめぐるザイアンスとラザラスの論争が生じたのも、同じ主題のヴァリエーションであった。
 ところが、ジェームズの情動論には不思議な曖昧さがあって、ジェームズ自身は情動が不合理だとも、認識を含んでいないとも言っていないのである。彼の関心は、あくまで情動を「身体的変化を感じること」として定義し、その定義の妥当性を説得的にすることにあった。だが、肝心の「身体」についてジェームズはどのように捉えていtたのか。この点が、ジェームズにおいて曖昧なのである。
ⅱ) 身体の(非)合理性 
 身体はその内奥においてわれわれの意思的コントロールの及ばないものであるから、情動が身体に根差すとされる以上は、情動もわれわれのコントロールの及ばないもの、ということになる。身体には身体独自の論理があり、情動はそれを受動的に反映するほかはないだろう。ソロモンは、ジェームズの用いる術語に、フロイトと共通する「水力学(hydraulic)」的な意味合いを嗅ぎ取っている(4)。「怒りに水門を開く(vent)」、「情念が表明されるさいの爆発的なエネルギー」、「感情の噴出(gushing)」、「それに栓をする(put a stopper)」ことは不機嫌をもたらす、「通常の出口がふさがれると、[神経の]流れが別の経路に侵入する」等々。水力学的メタファーは、一九世紀末の生理学にとって欠かせない小道具の一つだった。それは元来エネルギーの転位・移動を物理学的に記述するためのものであったから、それを「心的装置」の記述に転用することは、「意識」の意義を極小化するように作用する。これはフロイトの「無意識」の構想にはすこぶる有益であっただろう。しかし同じことを情動に当てはめることは、情動を、意識とは無関係な物理的過程に解消するように作用するのだから、ジェームズおいて、情動は、身体の水力学的論理を受動的に反映する(前意識的な)現象になってしまう。ジェームズの批判者たちが警戒するのもまさにこの点である。
 ところが、それとは別の側面もジェームズのうちに指摘できるのである。すべての生物の神経系は、特定の対象に遭遇して特定の反応をする生得的傾向の束のようなものである。猟犬の嗅覚は、鹿や狐の四肢の存在と緊密に結びついている。めん鳥は白い球形のものを見るや、それを暖める態勢をとらずにはいられない。雛が孵ると、めん鳥はまた新たな行動パターンで対処する。異性間の愛情、母親の赤ん坊に対する愛情、蛇に対する怒り、断崖に対する恐怖も同様に記述できるだろう。これらは神経系に生得的に備わっている環境適応力の所産であるが、そのさい重要な役割を果たすのが「予知=先取り」の機能である。ジェームズは‘nervous anticipation’という面白い表現を使っている(5)。すべての生物は、その環境において自らの生存を確保するために、この‘nervous anticipation’の能力を休ませることはないだろう。それにより自己にとって快・不快の徴候をすばやく感知して、それに見合うような行動の態勢をとる。こうした‘nervous anticipation’の一つが「情動」だというのである。
 もちろん人間においては、こうした生得的な適応反応は問題にならない。身体的な反応を自動的に引き起こすような特定の対象というものもない。身体的変化を引き起こさない対象であっても情動の対象になりうる。しかしこのことは、自説に対する反論にはならない、とジェームズは言う。よく知られた進化論の原理によると、「環境中のある要因に対して有用であったために、ある能力がある動物の中に固定化していったことがかつてあったとしても、その能力が、それを産み出したりそれ保存することと元来何の関係もなかった環境中の別の要因に対して有用であることが判明するということがあるだろう。ある神経系の放出への傾向がいったん確立すると、予測もされなかったありとあらゆるものが、その引き金を引き、結果を引き出すのである…。私の環境の中で最も重要な部分となっているのは、私が遭遇する人間である」(6)。
 つまり、かつて人間が情動という能力を培っていた自然環境はもはやなく、人為的な環境があるだけである。しかし環境の変化にもかかわらず、情動という能力は、その適用対象を変えただけで、いぜんとして有用性を失っていない。それは、対人関係の中で、私にとって快・不快(有用・有害、善・悪等の)の徴候をすばやく感知して、それに見合うような行動の態勢をとらせる‘nervous anticipation’の役割を果たしているのだろう。このような先取りが可能であるためには、ある状況から予想される先行きについての見通しを想像したり、それが私にとって有する意義を判断するという作業が必要であろう。確かに人間はこのような作業を瞬時に行っているだろう。しかし、ジェームズとともに、このことを「情動」という主題のもとで語ることは、少し奇妙なことではないだろうか。この点についてはすぐ後で立ち返ろう。
  それにしても、(神経系の集積としての)身体に対して、ジェームズが込める意味合いはおよそ一義的とは言いかねるものだ。水力学的な原理に従うエネルギーの貯蔵庫としての身体。環境に対して適合的に行動することを可能にするものとしての身体。前者は盲目的な暗闇であるのに対して、後者はまるで智慧の宝庫のようなものだ。おそらく身体にはそのいずれの要素も含まれているのであろう。ジェームズはそれを忠実に記述したにすぎない、と言えるかもしれない。もしそうであれば、「身体的変化を感じること」としての情動という定義も、確固たる一義性を持つものではない、と言わなくてはならない。ジェームズが目指したものは、生理学的解明を最終目標とするような情動論であった。だが1884年の論文は、その意図が命ずる以上のことを語っているのである。
ⅲ) 情動の社会性
 以上見てきたように、ジェームズの情動論は、その表面だけを見るならば、伝統的な(デカルト的)情動論の蒸し返しにすぎないように見えるが、それ以上のものが萌芽的に含まれていた。ジェームズによれば、情動の元来の機能の一つに「先取り」があった。侮辱されて殴り返すという例がすでに出てきたが、それは通常相手を殴ることがその場では許されることをあらかじめ見越した上での行為である。それは、先の状況の青写真ができて初めて可能なことだろう。軟弱だという評価だけは避けたいという判断が先行しているかもしれないし、あるいは「粗暴だ」というレッテルを貼られることを意に介さない人間だということを宣言したいがための行為であるかもしれないし、断乎たる示威行為であるかもしれない。ある人にじっと見つめられていることに気づきドギマギする。それは、その人の意図を察知した上での困惑であるかもしれないし、かすかな喜びであるかもしれないし、逆にその人の意図が読み取れず、したがって「先取り」できないことのもどかしさであるかもしれない。そのどれが正しいかはそのときの状況次第だろう。このような状況で「先取り」の能力を発揮するということは、きわめて複雑な(あるいは複雑になりうる)対人関係についての把握と、きわめて高度な知的能力(あるいは想像力)の行使を前提としているはずである。ジェームズはそのような点を視野に入れていたはずなのだが、しかし、なぜか彼がそこから引き出したのは、「身体的変化を感じること(the feeling of the bodily changes)」といういわば皮相な現象だけだったのである。
 情動の現象は、それ単独で生ずるということはほとんどない。つねにある種の文脈とその文脈についての理解を伴っている。つまり、自他の関係の把握、ある行為の是非についての判断、ある行為がもたらす帰結についての先取り等のことが絡み合ってある情動が生ずるのである。したがって「情動は認識を含むか」という問いには、当然「イエス」と答えなくてはならない。それに対して否定的に答える人は、情動が生ずる文脈を度外視して、個人の感情(the feeling)が発生する瞬間的状態に視点を集中しているのである。あるいは「熊に遭遇する」といったデカルト以降お馴染みの、文脈というものを考慮にいれる必要のない突発的で瞬間的な出来事だけを選び出しているからである。そうした稀な出来事をまるで典型であるかのように見なし、それに接したときの「身体的変化の感情」をもって情動の一般的定義を下そうとすることは、特殊性と一般性を混同することだ、と言えるであろう。
