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カノンとしての共通感覚 [最近の論文]

カノンとしての共通感覚 ― カントの共通感覚論について

 「カノン」という語は元来「長さを測る棒」、「ものさし」を意味していた。それが、やがて抽象的な「尺度」という意味で用いられるようになり、エピクテートスやエピクロスにおいて、事の真偽や善悪さらには美醜を判断する際の「基準」や「規範」を意味する語として定着したようである。
 ストア派において、哲学は、こうした「基準」や「規範」を探求する学問と見なされた。エピクロスは、その体系的な著作の導入部を、‘Canonics’と呼んだ(「基準学」とでも訳すべきだろうか)。‘Canonics’は、あらゆる分野で遵守されるべき根本的な原理を扱うものであった。こうした意味での「カノン」、あるいは‘Canonics’という概念は、ストア派からフランシス・ベーコンへ、ベーコンからカントにまで受け継がれていったのだが、その系譜をここで詳しくたどることは出来ない。そのかわりに、カントを少しだけ詳しく取り上げることにしたい。

1.カントの‘Canonics’ 

 カントにおいて、「カノン」とは「認識能力を正しく使用するためのアプリオリな原則(a priori principle)の総体」である(*1)。「アプリオリな原則」とは、「普遍妥当性を持った原則」であると、ここでは簡単に考えておこう。カントのとってのもっとも根本的な問いは、「アプリオリな認識はいかにして可能となるのか」という問いであった。それは、ある意味で、「カノン」なるものはいかにして可能となるのか、とも言いかえることができるだろう。
 カントは、「アプリオリな認識はいかにして可能か」という問いかけを、(科学的な)真理の領域、道徳の領域、美学の領域において、追求した。その成果が、『純粋理性批判』(1781)、『実践理性批判』(1788)、『判断力批判』(1790)である。これら三つの「批判」書全体を、ここでは、カントの‘Canonics’と呼ぶことにする。
 さて、カントの‘Canonics’の特徴は何か。なによりも重要なのは、「近代科学」の存在である。近代科学の「法則性」、「普遍妥当性」こそが、カントにとっての「アプリオリな認識」の、あるいは「カノン」の典型なのである。『純粋理性批判』が、「いかにしてアプリオリな認識は可能なのか」と問うとき、その問いは「科学的な認識はいかにして可能なのか」と同義なのである。
 カントは、同じ問題設定を、道徳の領域にも適用する。『実践理性批判』の基調をなすのは、「法則への尊敬の感情」である。カントによれば、われわれの行為が、たんなる主観的なポリシー(「格率」と呼ばれる)に従ってなされるかぎり、道徳的とは呼ばれ得ない。その主観的なポリシーが誰に対しても妥当するように望むべし。自分の主観的ポリシーが普遍的な法則となるように行為すべし。これが有名な「定言命法(categorical imperative)」であり、そこにカントは道徳の唯一の原則を求めた。「われわれの行為の格率が普遍的自然法則となることを意志することができるのでなければならない、ということが、行為の道徳的判定一般の基準である」(*2)。
 そして意外なことに、カントは、こうした法則性、普遍妥当性への要求を、美学の領域にも求めた。カントによれば、美に関する判断、つまり「趣味判断」は、普遍的妥当性を持つとされるのであり、その可能性の条件を探ることが『判断力批判』の課題の一つであった。カントは「アプリオリな認識はいかにして可能か」という問いを、美学の領域でも、手放してはいない(『判断力批判』§36)。
 
