SSブログ

ものとは何か [最近の論文]

もの・言葉・思考
-形而上学と論理-
  三上真司






















プロローグ


 私が思考するとき、何が生じているのか。
これは第四章の題名であるが、本書の全体を表わす題名として選んでもよかったかもしれない。本書の目的は複数ある。一つは、「ものとは何か」、「存在とは何か」、「同一性とは何か」という三つの問い、そのどれもが「形而上学」的としか言いようのない問いであるが、この三つの問いをできるだけ単純化し形式化することにある。単純化し形式化するためには論理的な道具だてが必要不可欠である。したがって以下では論理学の概念と表記を少なからず用いることになる。それだけではなく主要テーマに対する接近の仕方に関しても、主として論理学に隣接した領域から着想を得ている。一九七〇年前後から論理学の基礎的なレヴェルで、「形而上学」や「存在論」といった古めかしい言葉が肯定的な意味で使われるようになったが、以下の論述もそのトレンドの一部を意識の片隅において書かれている。
 しかし本書は論理学そのものを主題にしているわけではない。論理はおそらく「思考」などしないし、「思考」は論理とは無関係に開始される。副題が示すとおり、本書は「形而上学」に一つの焦点を合わせている。上で挙げられた三つの問いを問うことがすでに形而上学的な行為であるだろうが、そもそも「形而上学」とは何か。「形而上学」には長い蓄積と変転の歴史がある。しかし以下では、「形而上学」についての多様な定義を比較したり、歴史的な変遷を概観したりするということは目指されていない。そのかわりに「形而上学的経験」とでも言うべきものをごく単純化して描いてみることに主眼を置く。「形而上学的経験」といっても、よくそう思われていることとは違って、神秘的なものでも非日常的なものでもない。単純化して言えば、それは「思考の経験」以上でも以下でもない。それは「思考」から始まり、「思考」で終わる。ただそれだけのことである。
 では、「思考」とは何か。そう自問することで、「思考」が自らの方に向き直るとき、「思考」に特有の無限後退の扉が開かれることになる。扉が開かれても、その向こうに何かがあるわけではないし、何かがあるとしても、「思考」以外の何ものもないだろう。おそらく「思考」は「…とは何か」と問いかけることしかできない。「思考」は無限に後退するしかない運動であろう。だから、「形而上学的経験」は「思考」から始まり、「思考」で終わると述べることはある意味で偽である。なぜならそれは「終わり」をもたないのだから。「…とは何か」と絶えず疑問に付していく行為があるだけなのだから。
「思考」とは何か。それに定義風の答えを与えることはできないだろうしし、そもそもこの問いから始めるのは得策ではない。だから、それに先立って、「思考」が具体的な「もの」に遭遇し、それについて問いかけ、それを言語化するという場面を、「ものとは何か」、「存在とは何か」、「同一性とは何か」という三つの問いにそくして考えてみたのである。いたる所で、「もの」と「言葉」と「思考」が錯綜して現われる。それをいかに単純化し形式化できるか、それが「形而上学」の発端であるとするならば、本書はその発端を言い表わそうとした試みであると言えるかもしれない。

























目次

Ⅰ  「もの」とは何か?  
   1. 狭義の「もの」と広義の「もの」 
2. 「実体論」vs「束理論」 元来のヴァージョン
3. 「実体論」vs「束理論」 今日的ヴァージョン 
4. 思考の空間と「もの」の名前
Ⅱ  存在とは何か?  
1. 非存在のパラドクス 
2. 名前から存在へ
3.  第一階述語vs第二階述語  
Ⅲ  同一性とは何か? 
1.  同一性のパラドクス
2.  同一性と内包性
Ⅳ  私が思考するとき、何が生じているのか? 
1.  私は考える
2.  「私は…」 








Ⅰ ものとは何か?