 ジェームズは、情動の社会的側面をたぶん視野に入れていたはずなのに、それをなぜ情動の定義に反映しようとはしかったのだろうか。それは、情動とは個人的な(個人の内部で生ずる)現象であるということが、あまりにも自明だったからであろう。実際、そのことを否定する人がいるだろうか。私の怒りは、誰とも共有されることはない私だけの経験である。だが同時に私の怒りは、つねに誰かに対する怒りであり、何かについての怒りであるはずである。私は怒りを外に向けて表わさなくとも、たった一人でいようと、私の怒りは私の内部に滞留してはいない。それは私の外部に向けられているのである。この点をもっとも強調した哲学者に、すでに何度か引き合いにだしたロバート・ソロモンがいる。ただしソロモンは、サルトルの情動論から出発してそれに改良を加えていくという仕方で自説を展開したのだから、サルトルの見解をまず見ていくことにする。

2. 「世界の魔術的変容」

 サルトルの『情動論素描』は、ジェームズから視線を移行する人に対して、まるで風景が一変したかのような印象を与えるにちがいない。それは、生理・心理学的な非人称の世界から、人称的世界の直中に連れ戻すからである。残念ながら、そこで提起された定義の大仰さのためか、いまやあまり取り上げられることもなくなったが、その着想はいまだ古くはなっていない。ジェームズとの際立った違いを簡単に列挙してみよう。
・ 生理学への還元という意図はまったくない。したがって、情動を個人の内面の瞬間的状態に切り詰めて見ようとすることもしない。
・ 生理学的還元主義が、既述の通り、意識の意義を極小化する方向に向かうのに対して、サルトルは情動を意識の作用として捉える。
・ 情動が意識の作用であり、作用にはつねになんらかの目的(finalit?)が内在している以上、情動の目的とは何かが問われなければならない。サルトルはこの点を精神病理学者ジャネの著作『妄想と精神衰弱』から学んだようだ。
・ サルトルは、「意識とは何かについての意識である」という現象学の格率を情動にも当てはめる。「情動的意識はまず世界についての意識である」、「情動は、世界を把握するある種の仕方である」(7)。サルトルにとって、その格率は、考察のあり方が心理学的抽象化に傾斜することを防ぐために、たえず留意されるべきものであった。心理学者は、たとえば情動を考察するとき、情動を情動の対象から切り離して、情動そのものに埋没してしまうが、それによって「情動はたえず対象に立ち戻り、そこで糧を得ている」ことを忘れてしまう。サルトルにとって、この情動とその対象との相関関係に対する留意は一貫しており、情動そのものの定義にまで反映されるのである。
 さて、サルトルの見解を概略的に述べてみよう。そのために彼がヒントを得たであろうジャネの症例を取り上げるのが好都合である。
ⅰ) ジャネの症例 ― 情動の目的 
 病状の経緯を打ち明け然るべき対処法を授かるためにジャネのところにやって来たのに、最後の最後まで打ち明けることが出来ず、遂にはワっと泣き出してしまう(時には神経的な発作に見舞われる)いく人もの患者を診た経験から、ジャネは情動についてわれわれが持つ意識は、「失敗についての意識であり、失敗した行動についての意識」であるという洞察を得た。神経症周辺の病気については、その原因にまで遡って述べたてることは、しばしば大変困難である。そこには口外したくない個人的事情が秘められていることだろう。「なされるべき行動はあまりに困難である。涙や神経の発作は失敗した行動を表わしているのであり、それは、最初の行動[石に打ち明けるという行動]にとって代わったのである」(8)。
 ジャネはこの洞察を機械論的に解釈してしまうのだが、サルトルは目的論的に解釈しなおす。つまり、患者が泣くのは、打ち明けることが出来ないないからなのではない。打ち明けるという行動を「しないために」、「なにも言わなくてすむために」泣くのである、とサルトルは解釈する。それによって情動の中に目的性を導入するのである。
「もしわれわれがここで目的性をまた導入するならば、情動的行動は決して混乱などではないことが理解できる。それはある目的をめざす諸手段の秩序だったシステムなのだ。そしてこのシステムが呼び出されるのは、することが出来ないもしくはしようとは思わない行動を隠したり、それを[他の行動によって]置き換えたり、脇に追いやったりするためなのだ。同時に、情動の多様性の説明も簡単なものになった。それらは、どれも、困難を回避する違ったやり方であり、特殊な逃げ道、特別なペテンなのである」(9)。
 見られるとおり、ここにはジャネの「失敗した行動」としての情動という定義の大胆な一般化がある。精神科の診療室から得られた見解を情動一般にまで拡大できるのかという疑問がすぐ出てくるだろうが、この点は後回しにしよう。留意すべきなのは、情動とは「ある目的をめざす諸手段の秩序だったシステム」であるという規定であり、そこに発想の根本的転換があるということは容易に見て取れるだろう。デカルト-ジェームズ的な伝統において自明であった「情動=受動的現象」という前提は、きれいさっぱり払拭されている。情動とは、目的をめざす能動的行為なのである。この点を終始一貫して強調したことが、サルトルの情動論の際立った特質なのである。
ⅱ) 世界についてのプラグマティックな直観
 すでに触れたように、「情動的意識はまず世界についての意識である」、「情動は、世界を把握するある種の仕方である」。恐れは、あるものについての恐れであり、喜びもある事柄についての喜びである等々。それは、世界の中のもろもろの事象に関わる行為である。あることを恐れたり、あることを喜ぶことは、一面から見れば、その行為者の内面的な経験にすぎないが、多面から見れば、その人にとって世界(の中の事象)が恐ろしいものとして、あるいは喜ばしいものとしてたち現れるあり方なのである。ここでサルトルが「世界」という言葉をいかなる意味で使っているのか、ということを簡単に見てみよう。
 ある目的をめざしてある行為をするとき、その目的に達するためには一連の手順を通過しなくてはならない。その手順は、われわれの意欲や意図に応じて一様ではないし、複数の道(手段[moyen]) が分岐してそのいずれかを選択しなければならない。複数の道が、実現されることを要求してひしめき合っている。それらをかき分けながら一本の道を拓いて行くことが、行為するということなのだろう。行為者にとって、彼をとりまいている世界は、実現されるべき道(手段)が刻印されている(しかもその都度の行為や欲求におうじてその相貌を変える)地図のようなものである。これをサルトルは、世界の決定論についての「プラグマティックな直観」と述べている(10)。ハイデガーの道具分析がサルトルの念頭にあったことは間違いないが、ただしそれは肝心なことではない。世界を構成している道は平坦なものではなく、「細くて険しい」のである。いたる所に落とし穴や罠が仕掛けられている。したがって「この世界は困難なのである」(11)。ジャネのあの婦人は、病気を治すために病院に行った。診療室、医師、病状説明、過去のエピソードの数々。そのとき彼女にとって、目的に到達するためのこれまでの道が、忌まわしい「落とし穴」に通じるものとして立ち現れていたのだろう。
ⅲ) 世界の魔術的変容
 こうしてサルトルは「情動とは何か」についての一般的な説明に移る。情動とは「世界を変容させること(transformation du monde)」である(12)。通常の行為は、あらかじめ「地図」に刻印された道を選ぶことによって決定されるわけだが、どの道も困難で落とし穴だらけに見えるような場合はどうなるのか。それでも行為しなければならないならば、「そのときわれわれは世界を変えようと試みる」。つまり、世界を、通常のように地図に記されている道によって定められているものとしてではなく、「魔術(magie)」によって決定されるものとして生きるのである。情動とは「世界の魔術的変容」なのである。ジャネの患者について、サルトルは次のように述べている。