2.カントの‘Canonics’における『判断力批判』の特異性

 三つの批判書の問題設定を極度に単純化して、つぎのように特徴づけてみよう(*4)。
 ・『純粋理性批判』は、「いかにしてアプリオリな認識は可能か」という問いかけをなし   て、それを「悟性の立法(法則定立の能力)」に基づかしめた。
 ・『実践理性批判』は、「いかにしてアプリオリな道徳原理は可能か」という問いかけをなして、それを「理性の立法(法則定立の能力)」に基づかしめた。
 ・『判断力批判』は、「いかにしてアプリオリな美的判断は可能か」という問いかけをなして、それを最終的に「共通感覚(sensus communis)」に基づかしめた。
 見られる通り、三つの批判書の間には、平衡性が成り立っている。カントの‘Canonics’は、単一の原則、単一の方針によって支配されているように見える(*3)。
 だが、『判断力批判』には、その方針の単一性を撹乱する異質な要因が潜んでいる、ということは以前から度々指摘されてきた。一言で言えば、『判断力批判』は、明らかにカントの‘Canonics’の中で異質なのである。この点は今でも非常にしばしば議論の的になっている。しかし、何がそれほど問題とされるのか。
 しかしその点を考えるためにも、『判断力批判』の内容に少し立ち入らなければならない。素朴な疑問を並べてみよう。まず、美に関する判断が普遍性を持つという前提が、非常に理解しづらい。それには目をつぶるとして、その普遍性を保証するものが「共通感覚」であるとされるのも、違和感を引き起こす。そもそも「共通感覚」とは何か。それはいわゆる常識(common sense)と同じものであるのか。もしそうならば、それは、「悟性」や「理性」の能力に比べて、いささか怪しげな能力ではないのか。それは、何がしかの普遍性を保証するに足る能力だろうか…等々。これらの疑問をまず解消してみたい。
 
3.趣味判断の普遍的妥当性

 美に関する判断、それは、『判断力批判』では、「趣味判断」と呼ばれる。カントによれば、「趣味判断」は普遍妥当的でなければならない。この点を説明しよう。
 「趣味判断」は、ある意味で、私の好み、私の快・不快の感情がなければ、成り立たない。何かを快いと感じる(何かが気に入る)経験が先行していなければ、何かを美しいと感じることはない。だから、私にとっての快・不快の感情が、「私にとっての美」を決定するのだと言う人がいるかもしれないが、カントはそう考えない。というより、そもそも「私にとっての美」というものを認めないのである。
 「…もし自分の趣味を自慢している誰かが、この対象(われわれが見ている建物、ある人が着ている衣服、われわれが聞いている協奏曲、批評を求めて提出された詩)が私にとって美しいと言うことで、自分の正当性を示そうと思うならば、これは笑うべきことであろう。なぜなら、あるものがたんに彼の気に入る場合、かれはそのものを美しいと呼んではならないからである」(*4)
「あるものは私の気に入る」は、たんに私の好み、私の私的な感情の表明であるのに対して、「あるものは美しい」という判断を下すとき、私は、その判断が私以外のすべての人にも妥当することを求めている。「美」という言葉の使用には、こうした「普遍的同意」への要求が含まれている(*5)。この意味で、「私にとっての美」なるものはありえない。美にかんする判断、趣味判断は、普遍的妥当性をもたなければならない。
 ただし、カントが言っていることと言っていないを区別しなければならない。カントは、「趣味判断」の普遍妥当性が、客観的に、つまり一つの事実として成り立っている、ということを主張しているわけではない。美に普遍性があるとしても、それは「主観的普遍性」であるにすぎない。私が「美しい」という語を使用して判断を下すとき、私は、自分の判断に他の誰もが賛同してくれることを期待するだけである。しかし、誰もが賛同するということは、当然ながら、「一つの理念にすぎない」のである。
  他方で、カントはこの理念を、経験的な事実によって裏付けようと試みている。理念とは、あくまで、事実から引き出されうる理念であるからである。わかりやすい個所を引用してみよう。
 「…美しいものは、社会においてのみ、われわれの関心をひく。…未開の島に置き去りにされた人間は、自分だけのために、自分の小屋や自分自身を飾ったりはしないであろうし、自分を飾り立てるために花を探したり、ましてや花を栽培したりはしないであろう。たんに人間であるだけではなく、自分の流儀にしたがって一個の洗練された人間でありたいということは、社会のうちでのみ人間に思いつくことである。なぜなら、そのような洗練された人間として判定されるのは、自分の快を他の人々に伝達するすることを好み、それに巧みであり、ある対象に対する適意(=好み)を他の人々と共通に感じることが出来ない場合には、その対象がその人を満足させないといった、そうした人間だからである。人間は誰でも、普遍的な伝達可能性(universal communicability)に対する顧慮を、あたかも人間性そのものによって定められている根源的な契約から生じたものであるかのように、あらゆる人に期待し、要求する」(*6)。       
4.美の公共性と共通感覚 