 1. 狭義の「もの」と広義の「もの」 


(1.11)     「ものとは何か」と問うことから始めよう。まず、「もの」という語に注目しよう。「もの」はあまりにも漠然とした言葉である。「もの」にはありとあらゆるものが帰属する。われわれの日常生活は無数の「もの」に取り囲まれているが、そうした具体的な「もの」ばかりか、われわれが考えたり想像する「もの」も「もの」である。観念的な「もの」は、現実の世界に拘束されることはない。実在しない「もの」も、「もの」の一種である。したがって「ありとあらゆるもの」だけが「もの」ではない。「あらぬもの」も「もの」であるかもしれない。
これではあまりにも茫漠すぎるので、「もの」の内部に何らかの境界線を引くことで、「もの」を扱いやすくしようと考えるのは自然の成り行きである。手もとにある国語辞書は、「もの」を「狭義のもの」と「広義のもの」に区分している。「感知し得るさまざまな属性の統一的担い手としてのまとまりをもった空間的・時間的対象。狭義には、このもの・あのものと指し示し得る「机」「家」など外界に存在する感覚的個物をいうが、広義には思考の対象となり、命題の主語となり得るすべて、例えば心や価値などの非感覚的存在をも含めていう」(『大辞林 第二版』 三省堂)。
これは手際よくまとめた説明である。ある意味でたいへん判りやすいのだが、判りやすさは判りづらさにすぐ転化しうるものである。「もの」は狭い意味と広い意味をもっているという。この「狭い意味・広い意味」とはどのような意味なのか。ただ単に範囲の広狭を意味しているのだろうか。だが狭義の「もの」と広義の「もの」は、同じ資格で「存在」しているとは言えないだろう。一方に当てはまる概念(たとえば空間的概念)が他方にも当てはまると考えるわけにはいかない。だから、たとえば、広義の「もの」が、狭義の「もの」にくらべてより「広い」範囲にわたって「存在」している、などとは言えないはずである。
おそらく理屈としてそうかもしれないが、狭義の「もの」と広義「もの」という区別には、とくに理屈をこねるまでもなく自然に受け入れられる何かがある、と多くの人は思うだろう。そこでこの区別を受け入れ、扱いやすい狭義の「もの」に限定したうえで「ものとは何か」と問うことにしよう、と。このような仕方でとりあえず議論を始めてみることは、たしかに一つの方法ではあるだろう。
しかしこのように狭義の「もの」に限定しても、「もの」の輪郭は必ずしも明瞭にはならないかもしれないし、そもそもそのような限定が可能なのかどうかということも実のところ疑わしい。「狭義のもの」と「広義のもの」の区別をふたたび考えてみよう。「広義のもの」とは「思考の対象となり、命題の主語となり得るすべて」だという。その「広義のもの」を差し当たり考察の範囲外においてみよう。残った「狭義のもの」だけを取り上げて、「ものとは何か」を考えてみることにしよう。だがそのときすでに一種の不整合が生じている。なぜなら、そのときすでに「もの」は「思考」の対象となっているので、狭義の「もの」へと限定するという意図は最初から守られていないからである。狭義の「もの」だけを「考える」ということは、厳密に言えば実現不可能である。狭義の「もの」とは、「思考」にとって可能な限り縁遠く、可能な限り「思考」の周縁に位置している何か、であるのかもしれない。それにもかかわらず、狭義の「もの」は、そのようなものとして「思考」される何かであることにかわりはない。


(1.12)     先に進むまえに、少し本題から外れたことを述べてみたい。先ほどの辞書の記述には、ある種のイデオロギーが含まれているように見える(イデオロギーと言っても、毒にも薬にもならないイデオロギーであるが)。狭義の「もの」と広義の「もの」という区分には、狭義の「もの」が本来の意味での「もの」であり、それが転義的に「思考の対象」に用いられることによって、広義の「もの」が派生するという序列関係がおそらく暗黙の前提として含まれている(辞書は、ある語が一般的にどのように使われているかを顧慮して、その語の意味を最大公約数的に記述しているだけであるとするならば、このイデオロギーは「一般的慣用」そのもののイデオロギーであるかもしれない)。この前提によれば、「もの」とは「思考」の対極に位置している何かなのであろう。
ただこのイデオロギーは太古の昔からあったというわけではないようである。たとえば、英語の‘thing’の語源を見てみよう。その元来の意味をたどると、「狭義のもの」とはおよそ関係のない意味に行き着く。つまり‘thing’とは、元来、「公共の集会(public assembly)」あるいは「法廷(law-court)」のことであった。そこから、そうした集いの場で扱われる事柄やそこで掲げられる大義という意味に転じ、やがて「人々が関心をもつ事柄」という意味に行き着いたようである(ドイツ語の‘Ding’は言うまでもなく、フランス語の‘chose’も同様の由来をもつ。また、ギリシア語の「カテゴリー」にも似たような由来を指摘できる)。公共の場で申し述べられ、熟考され、論じられるべき事柄が元来の‘thing’であった。‘thing’は公共の場で議論の対象とされるべき事柄であるから、具体的な個物とは必ずしも結びつかない。むしろ、「もの」は具体的でないからこそ公共的な議論の対象になるのである。
「もの」は、まず第一に、公共の場で「語られるもの」であった。したがって、あえて言えば、広義の「もの」のほうが本来の「もの」であって、「外界」にある「感覚的個物」としての「もの」はそこから派生したものである。「もの」は、「公共の集いの場で語られ、熟慮されるもの」から始まって、時の経過とともに、まるで貨幣が磨耗していくように、単なる「感覚的個物」へと次第に平板化されていったようである。
こうした語源の詮索が何の役に立つのかと言う人がいるかもしれない。たしかにそうである。それは、先ほどの国語辞書の説明と同程度の意味合いしかもたないかもしれない。ただし、狭義の「もの」を字義通りの意味で受け取らないための機縁にはなるだろう。狭義の「もの」と広義の「もの」、元来の「もの」と派生的な「もの」、本来の「もの」と非本来の「もの」。これらはいずれも思考が自らの対象を分節化して、思考自らの内奥と周縁、前景と後景を区別するための手立てである。おそらくこうした分節化が先行していない「もの」はないだろう。どれほど狭義の「もの」に視野を限定してそこから人間の観念的な関与を除外しようとしても、「もの」に刻印されている言葉や思考特有の形式をそこから取り除くことはできないだろう。「狭義のもの」という表現が、何よりもそのことを簡潔に示している。なぜならその表現には、「もの」から「思考」に関連する部分を取り除こうとする「思考」が込められているからである。