 「その患者は、ジャネのうちにある感情を生じさせたいのだ。つまり、彼女は、ジャネのひたすら患者の言うことを聞こうとする冷静な態度を、思いやりに満ちた好意的態度に置き換えたいと思っている。彼女はそうなることを望み、自らの身体を使ってジャネに好意的な態度を取らせたいのだ。同時に、病状の告白が不可能となるような状態に身を置くことによって、彼女は、なすべき行為を自分の手の届かない所に投げ捨てるのである。いまや、彼女が動揺して泣きじゃくっている限り、話すという可能性はまったく無いに等しい。ここで、可能性は抑圧されているわけではない、告白は依然としてなされるべきなのである。しかしそれは彼女の手の届かないところに遠ざかってしまい、その告白をしようと思うことはもはや出来ず、いつか告白出来ればと願うことしかできないのである…。情動の発作は、ここでは責任の放棄である。世界の困難についての魔術的な誇張がある…。世界はあまりに過度なことをわれわれに要求する、つまり、人間として差し出すことの出来ないことを要求するがゆえに、世界は不正で敵対的なものとして現れるのである」(13)。
 サルトルの情動論は、情動とは何かを論じながら、いつのまにか、情動(に囚われる人間)を断罪するかのような方向にそれて行ったようだ。告白できずに泣きじゃくる患者は、倫理的に非難されるようなことしたわけではないだろう。自己を偽っているわけではなく、むしろ泣くという行為によって自己のあり方を表明している、とさえ言えるのではないか。それはそれで一つの告白の形式だろう。逡巡して少しだけ先に延ばそうとすることが「責任の放棄」だとしたら、精神科の治療は成り立たない。フロイトがどこかで述べていたように、患者は医師に対して抵抗する権利をもっているのである。
 それにしてもなぜ「魔術」なのか。この「魔術」という語には、サルトル独自の人間観が込められているようである。「魔術というカテゴリーは、社会における人間の相互心理学的関係、より正確に言えばわれわれの他者知覚を支配している…。人間はつねに人間にとって魔術師なのであり、社会的世界はまず魔術的なのである」(14)。通常の「道」を知的廉直さをもって進んだり合理的な話し合いで事を処理するかわりに、感情的な経路に廻りこむことによって他者を動かしコントロールしようとする、そのような欺瞞や策術の総体が「魔術」であり、対人関係はそれに満ちている、というわけであろう。手段‐目的の連鎖からなるプラグマティックな世界を一挙に消し去り、「自らの身体を使って」、つまり涙、怒声、笑い等によって人を支配しようとすることに、サルトルは呪術と大差のない非合理性を見出すのである。そこから情動そのものが、否定的現象として現れてくるのである。情動は、世界の圧力から逃れるために意識が自発的に堕落して行く(se d?grader)現象である、というのである(15)。
 
3. ソロモン:情動の合理性から情動のポリティクスへ

 サルトルの見解のうちで、捨てるべきものと残しておくべきものを峻別しなければならない。サルトルは、従来の情動論を支配してきた生理学的な伝統とは完全に手を切ったつもりだったのだろうが、残念ながらその根底にある「情動=非合理性」という前提を共有している。その点で『情動論素描』は、その革新的な動機にもかかわらず、それが反駁しようとした伝統的見解の呪縛にまだあまりにも囚われていたのである。
 途中で注意を喚起したように、情動とは「ある目的をめざす諸手段の秩序だったシステム」であるというサルトルの考え方にはネガティヴな響きはなかった。また、「情動的意識はまず世界についての意識である」、「情動は、世界を把握するある種の仕方である」という捉え方もとくに問題はない。また「情動は世界を変容させること」という規定にも奇妙な所はない。通常のわれわれの行動は世界に対して「プラグマティックな直観」に導かれているのに対して、情動的な意識は世界を別様に把握する、たとえば「まばゆいものとして」あるいは「陰鬱なものとして」等々の色合いのもので世界を把握すると述べることには、特に奇妙な考えが込められているわけではない。その把握のもとで世界は別様に立ち現れてくるであろうし、その限りで「情動は世界を変容させるのだ」と言うことも許されるであろう。しかし、通常の意識のあり方と情動的意識のあり方の区別が、「理性-情動」の区別と等値され、さらに情動が「魔術」と等値されるやいなや、それまでの貴重な洞察がいびつに歪み始めるのである。
 ロバート・ソロモンは、サルトルの情動論がこのような偏向にもかかわらず「正しい方向に向かう大きな一歩である」であると感じていた(16)。サルトルは自分自身の洞察を『素描』では充分表わしきれていないまま特定の方向に歪めてしまった、と感じていた。まず検討されなければならないのは、「情動=非合理性」という前提である。その前提を正したうえでもう一度サルトルの情動論を見直すとしたら、どのような方向にアレンジし直せばいいのかという問題意識のもとで、彼の論文「情動と選択」(1973年)は書かれた。そこでソロモンは、情動は「志向的」であり、「判断」であり、「合目的的」であり、「選択」であり、「合理的」であるという点を強調するのだが、その骨子を簡単に見てみよう。
  ⅰ) 情動の合理性
 「情動と選択」でもっとも強調点が置かれているのは、「情動は判断である」ということである。しかも「規範的でありしばしば道徳的な判断」である(17)。たとえば、ある日私の車が忽然と消えた。その事実は、私を困惑させるかもしれないし、悲しませるかもしれない。逆に私は嬉しくなるかもしれない(「どうせ廃車同然だったので、手間が省けた」)。そこに「盗まれたにちがいない」という判断、言いかえれば「私に対して不正が行われた」という判断が加わるならば、怒りが込み上げてくるだろう。事実であるのは車の消滅ということだけである。その事実に対して、不正である、大きな損失を蒙った、どう対処すべきかわからない、それはかえって私を楽にするだろう等々の、事実から直接引き出されるわけではない判断が加わることで、初めて情動が湧き出てくるのである。「もし私がなんらかの不正がなされたと信じなければ、私は怒ることは出来ない。…同様に、もし私が私の恋人を称賛できなければ、私は愛することは出来ない。…もし私が私の置かれた状況をばつの悪いものと思わなければ、私は恥じたり困惑したり出来ない。もし私が損失をこうむったと判断しなければ、私は悲しくなったり嫉妬を感じたり出来ない。すべての情動がこのような判断を含意しているかどうかは確信がもてない。たしかに気分(憂鬱や幸福感)は特別の問題を差し出すだろう。しかし情動は概してこの特徴を要求しているように思われる。情動を持つことは、自分の置かれた状況について規範的な判断を持つことなのである」。
 情動とは判断である。そして判断が合理的であるのと同じ意味で、情動は合理的である。もちろん不合理な情動というものもある。だがそれは不合理な判断があるのと同じである。情動が「理性」に対立的に扱われるさいに、「一面的で、偏っていて…」といった類のネガティヴな述語が情動の弁別特徴として挙げられるが、厳密に考えれば、「理性」に基づいた判断であっても、「一面的で偏っている」ことを避けることは出来ないはずである。情動と理性の違いは、まったく別のところに求めなければならないのであるが、この点については後述する。
 また、情動とは判断であり、判断は広い意味での行為である。「あらゆる行為と同様、判断は世界を変えることをめざす」(18)ならば、情動も行為であり、世界を変えることをめざす。言いかえれば情動は「合目的的」である(「…するために」という説明が可能である)。この点はすでにサルトルが強調していた。だが、「自分の言い分を通すために怒る」、「重荷から逃れるために泣く」、「歓心を得るために笑う」等はありふれた行為であるから、「世界の魔術的変容」という大仰な言葉を持ち出す必要はない。それは、一種の「戦略」、他者を上手く操る(manipulate)ことによって、自分に勝利をもたらしてくれる戦略(winning strategy)(19)なのである。後にソロモンは、「あらゆる情動は、個人の尊厳と自尊心を極大化するための主観的戦略である」と一般化するのだが(20)、この点についても後述する。