 カントが強調したいことは、美に関する判断、つまり「趣味判断」は公共的性格を有する、ということである。「趣味判断」は、たしかに、私的な(private)意味での、快・不快の感情がなくては可能ではないだろう。しかし、その私的な感情は、他のあらゆる人に伝達され、あらゆる人と共有されうると判断されないかぎり、価値があるとは見なされない。「普遍的な伝達可能性に対する配慮」とは、そういうことである。
 カントは趣味判断を「伝達」という観点から捉えているが、そこには、「趣味は説明できない」という古くからある考え方に反対したいという意向が込められている。「趣味は説明できない」という諺の原型は、‘de gustibus non disputandum est’、つまり「趣味について議論することはできない」である。だが、趣味が誰に対しても伝達でき、誰とも共有しうることを私が期待するかぎり、趣味についての議論はありうるし、また、なければならない。
 ところで趣味についての議論が可能であるためには、私は自分の趣味を他者に伝達できるのでなければならない。自分の私的な感情が他者に受け入れてもらえるように配慮しなければならない。その前に他者の存在を顧慮しなければならない。私的な感情を他者と共有して、公的なものにしていこうとする配慮、それは「人間性そのものによって定められている根源的な契約」のようなものである。それによって初めて人間が人間となる、つまり社会的存在となるこうした「根源的契約」の在り処を、カントは「共通感覚(sensus communis)」に求める。それは、一般に「常識」と呼ばれているものとは違う。それは、「自分の判断を、他の人々の、現実的なというよりはむしろたんに可能的な判断と照らし合わせ、われわれ自身の判定にたまたま付きまとうさまざまな制限を捨象することにより、他のあらゆる人の立場に自分を置き移す」能力のことなのである(*7)。
  趣味判断がなんらかの普遍性を有するのは、このような「共通感覚」がわれわれの人間性に属しているからである。それがカントの主張の骨子である。

5.カノンをどこに求めるべきか ――― 共通感覚論の哲学的意義

 カントの共通感覚論は、今日でも色褪せてはいない。それどころではない。カントの共通感覚論は、感情なるものを「伝達可能性」という観点から捉えようとする試みである、と言うことができる。最近になってようやく、心理学者は、感情の社会的性格に注目し始めるようになった。James Averillによれば、感情とは社会的に構成されたものであり、Brian Parkinsonによれば、感情とは一種のコミュニケイションとして捉えるべきであるとされる。かれらは、こうした考え方をまったく新しい理論として提唱しているのだが、それはすこし時代錯誤的なものにわたしには映る。だが、この点に深入りすることはせずに、カントの‘Canonics’の話題に戻ろう。
 すでに示唆したように、カントの『判断力批判』は、カントの‘Canonics’全体の中では明らかに異質なものと見なされている。なにがそれほど異質なのか。それは、実に単純なことである。つまり、この『判断力批判』では、他者の存在が前提されており、突出した意味での「自己」が登場しない、ということである。むしろ「伝達可能性」が第一次的なのである。ハンナ・アレントの言葉を借りれば、「他者と世界を共有すること(sharing-the-world-with-others)」が第一次的なのである(*8)。
 しかし、それは、カントの‘Canonics’全体において、むしろ異質な光景なのである。あの「定言命法」を取り上げてみよう。それは、「汝の行為の格率が普遍的法則となるように行為せよ」と命ずる。ここには、非人称的な法則と、それに対する「私の」理性的な尊敬があるだけである。ここに伝達があるとしても、それは私と私自身の間に交わされる無言の伝達でしかない。カントのいう「カノン」、「アプリオリな原則」とは、この無言の伝達が法則へと昇華されたものであろう。それは、先ほどの引用文で言及された「未開の島に置き去りにされた人間」の独白でしかないだろう。そこに法則はあるかもしれないが、道徳は存在しないのではないだろうか。しかしそれが、カントの‘Canonics’の原風景なのである。
 だがこのことがどれほどの意味を持つというのか、と疑念を持つ人もいるだろう。ここで最終的に問題となるのは、「カノン」なるものの根拠をどこに求めるか、という点に関わっているのである。
 先ほどの引用文(*6)に戻ろう。「美しいもの」に対する関心は、社会においてのみ存在する、とカントは考えた。だが、それは「美しいもの」に限ったことではないだろう。科学的な真理といえども、科学者の共同体内部でのみ成り立つ規範の一種にすぎないということを、20世紀の科学哲学は教えた。言いかえれば、真理とは「普遍的伝達可能性」の一形式だ、ということである。同じことは、道徳原則にも当てはまるはずである。
 したがって、カントの問題設定を引き継ぎながら、「真理のカノン」、「道徳のカノン」を今日書くとしたら、そのとき手引きとすべきなのは、『純粋理性批判』でも『実践理性批判』でもなく、むしろ『判断力批判』の「共通感覚論」であろう。それが、ハンナ・アレントやリチャード・ローティーの見解である。「普遍的伝達可能性にたえず顧慮し、その根底にあるあの「根源的契約」が普遍的法則になるように行為せよ」、それが新たな「定言命法」だとアレントは言った(*9)。理性ではなく「対話しか存在しないのだ」とローティーは言った(*10)。カント自身(そしてカント学者の大半)は断乎としてこうした見解を拒絶するだろう.。カントの‘Canonics’が根底から書き換えられなければならなくなるからである。しかし、私としては、書き換えを迫るこうした読み方の方に、健全なものを感じるのである。


