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『ダーウィンのカテドラル』を読んで [最近の論文]

『ダーウィンのカテドラル』を読んで

――宗教と集団選択についての雑感風メモ―― 

 理論的生物学の先端を行く研究者の一人が宗教を論ずるとどうなるか? 宗教についての新たな知見を発見できるだろうか? 門外漢の筆者が、そういう好奇心からD.S.ウィルソンの『ダーウィンのカテドラル』を読み始めたのは、まだ遠くない最近のことであった。その好奇心は章を追うごとに急速に色褪せて行ったのだが、好奇心の糸が途切れることはなかった。むしろ、何か釈然としないものが、たえず浮かんでは沈殿していくように感じられた。もちろん、この釈然としないものの多くが、筆者の理論生物学に関する無知に起因していることは疑い得なかった。しかしその後(若干ではあるが)この無知を払拭する努力をしてはみたものの、やはり何か釈然としないものは残ったし、むしろ釈然としない部分は増大していったように思われる。

 筆者の好奇心が急速に色褪せて行ったのは、ウィルソンの見解が間違った方向に進んでいるように見えたからではなく、むしろあまりに正しすぎて、その意味で刺激に欠けるように思えたからである。宗教なるものを、人間の集団が適応的単位として持続し繁栄することを可能にする進化論的機能という点から説明しようとする考え方は、少なくとも筆者には目新しいものとは映らなかった。特に、古代ユダヤ教の成立過程に最近興味を寄せている筆者にとっては、である。今日『旧約聖書』という名で知られている文書群(とくに、いわゆる「モーセ五書」)は、捕囚状態にあったイスラエルの民が民族間のサバイバル競争の中でいかに四散状態を防ぎ民族のアイデンティティーを守るかという切実きわまりない問題意識のもとで編纂・創作されたものであるから、その文書を支えとして成り立つ信仰が「サバイバルのための」宗教という戦略的意味合いを帯びるのは至極当然であった。ユダヤ教の末裔であるキリスト教にも、同じ戦略性が受け継がれていることは疑いえない。『ダーウィンのカテドラル』は、宗教の進化論的機能を一般的に説明した後で、具体的各論という形で「カルヴィニズム」、「古代ユダヤ教」、「原始キリスト教」にほとんどの紙数を割いているのだが、その構成は、筆者にとっては、言ってみればトートロジカルなものにしか見えなかったのである。
 
 しかし、好奇心の糸が途切れることはなかった。一つには、「集団選択(group selection)」を取りまいている今日の(生物学内部での)状況が面白く見えたからである(「集団選択」というよりは「「複数レベル選択理論(multi-level selection theory)」というべきかもしれない。ウィルソンは、この学説の代表的理論家である)。この状況は、筆者のような門外漢にとっても十分興味深いものであり、『ダーウィンのカテドラル』の第1章だけは再読できたし、関連の文献を読んでみようという気にもさせたのである。思い返してみれば、進化生物学はつねに話題を提供してきた。たとえば社会生物学の論争やドーキンスの「利己的な遺伝子」に幾重もの尾ひれがついて、各種の社会問題を巻き込みながら、ジャーナリスティックなレベルでの話題を提供したことは良く知られているが、「集団選択」に関する議論には、ジャーナリスティックな面白さはないだろうが、それとは質的にまったく異なる次元の知的好奇心をかきたてるものがあるように思われた。そして、昨今の「集団選択」が帯びる問題意識から人間や宗教の起源のことを再考することもきわめて意義深いように思われるようになった。ただし、以上のことを学問的にきちんと吟味して伝えることは、現在の筆者には難しいことであり、他日の課題とする他はないのであるが、その課題のための準備として、以下で自分の興味を引いた点を「雑感」風に記しておきたいのである。

Ⅰ.『ダーウィンのカテドラル』の序文の導入部を、エピグラフを含めて、紹介してみよう。
「  真の愛は、その成員がすべて独立していながら互いに奉仕しあうような生命組織(organism)全体にとっての成長を意味します。これは、「聖霊」の内なる働きが外に現われた形であり、キリストが統べる「肉体=教会」という生命組織なのです。私たちは、同様のことを蜜蜂の内に見いだします。蜜蜂は皆、等しい熱意をもって働き、蜜を集めます。                 
                  エーレンプライス[1630]
 宗教を信奉する者は、しばしば、自分の属する共同体を、単一の生物や、それどころか、社会性昆虫のコロニーになぞらえる。上に引用した一節は、ヒュッテル派の文書からのものである。ヒュッテル派とは、500年前ヨーロッパで誕生し現在でも北米の北西部一帯のあちこちに共同の入植地で立派に日々を送っているキリスト教の一宗派である。モルモン教の影響力の濃いユタ州の道路標識には蜂の巣が描かれている。…
 この本の目的は、宗教集団を一つの生物として見る有機体論的(organismic)概念を一つのまじめな科学的仮説として扱うことである。生物は自然選択の産物である。数え切れないほどの世代にわたり変異と選択を繰り返すことによって、生物は、環境の中で生存し生殖を行うことを可能にする性質を獲得する。私の目的は、人間の集団一般が、特殊には宗教集団が、この意味での生物としての資格があるかどうかを見ることである」(1)。
 
 おそらくこういう書き出しは、今日の読み手には複雑な感情を喚起するだろう。蜂のコロニーを理想とする集団。そこには、利他的行動、自己犠牲、利己主義の排除、高度に組織化された連携、比類のない秩序等の特徴、それらに基づいた集団全体の成功や繁栄が見られるだろう。しかし、集団内部での緊密な連帯が外部に対する容赦ない攻撃性に転化する様を、連日のように、報道は伝えている。ヒュッテル派の人々には迷惑だろうが、今日の多くの人にとって、蜂のコロニーとの類比は、好ましくない連想を幾重にも喚起する。宗教集団と聞けば、その独善的正義感や狂信的行為を思い起こさない人がいるだろうか? 自己犠牲的行為と聞けば、自爆テロの勇気を連想しない人がいるだろうか? この自己犠牲の勇気は、殺人への倫理的バリアーを破壊しながら、今日世界各地にその感染地域を広げている。無神論者で宗教を「ウィルス」としてしか見ないドーキンスのような人ならば、上掲のような書き出しで始まる書物に対して、嫌悪感のようなものしか覚えないのではないだろうか? 