 以上のように、情動の合理性と合目的性を前提にすれば、逆に、情動が一見非合理に見える理由も簡単に説明がつくだろう。
 第一に、情動が合理的な判断ではなく、非合理的であるように感じられるのは、情動の生じる状況が概して非合理であるからである。あるいは尋常ではないからである。尋常ではない状況が出現して、しかもそれに反応しなければならない場合、人はその状況をそれとして察知し、まずそれに相応しい反応をする。それが情動である。それは尋常ではない状況に対する合理的な反応である。
 第二に、情動が非合理であるように見えるのは、情動がしばしば短期的目的のために動員されることによる。それが長期的な目的と衝突すること多々あるだろう。ジャネの患者の「泣く」行為(そこに込められた悲しみ)が不合理であると言えるとしたら、それは治癒するという最終的目標に対して阻害的に働くからである。治療する立場から見れば、彼女の行為と情動はおろかな一時しのぎかもしれない。自己の言い分を通すために怒り出す人は、その場では安っぽい勝利を得られるかもしれないが、永続的な信頼関係を得るにはいたらないだろう。一時の感情で結婚や経歴を台無しにする人は珍しくないだろう。そうした感情は、その場では正当な理由を持ち、その場で設定された目的に適合しているだろう。長期的な視点との整合性を省みず、便利な道具として使用されることから、情動そのものが非合理であるように見なされるのだが、非合理であるのは情動をそのように利用する人間の方であって、情動そのものが不合理であるとは言えないのである(21)。  
 ⅱ) シナリオとポリティクス
 情動は判断であり、しばしば規範性を含む判断である。またそれは合目的的であり、その限りで通常の行為と異質なわけではない。情動は、他者との関係の中で、尋常ではない状況に対する正当な反応であり、自尊心を最大限に保つような戦略的な機能を果たしている。このようにして「情動と選択」(および3年後の大著『パッションズ』)は情動の合理的性格を最大限強調して行くのであるが、そこには検討なり再考の余地がある論点がいくつか含まれていた。とくに表題が暗示しているように、ソロモンは情動を一つの選択として(つまり選び取られたものであり、したがってそれに対して責任を負うべきものとして)見なしていたのだが、これは激しい批判に見まわれたようである。しかし残念ながら、この点についてソロモンは自己弁明の機会をいまだ見出していないようであるし、この点については触れないでおこう。その他の点についてもソロモンはいくつかの軌道修正を行っているが、そのうち二つの修正点に言及しておこう。
 一つの修正点は、「判断」に関わる。判断と言うだけでは、単独の行為というニュアンスが付きまとうが、ある判断が下される場合その前後の脈絡についての多くの判断が付随していることが通例である。したがって単独の「判断」というよりは、一連の判断が緊密に結びついて一つの有意味な全体を形成するような事態を言い表す言葉の方が望ましい。ソロモンは「シナリオ」という言葉を用いるようになる。「われわれの経験やわれわれの行為に個人的な意味が与えられるようなシナリオ」を情動は設定する。情動とは「ある特定のシナリオを構成する判断の集合」である(22)。たとえば、怒りを覚える人は、周囲の状況に対して、法廷のシナリオにしたがった意味づけをするだろう。怒りの対象は被告であり、それに対して直ちに裁きが加えられなければならない、という仕方で状況を捉えるのが怒りの機能である。怒りは独善的になりがちだが、それは、怒りが描くシナリオにおいて、怒りを覚える当人が原告と検事と裁判官(と、場合によっては死刑執行官)になるからであり、法廷での最高規範が社会正義というよりは、その当人の自尊心だからである。その自尊心の極大化を充足するような判決が即座に下されるからである。これはたしかに安っぽい(復讐劇の)シナリオの一つだろうが、こうしたお馴染みのシナリオ(不正には懲罰を下すべし、という社会的に是認された思想・行動のパターン)を習得していなければ、人はそもそも怒ることすら出来ないだろう。「愛という言葉がなかったならば、誰も愛することはなかっただろう」(ラ・ロシュフコー)というよりも、愛についてのシナリオがすでに豊富にあるからこそ、われわれ自身もそのドラマを演じようとするのである。また概して人はハッピーエンドのドラマを愛好するものだが、それは、日常生活においてわれわれの描く「情動のシナリオ」がほとんどつねにハッピーエンドで終わることの反映であろう(23)。こうした多様なシナリオの集積の上に、人間特有の喜怒哀楽は成り立っている。自分の置かれた状況とそれが含意する帰結をすばやく一つの有意味な「まとまり」として把握し、それに相応しい反応をすること。それは、おそらくジェームズが「神経系による先取り」に注目したときに念頭にあったことかもしれない。だがこの「先取り」は、人間において、神経回路を経由して直ちにある身体的変化と直結するというよりは、(当然ながら)言語的あるいは文化的なパターンへの翻訳という回路を経由せざるを得ない。その翻訳のプロセスが経由する標準化された回路が,
「シナリオ」という言葉で言い表されているのである。
 このソロモンの着想は、後に「パラダイム・シナリオ」という概念で情動を発生的に説明しようとしたロナルド・ディソウザや、ジェームズ・エイヴリルのような社会構成主義的情動分析の先駆である。しかしこの点に進む前に、もう一つの修正点に言及しなければならない。ソロモンは、1998年に発表された「情動のポリティクス」という論文において、「情動と選択」(および『パッションズ』)執筆当時を振り返って、当時の見解はいまだ「デカルト的伝統にとどまって」いたと記している(24)。「情動とは判断である」であるというテーゼを説得的にする過程で、ソロモンは、判断の道徳的・戦略的性格に何度も言及していたし、その限りでその社会的意味合いも視野に入れていたのだが、やはり情動を「個人的な経験として扱いつづけていた」。したがって、デカルト-ジェームズ的な伝統に対する仮借ない批判にもかかわらず、「内的な経験」という特権的な空間は温存されていた。他方で、アリストテレスがすでに暗示していたように、「情動に対するポリティカルなアプローチ」というものがあって、それは「情動を記述する枠組みとして、心も身体も用いることなく、社会的状況、そのありとあらゆる微細な倫理的対人的な複雑さにおける社会的状況を用いるのである」(25)。
 ここでソロモンが用いる「ポリティカル(あるいはポリティクス)」という語を単一の日本語に移し変えることは非常に難しい。もちろんそれは、すでに何度も触れた情動の戦略的(操作的)側面を指してはいるのだが、「ポリス、つまりある共同体の中での公共的な場面にかかわる」という意味合いも含んでいる。だから「心も身体も」情動を記述する枠組みにならない、と言のである。
 情動を記述するときに、参照枠として「心」にも「身体」にも頼るな。なぜならそれは「公共の空間」における出来事なのだから。こうした発想の方向性は、まったく別のテーマのもとで、後期ヴィットゲンシュタインやライルが述べていたことにある程度符合するかもしれない。個人主義的な発想から脱却して、すべてを社会的文脈に置きなおそうという発想は、20世紀の後半以降哲学では珍しくもないものとなった。しかし「情動」はそうした潮流にもっとも抗う現象の一つであろう。それはなんと言っても、個々人の内面、主観性の内奥に位置しているものと通常考えられているからである。「情動のポリティクス」はそのことをどれほどまで否定できるだろうか。