1. カント:『純粋理性批判』(B824)。
Kant, Critique of Pure Reason (trans.by Norman Kemp Smith .p.630. “ I understand by a canon the sum-total of the a priori principles of the correct employment of certain faculties of knowledge“).
2.『人倫の形而上学の基礎づけ』第2章。
Kant, Groundwork of the Metaphysics of Morals (trans.H.J.Paton,p.91, “We must be able to will that a maxim of our action should become a universal law ―― this is the general canon for all moral judgement of action”).
3.『判断力批判』Ⅲ。
Kant, Critique of Judgement (trans. J. C. Meredith “Concepts of nature contain the ground of all theoretical cognition a priori and rest, as we saw, upon the legislative authority of understanding. The concept of freedom contains the ground of all sensuously unconditioned practical precepts a priori, and rests upon that of reason…. But there is still further in the family of our higher cognitive faculties a middle term between understanding and reason. This is judgement, of which we may reasonably presume by analogy that it may likewise contain, if not a special authority to prescribe laws, still a principle peculiar to itself upon which laws are sought…”).
4 同書 §7。
(“It would, on the contrary, be ridiculous if any one who plumed himself on his taste
were to think of justifying himself by saying: "This object (the building we see, the dress that person has on, the concert we hear, the poem submitted to our criticism) is beautiful for me." For if it merely pleases him, he must not call it beautiful”).
5. 同書 §25。
(“…the claim of the judgement is none the less one to universal agreement; the judgements: "that man is beautiful" and "He is tall", do not  purport to speak only for the judging subject, but, like theoretical judgements, they demand the assent of everyone”).
6. 同書 §41.
(“The empirical interest in the beautiful exists only in society…. With no one to take into account but himself, a man abandoned on a desert island would not adorn either himself or his hut, nor would he look for flowers, and still less plant them, with the object of providing himself with personal adornments. Only in society does it occur to him to be not merely a man, but a man refined after the manner of his kind (the beginning of civilization)-for that is the estimate formed of one who has the bent and turn for communicating his pleasure to others, and who is not quite satisfied with an object unless his feeling of delight in it can be shared in communion with others. Further, a regard to universal communicability is a thing which every one expects and requires from every one else, just as if it were part of an original compact dictated by humanity itself”).
7. 同書 §40
(“…by the name sensus communis is to be understood the idea of a public sense, i.e., a critical faculty which in its reflective act takes account (a priori) of the mode of representation of everyone else, in order, as it were, to weigh its judgement with the collective reason of mankind, and thereby avoid the illusion arising from subjective and personal conditions which could readily be taken for objective, an illusion that would exert a prejudicial influence upon its judgement. This is accomplished by weighing the judgement, not so much with actual, as rather with the merely possible, judgements of
others, and by putting ourselves in the position of everyone else, as the result of a mere abstraction from the limitations which contingently affect our own estimate.”)
8. Hannah Arendt, Between Past and Present, p.221.
9. Hannah Arendt, Lectures on Kant’s Political Philosophy, p.75.
10. Richard Rorty, Objectivity, Relativism, and Truth, p.32.

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