 ウィルソンは、ドーキンスよりはるかに穏健な人である。「私は、率直に、宗教の多くの特徴に賞賛の念を抱いている…私が宗教のいくつかの側面に賞賛の念を抱く理由の一つは、私がその価値のいくつかを共有しているからである。私はこの事実を隠そうと努めたことはないが、このことが私の科学者としての活動を侵害しないことを私は望んでいる」(2)。つまり、科学の名のもとに宗教を弾劾しようとする戦略性とも、逆に、昨今のアメリカでよく見かけるように、科学者の仮面をつけて宗教的価値観を科学の領域にこっそり持ちこもうとする戦略性とも無縁のようである。要するに、学問にとって外的な要因を持ちこもうとする意図は皆無なのだから、ここでは、その姿勢を尊重して話を進めることにする(3)。
 さて、序文の冒頭からも判るように、ウィルソンの関心は、宗教そのものというより、その集団の方にある(しかし、こうした区別は可能なのか?)。内部的に統制のとれた集団は、そうでない集団に比べて高い適応度を示す。これは直感的に自明のことではないのか? 確かにそうだが、適応度とは、あくまでこの地上での基準であり、生物においては生殖・繁殖の確率によって量的に決定できる尺度である。この尺度に基づいて「宗教」集団を論ずることに違和感を覚える人はさぞ多いことだろう。そのような人にとって、宗教とはこの世の秩序を超えたものに対する信念によって特徴づけられるものであり、宗教集団とはその信念を共有する人々の集まりである。このような集団を、この地上での生存と繁栄というまことに「現世的な」尺度を以って量ろうとすることは本末転倒に見える。そう思う人は、ドーキンスとはまったく違う理由で、この本に早々と見切りをつけるに違いないし、そういう趣旨の書評がいくつかあったのも事実である。
 確かに、宗教といえば何か超越的なものを連想するのは当然といえば当然かもしれない。手近かにある『大辞泉』の「宗教」の項目には「神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み」とある。他の辞書にあたっても、結果は大同小異であるだろう。こうした「超越的」なものとの関連で宗教を定義する試みに対して、ウィルソンは次のように述べている(先ほどの引用文の直後の箇所である)。
 「宗教は、時として、超自然の存在に対する信念として定義される。しかし、この定義を浅薄で不完全なものと見なす者もいる。仏陀は、いかなる神とも結びつけられることを拒んだ。仏陀は、覚醒し悟りへの道を見つけたと主張したにすぎなかった。現行の仏教がしばしば神々であふれかえっていることを私は知っているが、創始者の見解の方がやはり大事である」。
 これは一つの見識というものであろう(仏陀と同じ趣旨の言葉をイエスも発した。しかし、洋の東西を問わず、創始者の真意は後世には伝わらないものである)。「超自然的なもの」を持ちだすことを、彼の自然科学者としての良心が禁じたのであろうか? しかし、ここには厄介な問題が含まれているかもしれないし、少なくも上述のような定義を「浅薄で不完全」とあっさり片付けることは難しいように思われる。神に対する言及抜きで宗教を論ずることは可能であろうか? かつて宗教学・人類学の世界で「原一神教(Urmonotheismus)」論争なるものがあった。「神は宗教の歴史における新参者である」(4)という言葉が簡潔に語っているように、神々に対する信仰の前段階にはアニミズムが、アニミズムの前段階には「マナ」のような形状もない観念や単純な魔術的儀式が先行していたという発展段階説の当否を問う論争であった。このような論争に決定的な決着はありえないかもしれない。しかし、どれほど原始的な狩猟民の間でもそうであるように、人類の進化の始まりから、単一の「父のような」神に対する信仰があったのではないかとする見解が大勢を占め、論争は収束した(5)。もちろんこの経緯が何か決定的なことを証明したわけではないし、かの発展段階説なるものが、その発展の頂点に一神教を想定するという、結局は西欧人の自己中心性の裏返しにすぎなかったことを考えれば、始めから実りのない論争であったことは確かである。しかしこの論争は、狩猟行為が人類の歴史の中で果たした役割の大きさを改めて人々に印象づけ、この分野での研究を刺激したことも確かであった。そこから、たとえば、狩猟の対象であり狩猟民の生命の糧であるものに対して、人間が特別な感情を育んだのではないかという推測のもとに、多くの実証的な証拠が積み上げられていった。