 もちろん情動がまったく主観的な側面を持たない、ということではない(それは明らかに偽であろう)。内的なものとして通常記述されることが、外的なこととして記述しなおすことが出来る、ということであるかもしれない。たとえば「恥辱」と「困惑」の違いを、個人の内面に限定していかに記述できるか。内面の感情に訴えることで、その違いが記述できるだろうか。なにか違う感覚が内面に生じているのか。それよりも「恥辱」には非難あるいは告発という意味合いがあるのに対して、「困惑」には差し当たり明確な方向性が得られず、非難の矛先をどこに向けていいか見当がつかない状態、と見るほうが的を射ているのではないだろうか。非難あるいは告発は、誰かに(自己自身を含めて)向けられるものである。人間は生まれてまもなく、泣くことが他者の注意をひきつけ、他者の行動を方向づけることを学ぶ。女性は、従順さの効果をやがて体得するだろう。粗野な人間は怒りを早い時期から武器とするだろう。情動は、対人関係の多様性を反映して、「説得から操作、威嚇」(26)までの多様な形式をとる。ただしそれはあくまで他者に対する働きかけ・関わり方に関連しているのではないか、という疑問が当然出てくる。実はこの点が「情動と選択」執筆当時のソロモンをひどく苦しめた疑問であったのだが、誰とも関わらない純粋に自分だけに関係するように見える情動の現象でもやはりポリティカルな意味合いは指摘できる。「情動の内的ポリティクス」と呼びうるもので、それは「われわれが、世界との関連において自分自身を位置づけ(あえて言えば)自分自身を操作する仕方である…。私が最初に情動の戦略の重要性に気づき始めたとき、当時私は(自分では認めていなかったが)デカルト的スタンスを取っていたのだから、真っ先に私を苦しめたのがそうした内的ポリティクスであった。ここでもまた怒ることが、典型的な例となるだろう。人が怒るのは、「体面を保つ」ためなのであり、それは他者の面前で体面を保つだけでなく、自分自身の面前でも体面を保つためなのだ」(27)。
 自尊心のポリティクス、良心のポリティクスというべきものかもしれないが、このようなことはすでに『パッションズ』でも度々触れられていたのである。そのことは、「あらゆる情動は、個人の尊厳と自尊心を極大化するための主観的戦略である」という『パッションズ』の定義から容易に窺うことが出来るだろう。しかし同時に、この定義からは、情動の在り処は個人の内部に求める他はないという考え方も窺えるのである。当時のソロモンとしては、情動のポリティカルな性格を把握してはいたが、それに相応しい枠組みを鮮明にできないまま、結局はデカルト的枠組みに留まるしか選択肢はなかったのだろう(サルトルもそうだった)。たしかに、情動はほとんど常に他者に関わり(あるいは他者としての自己に関わり)、その限りで対人的な現象であり、個人内部の空間というよりは、社会的空間で展開されるものかもしれない。かりにその考え方が正しい方向を目指しているにしても、そこに危険がないわけでもない。情動を個人の経験に限定しようとする人にとって、それは、情動というただでさえ捉えどころのない現象を、社会性というより捉えどころのない場面に定位させようという無益な試みに見えたであろう。

4. 情動の社会性

 しかしながらソロモンの着想は無益には終わらず、すぐさま賛同者を得た。その中には、ディソウザのような哲学者もいたが、ソロモン自身が『パッションズ』以降精力的に学際的研究に乗り出したことも手伝って、その多くは社会科学系の人たちであった。とくに社会心理学者ジェイムズ・エイヴリルの研究は、情動の社会的側面を浮き彫りにする点で傑出していた。「情動のポリティクス」がいかに具体化されうるのかという問題に対して、エイヴリル(とその周辺の人々)がいかなる構想で応えたのかということに少しだけ触れておきたい。
  ソロモンは「情動を記述する枠組みとして、心も身体も用いることなく、社会的状況、そのありとあらゆる微細な倫理的・対人的な複雑さにおける社会的状況を用いる」ようにしてみよう、と述べた。一方で、他者と関わり合い、一時的な (あるいは持続的な)関係を結ぶにいたる複雑な対人的プロセスがあり、他方では、そのプロセスがある様相を帯びるときに生ずる波紋が情動として立ち現れる。その両者の現象は反映しあっているのであろう(もっとも機械的な反映関係というものではないが)。従来の情動論の決定的な抽象性は、そのような反映関係の一方の極にのみ関心を注ぎ、他方の極を度外視したことにある。そこから、情動の在り処が身体や意識に局所化されたのである。その手順を逆転させて、社会的文脈から情動を見直してみるならば、情動も、ⅰ)他者と関わり合り、他者に働きかける行為として立ち現れてくるだろう。そして、ⅱ)他の(社会における)行為が、暗黙の内に、ある種の規則に則っているのと同様に、情動にも規則がある。というより情動は規則によって構成されている、というのが情動の「社会構成主義(social constructionism)」を標榜するエイヴリルの基本的主張である。もしそれが正しいならば、あらゆる情動は「構成されたもの」である。ⅲ)それは、情動を感じる人がその場で構成するという意味で「構成されたもの」であるが、その当人はそれを無から案出するというよりは、既存の「シナリオ」を転用することであるという意味でも「構成されたもの」である。以下これらの点を簡単に見ていこう。
ⅰ) コミュニケイションとしての情動
 情動は他者に対する働きかけであり、訴えでもある。このことを示す実例は、実はジャネが提供していた。ジャネのあの患者は、泣くことで、医師へと働きかけたのであり、医師に訴えたのである、と単純に考えていいのではないか。「許してください。正直に述べることが出来ません」と告白したのではないか。ジャネはそれを「失敗した行為の意識」と解釈したが、「正直に述べることが出来ない(つまり、失敗した)」ということはジャネに伝わったのだから、そのかぎりで患者の行為は、失敗したのではなく成功したのである。ジャネは情動の原因を情動そのものと混同したのである。おそらく、情動がある種の訴えであるということはあまりに自明であったために、言及するまでもないと思ったのだろう。実際そのことは、幼児の振る舞いを少しでも見知っている人にとっては自明のことだろう。サルトルのように、あの患者の振る舞いを「責任の放棄」と評するのはすこし酷のような気もするが、ある意味では的を射ている。ジャネの患者は、一人の大人の言語表現から幼児的な情動表現へと後退していると言えるであろうから。彼女は、いわば「患者-医師」の関係を、「幼児-庇護者」の関係に変容させたのであろう。
 しかしそもそも「情動とはまず「幼児-庇護者」の相互関係の一部として現れるものであり、したがって基本的にはコミュニケイションに関わる現象であって、プライベートな事象になるのは派生的なことである」というパーキンソンの言葉が正しいならば(28)、あの泣きじゃくる患者の振る舞いこそが情動の原初的形態であると言えるだろう。情動は、まず、誰かに対する未分化な訴えであり、分節化されざる意志伝達の試みとして開始されるのである。これは情動についての発生論的な見解であるが、大人においても、なにか強く訴えたいと思うときにこそ、言語的文節に先立って(あるいは同時に)情動が生ずるのではないか。
 ソロモンは「情動とは判断だ」と言ったが、それではまだ中立的すぎるだろう。判断とは、真偽を問える言明を下すことであり、平叙文として記述できるものだが、情動に含まれる言明は、平叙文とは違う構えを要求する。激しい怒りは他者対する非難を含む。それは確かに、「あなたは間違っている」という判断を含むであろうが、「罰してやるぞ」、「俺をなめるなよ」といった命令文に翻訳されるべき場合が多いだろう。罪悪感は自己に対する非難を含み、その根底には、「私は過ちを犯した」ではなく、「私を許してくれ」という訴えにまで先鋭化されなければならない。希望は成功の可能性を含むが、確率的な判断というより、「あきらめてはいけない」という決意の現れである等々(29)。判断があくまで非人称的な観点に立つ言語使用であるとするならば、情動はつねに特定の人間に対する呼びかけ・訴えである。その特定の人間とは、場合によっては、内面化された他者であったり、また対象化された自分自身であるかもしれない。内的な対話がなければ、どうして一人でいる時に怒ったり悲しんだりすることが可能であろうか。また自分自身を他者と見立てて、それに訴えかけることがなければ、どうして後悔という情動は可能であろうか(「どうしてお前はあの時あんなことをしたのか。恥を知れ」)。他者に対する訴えとしての情動は内面化されて、われわれが自分自身と(あるいは想像的な他者と)交わす無言の対話のなかで繰り広げられるようになる。それはまったくプライベートな事柄となる。だがそれは、パーキンソンが述べたように、あくまで「派生的な」現象であって、もとをただせば、特定の他者とのコミュニケイションという行為に情動は帰着するのである。