(1.13)     では、狭義の「もの」とは、ありえないものを意味しているのか。先ほどの辞書は、狭義・広義の「もの」の区別に先立って、「感知し得るさまざまな属性の統一的担い手としてのまとまりをもった空間的・時間的対象」という説明を与えていた。まるで、この説明が狭義・広義の「もの」のいずれにも当てはまるような書き方のように見える。しかし「空間的・時間的」という属性は「思考の対象」には妥当しない。ではこれは狭義の「もの」の説明なのだろうか。
他方で「感知し得るさまざまな属性の統一的担い手」という部分は、「思考の対象」にも当てはまる幅をもっている。私が昨日出会った人のことをただ単に思い浮かべて、中肉中背で黄色いポロシャツを着ていてスポーツ刈りだった…と記憶の糸を手繰っていくとき、私は彼を「属性の統一的担い手」として再現しようとしている。出会ったときの存在感はとっくに薄れ、日差しの下で光っているように見えたポロシャツの黄色も記憶の中で色褪せてしまい、私にできることは「中肉中背」、「黄色いポロシャツ」、「スポーツ刈り」という恐ろしくありきたりな属性を拾い上げることだけである。昨日出会ったときは握手することもできたあの彼は、いまや私の記憶の中で「属性の統一的担い手」にすぎないものと化してしまっている。
狭義の「もの」が「このもの・あのものと指し示し得る」ものであるならば、本質的に「狭義のもの」なるものは存在しないだろう。本質的に「あなた」であるような人、本質的に「このもの」であるような机、などというものはない。それらは、たまたま私の視野の範囲内に見出されるという偶然的属性を充たしているにすぎず、しかもそれらはすぐに過ぎ去っていく。私の中で、「狭義のもの」はすぐに視野から消えて「思考の対象」に場を譲る。後に残るのは、わずかな記憶と貧弱な言葉(「中肉中背」、「黄色いポロシャツ」、「スポーツ刈り」)だけである。
したがって狭義の「もの」と広義の「もの」という区別はあまり意義ある区別とはいえない(しかしまったく価値がないとも言えない。いずれこれに類する区別を以下の論証の中で使用することになるのだから)。とくに「ものとは何か」という問いは一般性をもった問いである。この問いは、「もの」が狭義であれ広義であれ、等しく当てはまるような一般性をもった言葉で提起され、解決されなければならない。そこで伝統的な形而上学が用意するのが「個体」、「属性」、「実体」等の概念なのである。