たとえば、すでに中期旧石器時代には熊や鹿の骨が丁寧に洞窟に置かれている事例があったことが報告されているが、これが獲物の骨や頭蓋骨を「聖なる場所」に保管するシベリアの狩猟民の供犠の儀式(さらには、現在、世界各地で暮らしている狩猟採集民の儀式)に呼応していることを人類学者や宗教学者は見逃さなかった。狩猟行為は、たんに血なまぐさい殺戮行為に終わるような行為ではない。生きていくことを継続するには、殺戮の対象が途絶えてはならないし、殺戮の対象の再来が、自分達の生存のためにも、生じなければならないのである。「血なまぐさい殺戮行為は生活の継続のために必要であったが、新たな生命が再び始まることも同様に必要であった。かくして、骨を集め、頭蓋骨を高い所に掲げ、皮を伸ばすことは、最も具体的な意味での再生や復活の試みとして理解されなければならない。生命の糧が存在し続けるようにという願いと、そうはならないかもしれないという恐れが、生きるために殺す狩猟民の行動を規定している」(6)。こう記す宗教学者ブルケルトにとって、宗教的行為の起源は狩猟行為の内にあり、「原一神教」の信仰の神は、狩猟において殺戮され「復活」の祈念が向けられる動物であった。
 いずれにせよ、宗教を定義することは難しく、ウィルソンが宗教についての確固とした定義から始めることを回避したのは賢明であったかもしれない(宗教の捉えがたさは、「宗教(religion)」という言葉にも反映されている。すでに古代ローマの知識人にとっても「宗教」という言葉の起源は不明であった。また、日本人は幕末まで「宗教」にあたる言葉をもっていなかった)。ウィルソンに確固たる指針を与えているものがあるとすれば、序文の冒頭が示唆するように、社会性昆虫のコロニーであっただろう。これはこれで一つの見識であり、ある意味でとても興味深い(たとえば、マレーシアのチェウォン族のような狩猟社会では、成員間の平等が厳格に規則化され、そこから逸脱した者に対しては厳しい罰が下される。その分析は、『ダーウィンのカテドラル』の文脈に置かれるならば、人間社会において倫理や宗教が果たしている生物学的意義が何であるかを端的に示してくれる(7)。つまりそれは、ミツバチの監視活動(policing)のようなもの、であるだろう)。したがって、ウィルソンが「超自然的なもの」に対する言及なしで話を進めることも一つの見識である。しかし、遺憾ながら、ウィルソンが持ちだす宗教集団の実例のほとんどは、古代ユダヤ教に端を発する一神教的体系というかなり特殊な(と筆者は思うのだが)伝統から取られている。その結果、すでに指摘したように、書物の全体的構成が、筆者にとっては、ほぼトートロジカルなものに映ってしまった。そしてより遺憾なことは、生物学者が進化を考える際の遠大なタイム・スケールに比するならば、ウィルソンの持ちだす宗教の例がいずれもきわめて微小な時間内での事例なので、「集団選択」の仮説そのものが矮小化されたものとして見えてしまう危険があることである。この仮説と宗教の関連はもっと広い射程のもとで検討されるべきではなかっただろうか? しかも、ウィルソンは宗教集団の分析をかなり静態的な観点から扱っているのだが、これは進化論を専門とする者に相応しい姿勢とは言えないだろう。少なくとも、宗教を中~後期旧石器時代にまで遡って、ホモ・サピエンスの集団選択的適応戦略の一環(おそらくはその中枢)として扱うことを可能にするような人類学的視座を探るべきではなかったろうか? 「集団選択」の仮説と宗教の関連は、そのようなスケールと観点を要求しているように思われる。この点は後でまた触れることにして、次に「集団選択」の話題に移ることにしよう。

Ⅱ.  捕食者の襲来を集団内の他の鳥に鳴き声で知らせるという鳥の形質を考えてみよう。この形質をもつ個体は、絶えず警戒して周囲を見渡している分だけ、警戒せず餌の獲得にだけ関心をもつ他の個体に対して、集団内での適応に関しては不利な立場におかれる。しかし集団レベルで考えるならば、警戒する個体を多く含む集団のほうが、そうでない集団に比べて、高い適応度を持つ。要するに、利己的個体は集団内では利他的個体に打ち勝つが、利他的集団は利己的集団に打ち勝つのである。ダーウィンは、集団レベルでの選択がありうることを認めていた。
 「高い水準の道徳が、各個人やその子供に、同じ部族の他の人々に比べてわずかな利点しか与えない、またはまったく利点を与えないとしても、立派な人の数の増加や道徳水準の進歩が、ある部族に他部族に対する大きな利点を与えることは忘れてはならない」(8)。