ⅱ) 情動の規範性・怒りのルール
 「情動を持つことは、自分の置かれた状況について規範的な判断を持つことである」とソロモンは述べたが、この規範性という点をもっとも詳しく追求したのはジェームズ・エイヴリルであった。
 怒りは、他者に対する非難を含む。非難されるべき不正が行われたのだ。その内容は状況次第で千差万別だろうし、怒りのあり方も無限に多様になりうるが、理不尽な怒りあるいは病的な怒りでもない限り、怒りが一方的な断罪(や処罰)という様相を帯びることはない。非難とはまず不正の指摘であり、その是正を求めることである。他者に対して、正・不正についての社会的な基準を思い知らせることである。理不尽なあるいは病的な怒りでもない限り、怒りはつぎのようなルールに従っている(というより、怒りはつぎのようなルールによって構成されている)、とエイヴリルは述べる(30)。以下は怒りのルールのごく一部を選び出したものである。
1. 人は故意になされた不法行為に対しては怒る権利(義務)をもつ。故意ではない悪事に対しても、もしそれが訂正可能であるならば(怠慢、不注意、見逃しによるものであるなら)、その悪事に対して怒る権利(義務)を持つ。
2. 怒りは人にのみ向けられるべきものである。
3. 怒りは罪のない第三者に転嫁されるべきではないし、怒りのターゲットに対して、怒りを誘発した理由以外の理由で、向けられるべきでもない。
4. 怒りの目的は、状況を改善し、公正を回復し、再発を予防することであって、怒りのターゲットに対して危害や苦痛を与えたり、恫喝によって利己的な目的を遂げることではない。
5. 怒りの反応は、怒りを誘発した原因に見合うべきである。つまりそれは、状況を改善するために必要とされるものを超えてはならない。
6. 怒りは、状況をただすのに必要な時間以上続いてはならない。
7. 怒りは、状況をただそうとする誓約や決意を含むべきである。つまり、適切な実行を意図しているのでないならば、怒るべきではない。無目的な怒りというものはあってはならない。 
 まず、怒りは、正・不正についての社会的な基準が共有されていなければ成り立たない。同じ基準が共有されていなければ、それを侵害したという意識が双方どちらにも生ずるとは限らないし、相手に不正の是正を求めることも意味をなさなくなる場合も出てくるだろう。よそ者(あるいは文化的背景が異なる人)が何らかのルールを破ったとしても、それにすぐ怒りを感ずるわけにはいかない場合が多い。むしろその場のローカル・ルールを説明してやることが先決問題となる。
 怒りには、上述のような運用上のルールにのっとった上での振る舞いである。しかしそのルールそのものに違反があった場合には、怒りは不当なものになるといいうるだろうし、その違反がはなはだしい場合には、もはや怒りとは呼べなくなるだろう。2・3・5・6の違反者は、その八当たり気味の執念深さのために、嘲笑の的になるだろう。4・5・6・7は、情動も結局は社会生活の一コマであることを示している。だれにとっても、社会での生活を円滑に営むことが最大の関心事なのであって、情動もそのために是認され、そのために抑制されるべきものなのである。そこからの逸脱は、怒りを犯罪行為あるいは病理学的現象に変質させる。 
 このようなことはほとんど誰もが知っていることであり、あえて「ルール」などという必要もないことであろう。それはちょうどコミュニケーションが文法というルールに従っていることを誰も意識しないのと同様である。もし既述の通り、情動が一種のコミュニケイションであるならば、情動も他者に向けて伝えようとする行為である。そのためには他者に理解され共有されうる形式を取らなければならない。私がいま抱いている感情が曰く言いがたいものであっても、それはすぐさま喜怒哀楽等のチャンネルに導き入れられて、特定の方向性を与えられなければならない。さもなければ私の感情は、誰にも理解されはしないだろうし、そもそも私自身にすら理解されることはないだろう。私自身が最初の他者であるかもしれないし、そうでなくてはならない。ジェームズが言うように、情動には身体的変化が伴うだろう。しかしその身体的変化によって生ずる漠たる混沌が、私自身によって理解され他者に共有されうるようになるためには、一定の規範的な形式が必要である。それらによって明確な形姿を得て初めて情動は情動となる。したがって純粋に個人的情動というものはない。情動は、たとえ表立って言い表わされなくとも、また私一人しか居らずそれを伝えるべき他者が間近にいなくとも、それが喜怒哀楽の限定された相のもとに立ち現れるとき、他者に向けられているのである。誰もが共有しうるこのような規範に従ってわれわれの情動は構成されているのだから、この意味での情動は、個人的なものではなく、「個人を超越した、したがって客観的な存在を持つ」とエイヴリルは述べるのである(31)。
 情動のこうした超-個人な側面を、エイヴリルは当初「一時的な社会的役割」という観点のもとで追及していたのだが、次第に彼はその術語の使用を控えるようになった。情動はつねに一時的なものであるというわけではないし、長期にわたって持続する情動もある。また瞬間的な情動にしても、そこには、情動を起こした原因の把握から、それに対する対処の仕方に関する顧慮に至るまでの複雑な要因が凝縮されているものである。それを展開するならば、そこにはおのずと「ストーリー」のような広がりが指摘できるはずである。ここでエイヴリルは、ソロモンが「判断」から「シナリオ」に移行したのと類似した理由によって、「一時的な社会的役割」から「ストーリー」に移行する。怒りの場合「中心的テーマは「俺を非難するな。悪いのは向こうだ。それに俺はどうすることも出来なかったのだ」ということである。怒りを感じることは、自分自身に対してそのようなストーリーを語ることである」(32)。
 ⅲ)  シナリオ/ストーリーとしての情動
 情動は、他者に向けられたコミュニケイションの行為であり、したがって他者に理解され共有される形式を要求する。しかも前後の文脈や時間的な広がりを考慮するならば、ストーリーを物語ることに喩えられる。この点について具体例を二つ見てみよう。
 情動は、それが産み出された文脈のなかに位置づけられている限り、その文脈における適切な反応として理解することが容易にできるが、いったん文脈から切り離されるやいなや理解困難になるものである。言いかえれば、単独で生ずる情動なるものは理解困難である。このことは、ケネス・ゲーゲンとメアリー・ゲーゲンの実証的な研究がよく示している。彼らは、20名の学生を対象にして、同学年の学生が部屋にやって来て、たとえば「私はあなたに怒りを感じている」と述べている挿絵を提示して、被験者がいかなる反応を示すかを調べた。結果は、一人の例外もなく「なぜそう感じているのか」を聞き返すという反応だった。つまり知り合いがやって来て「私は怒っている」等の情動的な発言をした場合、それに対して自由に反応できるわけではなく、その原因を尋ねる以外の選択肢は残されていないのである。それは、「なぜ」と聞き返すことが社会的な基準に適う唯一のあり方であるというばかりではなく、「なぜ」が「私は怒っている」の必須の部分ですらあるからだろう。「情動的表現は、それが物語の文脈の内に位置づけられない限り、意味や定義を欠くのである」(33)。「私は怒っている」で完結する感情はありえない。それは、「なぜならば…」につづく部分、つまり情動の原因となった事情なりストーリーを補充しないうちは、完結しないのである。言いかえれば、情動は、満たされなければならないストーリーの一部(あるいは表題)にすぎないのである。