 
(1.14)     「ものとは何か」という問いの伝統的な形態を見てみることにしよう。そこで、「もの」は、しばしば「個体(individual)」、「特殊(particular)」という言い換えのもとで語られる。いずれも、「普遍(universal)」に対する「特殊」、「類や種」に対する「個体」というように、概念的な背景をそなえた限りでの「もの」が問題となるとき用いられる表現である。
「個体」と訳される西欧語(‘individual’〔英〕や‘Individuum’〔独〕)を取りあげてみよう。それは、元来「(それ以上)分割できない(in+videre)」という意味のラテン語に由来し、それはそれで「アトム」の語源であるギリシア語の‘atomos’(やはり「分割できないもの」という意味)に対応するものとして導入された語であった。生物学の系統樹のことを考えてみることが「個体」の概念を考えるうえでもっとも役に立つ。包括的な概念を表わすグループが複数のサブ・グループに分割され、そうした分割が複数回繰り返された末に最低次のクループに行き着く(たとえば「植物」から長い分岐をへて「バラ科バラ属」に至るように)。その最低次のグループは「最低種」と呼ばれ、概念上の「分割」はそこで終わりを迎えるのだが、ただし「分割」の最後の手続きとして、その「最低種」を表わす概念に属する個々の「もの」(たとえば目の前にある「このバラ」)を指摘することが残されている(それができなければ、その種概念は空集合になってしまい、「分割」の試みが空振りに終わったことになるだろうから)。その「分割」の最終地点が‘individual’である。したがって、‘individual’という語には、概念上の梯子を降りていって、もうそれ以上は進めない地点にあるものという意味が込められている。
「個体」は概念の梯子の最低次に位置しているわけであるが、最低次にあるとはいえ、それが概念の梯子に属していることにはかわりがない。「個体」とは概念的な観点から見られた「もの」のことであり、個体を構成する概念的要素との関係が問われる「もの」のことである。目の前にある「このもの」を指して「バラ科バラ属に属する」と言うとき、それは「このもの」を特定するための有力な(もっとも有力な)方法の一つだが、それで「このもの」が言い当てられてしまうわけではないし、他にたくさんのバラがある場合「このもの」を他のバラから分離することはできない。そのためには、たとえば、「鮮やかな黄色のイエローアイランド」と補足しなければならないかもしれない。イエローアイランドが多数あるならば「右から三本目にある」などと、さらに補足しなければならない。
「このもの」を指して、「右から三本目にある鮮やかなイエローアイランド」と言うとする。このことを少し回りくどく言い直すと、「これ」という個体は、「右から三本目にある、鮮やかな黄色の、イエローアイランドと呼ばれる」という属性(property)をもつ、と言い換えることができる。個体は属性をもつ。個体はさまざまな属性によって構成されている。「ものとは何か」という問いは、個体としての「もの」が構成されているあり方を問う。個体はこうした属性によって余すことなく構成されているのか否か。つまり、個体とはこうした属性の集合体なのか(あるいは、そういう集合体にすぎないのか)、それとも個体は、あくまでこうした属性とは別個の構成要素によって特徴づけられているのか。では属性ではない構成要素とは何か。これらの問いが、「ものとは何か」という問いの伝統的な形態なのである。



2. 「実体論」vs「束理論」 元来のヴァージョン


(1.21)      「ものとは何か」という問いに関して、以下では二つの代表的な見解をとり上げる。そのいずれの見解にとっても、「個体」はさまざまな「属性」によって構成されているということが最低限の前提である。それ以上の前提がさらに必要だろうか。そこが分岐点となる。
 目の前にカラーボールがあるとする。それは、もちろん球形で、赤い着色がほどこされていて、50グラムの重さで、直径10センチで…等の「属性」を持っている。ただしこのボールは緑色でもよかったかもしれないし、直径8センチでもよかったかもしれない。汚れれば鮮やかな赤はどす黒く変色するかもしれないし、しぼんで小さくなってしまうかもしれない。だが、どのような属性上の変化があったとしても、「このボール」は「このボール」であると言う人がいるかもしれない。その人は、いま問題になっている「このボール」はおそらく外見を変えただけなのだ、と言うだろう。「球形で、赤い着色がほどこされていて、50グラムの重さで、直径10センチで…」という属性をもつ「このボール」は、そのような属性をもたなくても「このボール」である。
だが今の言い方には少し無理があるかもしれない。目の前にある「このボール」は、あくまで「球形で、赤い着色がほどこされていて、50グラムの重さで、直径10センチで…」という属性によって特徴づけられる限りでのボールである。そうした属性が変化していくとき「このボール」も別の「もの」に変化する、と言うべきではないのか。時間の経過とともに、「このボール」は「あのときのボール」に変わり、「いまのボール」は「あのときのボール」とは似ても似つかない姿になるかもしれない。変わり果てたボールも、やはりさまざまな属性によって構成されている。ただし、その時々でボールを構成する属性は変化するが、その属性を「担っているもの」は変化しない、と考えることには一理ありそうである。そう考えなければ、目の前のしぼんだボールを指して、「このボールもあの時は張りがあってよく弾んだのに」等のことがどうして言えるだろうか。あらゆる属性には、それを「担うもの」(英語で言えば‘bearer’)がなければならない。この「担い手」は、個体の「属性」ではありえないだろう。もし「属性」の一種であるならば、その「担い手」をさらに担う何かがなければならないだろうが、これでは無限にどこまでも続き収拾がつかない。それよりも、「属性」とその「担い手」との間に絶対的な区別を立てるほうが簡明であり健全である。つまり、「担い手」そのものはいかなる属性からも独立している何かである、と考えるのである。したがって、「担い手」そのものは赤くも丸くもなく、重さも直径ももたない何かでなくてはならない。この「担い手」は特殊な名前で呼ばれてきた。つまり、「実体(‘substance’)」あるいは「基体(‘substratum’)」という名前で呼ばれてきた。いずれも「下に(‘sub’)立つもの(‘stance’、‘ stratum’)」が原義である。さまざまな属性の「下に」あって、それらを支えるもの、しかしそれ自体はいかなる属性も含んではいないもの、という意味が込められている。とくに「いかなる属性も含んではいない」という意味合いを強調して(そしてしばしば悪い意味を込めて)、「裸の基体(‘bare substratum’)」と呼ばれることもある。