 集団内の個体に注目しているだけではこういう現象は説明できないので、個体レベルでの選択とは違う、集団間での選択が存在していなければならないことは直感的に自明であるように見える。実際、「集団選択」は、1960年代まで長らく自明なものとして前提されてきたようだ。しかし、G.C.ウィリアムズや W.D.ハミルトン、J.M.スミス等の革新的な業績(「血縁選択」理論、「包括適応度」理論、進化ゲーム理論)を境に、生物学者の大勢は集団選択から離反して、個体レベルでの選択に関心を集中させるようになった。ウィルソンが研究者としてのキャリアを開始したのは1970年前後であったはずが、その頃すでに「集団選択」は過去のものになりつつあった。ウィルソンは、あえてマイノリティーの立場を選び、その孤塁を守るかのように研究を続けてきたのだろう。最近になってようやく潮目が変わりつつあるとはいえ、2007年E.O.ウィルソンと連名で著わした論文でも、「集団選択」を取り巻く冷たい状況を憂慮することから書き始めているのを見ると、状況はあまり変わっていないのかもしれない(9)。「選択」のレベルをめぐる議論で何が起き、そして何が起こりつつあるのかを、筆者の関心をひく範囲内で、素描してみることにする。
  「集団選択の拒絶は進化生物学者によって大きな出来事として歓迎された。アレクサンダーはそのことを20世紀における最も偉大な知的革命とさえ呼んだ。集団選択を扱った初期の文献が批判の的になりやすいものであったのは確かである。生物学者がある行動を集団や種のためであるかのように説明するとき、それはたいてい、原理を踏まえた議論というよりも、集団レベルでの機能的現象を素朴に言い表したものであった」(10)。
 思うに、ウィルソンのこの回顧的発言で留意すべきことは後半の部分である。この点についてジョン・メイナード・スミスが面白いエピソードを書き残している。コンラット・ローレンツの「儀式化された闘争」に関連して「私は今でも覚えているが、ジュリアン・ハクスレーは、闘争がエスカレートすると「種の存続に支障を及ぼすから」この儀式は進化したと述べてこの行動を説明していた。当時私は学部学生であったが、その私でもこれが誤りにちがいないことを知っていた」(11)。ここにあるのは、生物学者の間で広く共有されていた便宜的説明と、それに対する直感的違和感である(アリーとエマーソンの「超個体」説に初めて遭遇したときのG.C.ウィリアムズのリアクションも同様のものであったようだ(12))。こうした違和感を出発点として、彼らの内に新たな理論の構想が芽生えたのだろう。しかし、たとえばハクスレーが「種の存続に支障を及ぼすから」という説明を文字通りの意味で行っていたかどうかは疑わしい(典拠が不明なので確かめようがないのだが)。儀式的な闘争を行う個体が、種の存続に配慮していると真面目に考える学者が果たしていたのだろうか? おそらく、あくまで便宜的説明にすぎなかっただろうし、その説明を数学的にモデル化しようという発想もなかったに違いない。ここにあるのは、原理的な一つのパラダイムから別のパラダイムへの移行という「革命」などというものではなかっただろう。曖昧に(おそらく無意識的に、と言っていい)共有された便宜上の説明スタイルが、数学的理論を駆使した別種のスタイルに取って代わられた、ということにすぎないのではないか? 新たなスタイルの代表的理論家たちが「拒絶」したのは、「集団選択」の理論ではなく(ましてや「集団選択」という現象ではなく)、その理論が述べられる際の因習的な説明スタイルだったのではないか? もちろん、それらの理論家たちは「集団選択」の現実性にはきわめて懐疑的であったが、「拒絶」という硬直した姿勢を示すことはなかったし、充分な根拠があれば「集団選択」を考え直すだけの柔軟さは持ちあわせていたのである。
 たとえば、ハミルトンは、ジョージ・プライスの業績を知るに及んで「集団選択」に対する態度を変えるにいたった(13)。プライスの等式は、平均的な特性の世代にまたがる変化を、選択の効果(その特性に対する自然選択の効果)を捉える項と、遺伝の効果(その特性が次世代へと伝達される正確さ)を捉える項の和として書き表すことができることを示したもので、それ自体は数学的なトートロジーにすぎないものだが、ハミルトンにとっては、個体レベルの選択と集団レベルの選択の関連を考え直すきっかけを与えるものと映った。ハミルトンは、早速プライスの等式の一般化に取りかかったのだが、その成果は今日の「複数レベル選択」理論の土台となっている。手段にすぎないものが原理を正当化するということは本末転倒のように見えるかもしれないが、このような例は科学の歴史でも決して珍しいことではない。かつての素朴な「集団選択」の理論家に欠けていたのは、原理そのものに関する何かではなく、それに相応しい知的手段にすぎなかったことをハミルトンの例は示しているように見える。