 この仮想的な対話は、怒りの原因を尋ねられた友人がその説明を話すことによって続行される。たとえば「あなたが私の学業成績を第三者に漏らした」等の仮想的な説明が与えられ、それに対して被験者がいかなる反応をするかということが繰り返されるのだが、いくつかのステップの後に「悪かった」「いいや大したことじゃなかったんだ」といった具合に相互が歩み寄ってもう対話がそれ以上続かないところでストップする。相手の怒りが不適切に思えるような受け答えをしたり(「君のためを思ってしたんだ」)、怒りをもって怒りに反応する場合は、対話が長引いたり決して終わりを迎えられないこともあったが、やはり双方が歩み寄る場合が最も多かったようである。「情動のシナリオの終わりは、ほとんど決まって幸福な感情の表現を含んでいるように思われる。ネガティヴな情動の状態(怒り、嫉妬、憂鬱)が、シナリオの本当のエンディングとなるケースは、一つも見つけられなかった」(34)。すでに述べたことだが、情動は社会生活の円滑な営みのために是認され、またそのために抑制されるべきものであるからこそ、われわれの情動が描き出すシナリオは概してハッピー・エンドをめざすのである。
 情動は、このようにそれを補完しそれを具体化するシナリオ/ストーリーがなければ「意味や定義を欠く」ものであるならば、情動の核心にあると通常考えられている「感情(feeling)」はどうなるのか。それは、シナリオ/ストーリーの一局面を瞬間的に捉えたときに私の内面を支配している何かあるものかもしれないが、それを記述することはきわめて難しい。怒っているときの「感情」の瞬間に対しては、「かっとする」「ムカムカする」「イライラする」等まったく貧相な表現しか浮かばない。喜びの「感情」はどう記述できるか。優勝の喜びに浸っているスポーツ選手に「いまのお気持ちは」とインタヴューアーが問いただす状況を思い描いてみるといい、とセオドア・サービンは言っている。まずはまったくの紋切り型の答えが返ってくるだけだろう(「すばらしい」、「信じられない」)。これはスポーツ選手のボキャブラリーの貧困のせいではない。「いまの気持ち」を述べるということは誰にとっても難しいのである。その代わりに選手は、「練習の厳しさ、コーチの役割、家族の応援、収入の不安定さ等々についてのストーリー」を語り始める(35)。ストーリーという複合的連続体にとって、その時々の感情はその連続体の一断面であり、その一点にすぎない。だからそこに視線を集中させてそれだけを記述しようとしても、そこには語るべき何ものもないのである。もう一度エイヴリルから引用すると、「情動の感情は、その瞬間の事象だけをとらえるスナップ・ショットのようなものではない。むしろそれは、あるストーリーを描く動画に似ている…。情動の感情とは、われわれが自分自身の行動を導き説明するために自分自身に語るストーリーなのである」(36)。

5.  メタファーとしての情動

 「情動とは何か」。この問いに対して何か進展があったのか。情動とは、判断であり、コミュニケイションであり、シナリオである。これらは定義なのか。このようなメタファーで何か得られるものがあったのか。
 上で紹介した最近の情動論の一動向に共通する根本的な見解を、サービンは簡潔な言葉で要約した。つまり、「情動は一つのメタファーである」というのである(37)。本義的にあるのは、人間をとりまく状況とそれに対する反応だけである。喜怒哀楽とは、その都度の状況に対する反応であり、具体的な行為の一種である。だがそのような行為が社会的文脈から切り離され、「身体」や「心」に局所的に生ずるものと見なされ、まるで視覚や消化作用と同レヴェルのものとして扱われるようになるとき、「情動」なるものが、その抽象的相貌をともなって浮上してくるのである。「情動」は、このような「移し変え(metapherein)」、社会的文脈から「身体」ないし「心」の閉鎖空間に移し変えられることによって、初めて生成するのである。元来の文脈から切り離された情動は、きわめて抽象的なものでしかない。すでに指摘したように、「私は怒っている」等の情動の表現は、それ単独では誰からも理解されない。それは、その原因となった具体的事象によって補完されないかぎり「意味と定義を欠く」ものでありつづける。同じことは情動一般にも言える。だから、「情動とは何か」という問いをその抽象的レヴェルにおいて受け取り、それに対して答えを出そうとする試みははじめから失敗しているのである。情動の一般的定義を下すことは出来ない。なぜなら、情動なるものは存在しないのであるから。存在するのは多種多様な社会的行為だけであって、そこから転義的に抽出されたメタファーという次元においてのみ情動は与えられるのであるから。
 思うに、情動とは戦略である、コミュニケイションである、シナリオである、ストーリーであるといったすでに紹介した見解は、情動の定義を下そうとしているのではないだろう。それは、情動を、いわばその「出生地」に差し戻してみようとする試みなのである。その出生地は人間の多様な行為によって織り成されている。ソロモンからサービンにいたるまでの試みがその出生地を特徴づけるにあたって、「シナリオ」や「ストーリー」といった演劇的な(dramaturgical)概念に訴えかけたのは偶然ではない。演劇(drama)は、ギリシャ語で「行為」を表わす‘dran’に由来する。すでに社会においてドラマが演じられていたのでなければ、舞台芸術としてのドラマもありえない(芸術は模倣(ミメーシス)なのだから)。また、いかなるドラマ=行為も、シナリオやストーリーがなければ開始されることすらないのであるから、ドラマ=行為の一形式としての情動にそれらが欠落するということはありえない。情動とはシナリオでありストーリーであるという言い方における「シナリオ」や「ストーリー」は、けっしてメタファーなのではない。情動の方がそれらのメタファーなのである。
 情動は行為の一形式である。しかも行為の際立った形式である。日常の行為のほとんどは匿名性に埋没しているか、手段-目的の連鎖のもとでただちに消失してゆくものであるが、やはりどんなちょっとした仕草や振る舞いであっても、行為は、その行為者の特質を顕わに示すものである(38)。だが、喜怒哀楽は、その行為者の何たるかを、その「同一性」、その「人となり」をとりわけ顕著に現わすという点で、際立った行為といえるだろう。あのジャネの患者は、泣くことによって何よりも彼女自身のあり方を示していた。あたかもそこで、それまで闇に没していた患者の人となりが突如としてスポットライトに照らし出されて、そのストーリーの核心部分が眼前に立ち現れたかのようである。情動から行為者の伝記の一部が読み取ることができるかのようである。
 情動に含まれるこのような側面を、カルハンは「伝記的主観性(biographical subjectivity)」という言葉で特徴づけようとした(39)。カルハンは、ソロモンと同様、情動の合理的性格を強調しながら、なおも、情動を理性から区別するのは何か、と問うた。情動は、言うまでもなく、主観的な現象である。だがそのさいの主観性とは、客観性の反対語として使われる意味での主観性ではない。それは、現実を歪んだ仕方で伝えるわけではないし、混乱した表象でもない。それは確かに、現実を公平で中立的な仕方で伝えてはいないだろう(だがそれは、情動だけに当てはまることではない)。情動は、行為者の来歴、その「人格的同一性」、その「人となり」(‘who we are’)を暴露するという点で主観的なのである。その主観性は、非合理性であるとか反理性ということと混同される「主観性」とはまったく別次元での主観性である、と述べてカルハンは、情動の合理性を維持しながら、情動の主観性を擁護するのである。
 情動とは、伝記的に主観的なものである。サルトルの「魔術的変容」もソロモンの戦略としての情動という考え方も、おそらく伝記的主観性に根差したものとして考えていいだろう。誰もが自分自身のストーリーをもち、そこでその主人公を演じている。そのストーリーによって要請された戦術なりシナリオを実行に移すとき、人は情動的にならざるをえない。なぜならまさに、その人の「自己自身」がそこに関与しているからだ。それはソロモンが述べたように、「個人の尊厳と自尊心を極大化するための主観的戦略」という色彩をつねに帯びるだろう。そこにその人の伝記的な主観性が凝縮されて現れるのである。