 反-集団選択の立役者の中で原理的に最も一貫していたのはジョン・メイナード・スミスであった(ウィリアムズは、晩年、若い頃のネオ・ダーウィニズムの考え方からはかなり離れてしまった)。しかしその一貫性は彼の生物学に関する洞察のせいというよりは、彼の科学に対する基本的信念に求められるかもしれない。彼は、ハミルトンとは対照的に、プライスの等式に理解を示すことを拒んだ。それは理解の埒外にあったからではなく、彼の「還元主義」的考え方とは合わないからであった。「私には、遺伝子中心の(gene-
centered)アプローチの方が数学的に単純で、因果的にも適切だと思えるのだが、これは、私が全体論的(holistic)モデルよりも微視的なモデルの方を好むという事実の反映にすぎないのかもしれない。私は古典的な熱力学よりもマックスウェル-ボルツマンの方を好むし、プライスの等式よりもドーキンスの方を好む」(14)。
 「還元主義」とは、高次のものを低次のものへと還元することであり、低次のものとは当該領域で通常「個体」として扱われているものであるから、「還元主義」はつねに「個体主義」である。個体とは何かという問いは、しばしばきわめて難しい意味合いを帯びるのだが、もちろん難しく考えなければならない理由はない。考えてみれば、「集団選択」に対して1960年代に提起された新たな理論はいずれも還元主義的であり、「集団」に帰されていたものを「個体」のレベルで説明しようとする理論であった。これらが支持された理由の一つは、理論内部に「不必要にものを増やしてはならない」とするオッカムの原則(英米系の学者がとりわけ好む原則)に合致していたという方法論的側面もあったに違いない。しかしこの方法論はつねに実質的に解釈されうる。つまり、個体のレベルにあるもの以外のものはすべて理論において場をもたない、一種のフィクションとして扱われる危険がある。たとえばドーキンスのウィン・エドワーズの説に対する態度の内には、そうした傾向がまぎれもなく潜んでいたように思われる(もっともドーキンスはこの点では自説を撤回したが)。
 上で引用した一文でジョン・メイナード・スミスは、還元主義的な立場とそれに対立する立場の違いを、ほとんど趣味の問題として鷹揚に扱っているが、これはあくまで最晩年の発言であったし、「集団選択」に対する懐疑的姿勢を崩すことはなかった。それが明瞭に現われるのが、ジョン・メイナード・スミスがD.S.ウィルソンの「形質集団」に対して示した拒絶的態度であった。彼にとって、「集団」が「選択」の単位になりうるためには、集団は「変異、繁殖および遺伝」という現象を示さなければならなかった(15)。「変異、繁殖および遺伝」という現象を示す個体がモデルとしてまず置かれ、それと類比的な「個体群」だけが「集団」という名に値するという考え方である。それによれば、凝集性が高く他の集団から空間的に独立している個体群でなければ「集団」とは言えない。それに対してウィルソンの「形質集団」は、ある形質を共有している個体間の間に相互作用が生じ、その結果適応度に影響があるならば、その相互作用がきわめて一時的であっても成り立つのである(哲学的に見れば、「実体論」と「束理論」の対立を想起させる)。ジョン・メイナード・スミスとウィルソン(とソーバー)の間に反論・再反論が交わされたが、いずれの言い分にもそれなりの説得力があった。しかし、そもそも、この論争全体には、「集団」という概念の定義の問題にすぎないと言える側面があった。定義とは、所詮、便宜上のものであるし、正しい結果を導く限りで正しいという便宜的な側面をもつ。そして、実は、その意味での便宜性が証明という形で公然のものとなったのである。つまり、個体主義的な立場に立とうと集団主義的な立場に立とうと結果的には等しく正しい記述が得られるということが、はじめは限られた現象にそくして、ついでより一般的な形で、証明されたのである(16)。この点は、今日、より一般的に「多元主義(pluralism)」の標題のもとで扱われている。どちらかの立場に固執する者にとって、この事態は由々しい問題かもしれないが、「集団選択」をめぐる論争は、「多元主義」という意外な形に収まることで、肝心の論争点を失ってしまったかに見えるのも確かである。この論争は、そもそも論争としては終息を迎えた、と言うべきなのであろうか?
 しかし「多元主義」が話題になりつつある頃、それとはまったく別の領域での動向が「集団選択」に新たな生気を与えようとしていた。一般に‘major transitions’(「主要な移行」)という標題で扱われる問題群である。この標題はジョン・メイナード・スミスがサトマリーとともに1995年に著わした書物‘The Major Tran‐sitions in Evolution ’(邦題は『進化する階層』)に由来する。そこでの焦点は、進化の歴史においてエポックをなした八つの「主要な移行」(「複製する分子」→「コンパートメントに囲われた分子の集団」、「独立の複製体」→「染色体」、「遺伝子および酵素としてのRNA」→「DNAとタンパク質」、「原核細胞」→「真核細胞」、「無性的なクローン」→「有性生物の集団」、「原生生物」→「動物、植物、菌類」、「孤独性の個体」→「コロニー」、「霊長類の社会」→「人類の社会と言語の起源」)を可能な限り統一的なロジックで解明しようとすることにあった。ジョン・メイナード・スミスは、当然ながら、「遺伝子中心のアプローチ」をここでも採用している。「移行は、個々の複製体に対する直接的な選択の利益によって説明されなければならない。われわれが依拠するのは、ウィリアムズ(1966)が輪郭を描きドーキンス(1976)がさらに明瞭にした遺伝子中心のアプローチである」(17)。しかしながら、この「主要な移行」は、事柄の性質上、従来の還元主義・個体主義には都合の悪い問題である。なぜなら、安定した個体のレベルとその秩序を前提して済ますわけにはいかないからである。むしろそうした個体のレベルとその秩序がいかにして成立したのかを絶えず問わなければならないのであるから、従来の観点からの転換が求められる。この転換をオカシャは「共時的な方向性」から「通時的な方向性」への転換として捉えている(18)。すでにレオ・バス(Buss, L.: The Evolution of Individuality,1987)やリチャード・ミコッド(Michod,R.E.: A Darwinian Dynamics: Evolutionary Tran-
sitions in Fitness and Individuality,1999)がこの新たな方向性を切り開くような著作を発表していたが(もちろんリン・マーギュリスの先駆的業績を忘れるわけにはいかない)、彼らは「主要な移行」を、スミス/サトマリーのように「情報伝達」という観点からではなく、「個体性(Individuality)の新たなレベルの進化」というまったく違った観点から捉えようとしていたのである(バスの革新的なアイディアに多大な刺激を受けながら、スミス/サトマリーはそれを「遺伝子中心」の「古い皮袋」に入れ直してしまったという意味で、彼らの試みはきわめて中途半端だった)。とくにミコッドがこの進化のプロセスの解明を「集団選択」を軸として推し進めていることが、「集団選択」の議論そのものを新たなステージへと押し上げる要因の一つとなった。次のオカシャの言葉は、E.O.ウィルソンとD.S.ウィルソンの2007年の論文でもそのまま引用されていることから見ても、「集団選択」の現在を端的に伝える言葉なのであろう。
 「ミコッド(1999)が強調しているように、多細胞生物は協働する細胞の集団であり、(真核)細胞は核染色体と細胞小器官を含む集団である。細胞や多細胞生物は明らかに進化したものであり、適応の単位としても機能しているのだから、集団選択の実効性は否定できない。生物個体が選択の唯一の単位であるという包括的な前提が通時的観点から見て受け入れがたいのとまったく同様に、集団選択がごくわずかな影響しか及ぼさないという前提も受け入れがたい。なぜなら、われわれの観点を下方にシフトすることによって、生物個体が協働的な集団であり、したがって集団選択の産物であるということが明らかになるからである」(19)。
 この言葉が正しいならば、「集団選択」をめぐる論争で初期の頃から繰り返されてきた批判に対して意外なほど簡単な答えを与えることができる。ウィリアムズは「集団選択」の仮説に有利となるような経験的実例の乏しさを指摘したのであるが(「集団に関係する適応の実例は、実は、存在しない」(20))、どうやら、実例は乏しいどころではない、ということになりそうな気配である。
 
Ⅲ.  筆者が『ダーウィンのカテドラル』で興味を覚えたのは、「集団選択」の仮説がいま突入しつつあるこの新たなステージに興味をそそられたからである。しかし考えてみれば、「細胞は進化の産物である」とか「個体が協働的な集団である」といったことは、門外漢にとってはむしろ当たり前なことに見えるし、こうしたことが今更ながらに強調されなければならないこと自体、きわめて不可思議に見えてしまう。この不可思議は、これまでの進化論の主流があまりに静態的なモデルと還元主義的な思考様式に囚われてきたことに由来するのだろうか? その結果、当然見えるはずのことが見えなくなっていた、ということなのだろうか? 