 だが、「ストーリー」にせよ「伝記」にせよ、誰がそれを書いているのか。そのストーリーの主人公自身が書いているのか。誰もが自分自身のストーリーを持ってはいるが、しかし誰もが、自分の望み描いたストーリーを持つに至らない。誰もが「個人の尊厳と自尊心を極大化するための主観的戦略」を持っているとしても、まさにその事実のために、その戦略が同時に満たされることはありえない。無数の主観的戦略が相互に衝突しては相殺される。行為するとは、そのような衝突と相殺のプロセスに巻き込まれることである。アレントが言うように「誰一人として、自分自身のライフ・ストーリーの著者あるいは産みの親であるような者はいない」(40)。行為はしばしばまったく望んでもいなかったストーリーとなって結実することがある。人はそれを演じながら耐え忍ぶしかない。そのとき感じられるのが、言葉の本来の意味での「パッション」なのである。人は、ストーリーを演じ耐え忍ぶが、それを産み出しているわけではない。したがって、情動にはその人自身の伝記的主観性が反映しているとはいえ、その伝記的特質はその人自身に対して秘匿されている。おそらくは、その人自身に対してもっとも秘匿されている、とさえ言えるかもしれない。
 情動は、こうした多様な「ストーリー」の断片を「伝える」ものである。他者に向かって。ときには、対象化された自分自身に向かって。ときには想像化された他者に向かって。ストーリーの登場人物に向かって。すでに述べたように、情動は、他者に伝達するという行為のもっとも原初的な形態である。それはやがて内面化されて、われわれが自分自身と(あるいは想像的な他者と)交わす無言の対話のなかで繰り広げられるようになる。もし、プラトンが言ったように「自己との無言の対話」が「思考」の原型であるならば、情動はその原型のさらなる原型であると言うべきであろう。われわれは一人でいるのに、しばしば怒ったり泣いたり喜んだりするようになる。さらには、一人でいるときにこそ、怒ったり泣いたり喜んだりするようになる。それはたしかに「情動」の経験であるが、同時に「思考」の経験でもある。「何もしないときほど活動的なときはなく、一人でいるときほど孤独でないことはない」というカトーの言葉は、「思考」の空間に集う不在の他者達との交わりの「喜び」を伝えている。あるいは「悲しみ」であるかもしれないし、「怒り」であるかもしれない。ここでは「思考」と「情動」とは一体のものである。あるいは次のように言った方がいいかもしれない。ここには「情動」も「思考」もあるわけではない。たしかなものとして感得できるのは、他者に向かって関わり合おうとする、また他者に向かって何かを伝えようとする行為だけである、と。このことが納得できる人にとっては、情動が理性的か否かという問いはもはや意味をなさないように思われる。
    
 註
1. William James: What Is an Emotion? ,in The Works of William James:Essays in Psychology, p.170. なお強調はジェームズによる。
2. Ibid.,p.182.
3. Ibid.,p.173.
4. Robert C Solomon:Passions.,p.78.
5. William James, op.cit.,p.171.
6. Ibid.,p.175.
7. Jean-Paul Sartre: Esquisse d’une th?orie des ?motions,Hermann (1960) Paris, p.38-9.
8. Ibid.,p.24.
9. Ibid.,p.27.
10. Ibid.,p.42.
11. Ibid.,p.43.
12. Ibid.,p.44.
13. Ibid.,p.48.
14. Ibid.,p.58.
15. Ibid.,p.54.
16. Robert C Solomon:Sartre on Emotions, in Paul Arthur Schilpp(ed),The Philosophy of Jean-Paul Sartre,La Salle(Ⅲ)1981, p.220.
17. Robert C. Solomon: Emotion and Choice,in Amelie Oksenberg Rorty (ed.): Explaining Emotions.Berkeley: University of California Press, 1980. p. 258.
18. Ibid.,p.263.
19. Ibid.,p.265.
20. Robert C Solomon: The Passions, p.222.
21. Robert C. Solomon: Emotion and Choice,p.266.
22. Ibid., p.275.
23. Kenneth J. Gergen and Mary M.Gergen: Narrative and Self as Relationship,in Advances in Experimental Social Psychology,21(1988),p.52.
24. Robert C Solomon: The Politics of Emotion, in Midwest studies in Philosophy, XXⅡ(1998), p.3.
25. Ibid., p.2.
26. Ibid., p.11.
27. Ibid., p.8.
28. Brian Parkinson: Ideas and Realities of Emotion(1995),p.277.
29. Ibid., p.286.
30. James R.Averill: Anger and Aggression(1982), p.324.
31. James R.Averill: Illusions of anger, in J.T. Tedeschi and R.B.Felson(ed),Social interactionist approaches to aggression and violence(1993), p.185.
32. Ibid., p.187.
33. Kenneth J. Gergen and Mary M.Gergen: Narrative and Self as Relationship, in Advances in Experimental Social Psychology,21(1988),p.48.
34. Ibid., p.52.
35. Theodore Sarbin: Emotion and Act, in R. Harre: The social construction of emotions, p.95.
36. James R.Averill: I feel,Therefore I am -I Think, in   Paul Ekman and R.J.Davidson(ed): The Nature of Emotion(1994), p.385.強調はエイヴリルによる。
37. Theodore Sarbin: op.cit.,p.84.
38. Hannah Arendt: The Human Condition,p.179.
39. Cheshire Calhoun: Subjectivity and Emotion, in The Philosophical Rorum(1989),xx, p.195.
40. Hannah Arendt: op.cit.,p.184.

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コメント 1

垂水源之介

すばらしい、感服しました。(いま、情動——理解や解釈——の文化人類学というテーマで資料収集しています)
by 垂水源之介 (2012-08-20 17:24) 

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