 いずれにせよ「主要な移行」というトピックスは「集団選択」に関する議論を狭い世界から解放して、生物の世界をまた始めから見つめ直すという課題に直面させるような効果をもつ(何しろ「細胞は進化の産物である」ということが強調されなければならないくらいだから、ある意味で誰もが初学者の位置にいるようなものではないだろうか?)。『ダーウィンのカテドラル』第1章の「主要な移行」に割かれた箇所には、新たな始まりを予感し告知するような表現がいくつも踊っている。「リン・マーギュリスは、真核細胞‐バクテリアを除くあらゆる生物の有核細胞‐が、実は、バクテリアの共生的共同体であり、そのメンバーは遠い昔にはより自立的な生活を送っていたと主張した。それに類似した、生物個体の集団(groups of organisms)から生物個体としての集団(groups as organisms)への移行が、生命の歴史を貫いて生じてきたことは確からしい」。「社会集団を生物に似たものとして考えることは、この35年間、流行遅れであったのだが、いまや、生物個体そのものが社会集団であることが判明したのだ」。「単一の生物個体を高度に統合された社会集団として見なすことは、複数レベル選択理論の射程と意義を大きく広げた。ロバート・トリヴァースがかつて講義で述べたことだが、社会的行動の進化に興味をもつ者は遺伝学を理解する必要性をつねにわきまえてきたが、遺伝学者が社会的行動の進化を理解する必要があるなどということを、30年前の誰が思っただろうか?」。
 生物個体それ自体を一つの社会集団と見なす考え方は、複数レベル選択に関する従来の理解に対して幾重もの変更を要求するのだが、『ダーウィンのカテドラル』でウィルソンは三つのことに注意を喚起している。第一に、高次のレベルでの選択は低次のレベルでの選択に比べるならばつねに弱い、とはもはや言えなくなってしまったこと。「あなたや私のような単独の生物個体が、そうした言明の輝かしい反証である」。第二に、もはや「利己的‐利他的」というお馴染みの対概念に過度に振り回される必要がなくなったこと。「主要な移行は、集団内の選択が抑止され、集団間の選択が進化上の変化の最終的ベクトルを支配するとき、生ずる」(21)ことが正しいとするならば、社会生物学が説明しなければならないのは、利他的行動の発現のメカニズムというよりは、利己性の抑止のシステムであり、「社会統制(social control)」にも似たメカニズムの成立過程である(この点は、宗教の社会生物学的意義とも大いに関係する)。第三に、高次のレベルでの選択を生物個体のレベルで止めてしまってはならないこと。したがって、緊急の課題の一つとして、社会性昆虫のコロニーで集団選択がいかに機能しているのかをもう一度洗い直す必要が出てくる。ホウィーラーが提唱した「超個体(superorganism)」の概念が再評価されるべきなのである。「こうしたことを背景として、人間集団の有機体論的概念は新たな生命を受け取る。30年前だったら、ヒュッテル派の人々が自分の共同体を・・・蜂の巣になぞらえたことを、進化生物学者は、素朴な集団選択説の内でも最悪のものとして退けただろう。それがいまや、科学のレーダー画面上にくっきりとしたドットとなって現われているのである」。
 この最後の発言を文字通りの意味で受け取るならば、人間の社会性や宗教システムの解明のためにも社会性昆虫のコロニー発生という「主要な移行」のメカニズムの研究が不可欠な前提の一つとならなければならない、ということになる。この課題は『ダーウィンのカテドラル』の冒頭から示唆されていたことではあるが、残念ながら示唆されただけで終わってしまったように思われる(同書が社会性昆虫に関する議論に立ち入らなかったのはなぜだろう?)。しかし筆者としては、ここに、集団選択説が「主要な移行」という新たな刺激を得て私たちに提示しようとしている新たな次元の一つを感じとるのである。
  もっとも、2007年に発表されたE.O.ウィルソンとD.S.ウィルソンの論文「社会生物学の基礎を再考する」は、「真社会性」への言及を豊富に含んでいるのだが、結果的には、この分野での研究にそれほどドラスティックな変化が生じていないことを強く印象づけただけにとどまっている。この論文を読んで判ることは、その著者、とくにE.O.ウィルソンが、血縁選択の意義を可能な限り低減させようと躍起になっているということであるが、それが確たる論拠に基づいた主張なのか、たんなるアジテーションなのかは俄かには決めがたい。「昆虫のコロニーが複雑な決定をすることを可能にする社会的相互作用は、生物個体が決定を下すことを可能にするニューロンの相互作用にすら比較することができる。このような相互作用が進化したのは、コロニー内部での選択によってではなく、もっとも機能的な相互作用をおこなうコロニーが他のコロニーに対して勝利を収めることによってであった。高い血縁度は必要ではなかったし、個体が成功を収めた集団のメンバーとして利益を得るということに注目しても、ほとんど何の洞察も得られない。問題は、ずっと以前にホウィーラーが想像したように、あるコロニーが単一の生物個体として機能することを可能にする複雑なメカニズムを理解することである」(22)。
 E.O.ウィルソンの「血縁選択」説批判は、最新の研究による援護射撃が少なからずあるように見える。たとえば、ラトニークス等の研究は、ミツバチのコロニーの安定性を維持するのが血縁度ではなく、むしろワーカーの卵を次々とつぶしていったり無用な女王蜂を殺すことで、集団にとって撹乱的な要因を抑止する「監視(policing)」行動の方であるということを実証した(23)。しかしE.O.ウィルソンの「血縁選択」批判にはすぐさま反論が出されるなど(24)、まだ決定的な方向性が示されるにはいたっていないのが現状であるようだ。激しい論争や画期的な業績があったにもかかわらず、自然においてなぜ社会性という現象が成立したのかというシンプルな問いに対しても、まだ決定的な答えは出ていないようであり、まだ何も知られていないブランクな状況が広がっているかのようである。こうした状況がどうなっていくのか、筆者は筆者なりの関心をもって注視していきたいと思っている。
 
 註
1.Wilson, David Sloan: Darwin’s Cathedral : Evolution, Religion, and the Nature of Society, Chicago: University of Chicago Press,2002、p.1.
2.Ibid.,p.3. 
3.ドーキンスとウィルソンの間に歩み寄りの余地はあるだろうか? ドーキンスの主張は極端かもしれないが、今日の状況のもとでは強い説得力を感じとれる一面もある。2001年9月11日のテロ攻撃から一ヶ月後、『ガーディアン』誌が「世界は変わったか」というテーマのもとで企画したインタビューに対して、ドーキンスはシンプルだが力強い言葉でこう答えた。
 「われわれの多くは宗教を害のないナンセンスと見ていた。信仰には裏づけとなる証拠がまったくないだろうが、もし人々が心の支えとなるより所を求めているなら、害なんてどこにもないではないか、とわれわれは考えていた。9月11日はそんな考えを一変させてしまった。啓示された信仰は害のないナンセンスなどではない、致命的なまでに危険なナンセンスになりうるのだ。それは、人々に自分自身の正しさに対する揺るぎない自信を与えるがゆえに危険である。それは、人々に自殺する間違った勇気を与え、それによって、他者を殺すことに対して通常あるバリアーが自動的に取り除かれてしまうがゆえに危険である。それは、受け継がれてきた伝統の違いだけでレッテルを貼られた他者に対して憎悪を教えるがゆえに危険である。そして、われわれはみな不可思議な敬意の念に陥り、それがために宗教に対して通常の批判的精神を発揮できなくなるがゆえに危険である。そろそろ宗教に大きな敬意を払うのは止めようではないか(Many of us saw religion as harmless nonsense. Beliefs might lack all supporting evidence but, we thought, if people needed a crutch for consolation, where's the harm? September 11th changed all that. Revealed faith is not harmless nonsense, it can be lethally dangerous nonsense. Dangerous because it gives people unshakeable confidence in their own righteousness. Dangerous because it gives them false courage to kill themselves, which automatically removes normal barriers to killing others. Dangerous because it teaches enmity to others labelled only by a difference of inherited tradition. And dangerous because we have all bought into into a weird respect, which uniquely protects religion from normal criticism. Let's now stop being so damned respectful! )」(http://books.guardian.co.uk /writersreflections/story/0,1367,567546,00.html)。

 生物学者として「宗教」をテーマにする以上、ウィルソンはドーキンスとの対話を避けてとおることはできないし、実際、「悪魔的なミームを超えて―ドーキンスが宗教について思い違いをしている理由」という一文を書いているが、ウィルソンとしては話題を主に「集団選択」の専門的な方面に限定しているし、それ以外のことについて言い合う気はないようであるから、両者の間の溝がそれほど簡単に埋まらないだけは確かである。
Cf., http://www.skeptic.com/eskeptic/07-07-04.html.
4. G.van der Leuve:Phanomenologie der Religion,p.87.
5. Burkert,Walter: Homo Necans,p.73f.
6. Ibid.,p.16.
7.Darwin’s Cathedral , p.23f.
8.Darwin,Charles:The Descent of Man and selection in relation to sex, New York,p.166.
9. Wilson, Edward O. and Wilson, David Sloan:”Rethinking the theoretical foundation of sociobiology”, in The Quaterly Review of Biology,2007,vol.62.No.4,p.327-348. 
10. Darwin’s Cathedral,p.12.
11. Meynard Smith,J.:” Commentary on Kerr and Godfrey-
Smith” , in Biology and Philosophy,2002,17(4),p.524.
12.Sober, E and Wilson, D.S.:Unto Others,1998,p.36.
13. Okasha,Samir:” Maynard Smith on the levels of selection question” , in Biology and Philosophy,2005, 20(5),p.999ff.
14. Meynard Smith,J. :” Commentary on Kerr and Godfrey-
Smith”, p.523.
15. Meynard Smith,J. : “How to model evolution”. In: Dupre J.(ed),The Latest on the Best:Essays on Evolution and Optimality,MIT Press, P.121.
16.Dugatkin L.A. and Reeve H.K. :”Behavioural ecology and levels of selection:dissolving the group selction controversy”, in Advanced Study in the Behavioral Sciences, 1994,23,p.101~123
Kerr,B and Godfrey-Smith,P :” Individualist and multi-level
perspectives on selection in structured populations”, in Biology and Philosophy,2002,17,p.477~517.
17.Maynard Smith,J.and Szathmary,E.: The Major Transitions in Evolution,1995, Oxford, p.8.
18. Okasha, Samir:” Multilevel Slection and the Major Tran-
sitions in Evolution“, in Philosophy of Science,2005, 72,p.1014ff.
19. Okasha,Samir:” Maynard Smith on the levels of selection question “, p.1008.
20.Williams, G.C.: Adaptations and Natural Selection:
A Critique of Some Current Evolutionary Thought.Princeton,1966, p.92~93.
21. Wilson, Edward O. and Wilson, David Sloan: ”Rethinking the theoretical foundation of sociobiology”, p.330.
22. ibid, p.342.
23. Ratnieks,F.L.W. and Wenseleers,T.:”Policing Insect Societies”, in Science ,2005,307, p.54~56.
24. Foster, K.R,, Wenseleers, T. and Ratnieks,F.L.W.:" Kin selection is the key to altruism", in Trends in Ecology and Evolution, 2006, 21, p.57~60.
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