(1.22)     「実体」(あるいは「基体」)は、一切の「属性」を欠いている。目の前の「このボール」にそくしてわれわれが知覚できるのは、その赤い色や球形という形状や重さや大きさ、要するに、ボールの「属性」である。そうした「属性」を何らもたないとされる「実体」や「基体」は、われわれが知覚できるものではない。つまり、あくまで観念上のものである。それに対する不信感が「裸の基体」という表現には込められている。「もの」は、「属性」と「実体」(あるいは「基体」)から成り立っていると考える立場は「実体論(substance theory)」と呼ばれる。そしてこの考え方対して不信感をもつ人にとって、「実体」は存在しないのだから、「もの」は「属性」だけから成り立っている、ということになる。つまり「もの」とは「属性」の集合体にすぎず、デイヴィッド・ヒュームの言い方を借りるならば、「属性」の「束(bundle)」にすぎない。この立場を「束理論(bundle theory)」と呼ぼう。この二つの理論は、どちらもそれが提起されるだけの利点をもっているし、また反論されるだけの短所ももっている。また両者は妥協の余地がない対立関係に立つために、果てしのない相互批判という形態を取らざるをえない。この論争は、実に、今日でもまだ続いているのである。
 「実体論」vs「束理論」の対立を、新旧二つのヴァージョンにそくして見ることにする。まずは古典的なヴァージョンを紹介する一環として、デカルトと経験論(バークリーおよびヒューム)を取りあげる。もう一つは(これは次節で述べることになるが)、この対立関係が今日においてとるヴァージョン、「論理的」ヴァージョンである。


(1.23)      デカルトは『省察』の第二章で「ものとは何か」と問いかけ、目の前にある蜜蝋を例にして説明をしている。デカルトが目の前にある蜜蝋を例にとるのは、概念的な「もの」ではなく、「われわれが触れたり見たりする物体」について語りたいから、つまり、前に触れた言葉をあえて使うならば、「広義のもの」ではなくて、「狭義のもの」について語りたいからなのである。

 「たとえば、この蜜蝋をとってみよう。これは、いましがた蜂の巣からとりだされたばかりである。まだそれ自身の蜜の味をまったくは失っておらず、もとの花の香りもなおいくらかは保っている。その色、形、大きさは明白である。固くて、冷たく、たやすく触れることができる。なお、指先でたたけば、音を発する。結局、ある物体をできるだけはっきり認識するために必要と思われるものは、すべてこの蜜蝋にそなわっているのである。
 しかし、こういっているうちに、この蜜蝋を火に近づけてみるとどうであろう。残っていた味はぬけ、香りは消え、色は変わり、形はくずれ、大きさは増し、液状となり、熱くなり、ほとんど触れることができず、もはや、打っても音を発しない。これでもなお同じ蜜蝋であるのか。そうである、と言わなければならない。だれもそれを否定しない。だれもそうとしか考えない…」(René Descartes:Les Méditations, Ⅱ, para12)。

デカルトは、『省察』の中で「実体」や「属性」といった言葉を使用してはいないのだが、この箇所は「実体」を導入するための典型的な手順を簡潔に描いてみせている。つまり、「もの」の「属性」を数えあげる→その「属性」をすべて変化させる→「属性」の変化にもかかわらず「もの」の同一性が保たれていることを認めさせる、という手順である。後は、「もの」の同一性を保障する「属性」の「担い手」を呼び出してその正体を明らかにするだけ充分である。それによって「ものとは何か」という問いは終結を迎える。
この蜜蝋の例は、デカルトが述べているように、たしかに「だれもそうとしか考えない」ほどの明瞭さをそなえている、と言えるかもしれない。しかし「だれもそうとしか考えない」のは、あくまで、属性の変化にもかかわらず「この蜜蝋」の同一性が保たれている、ということ以上でも以下でもない。その同一性は、同一にとどまる「実体」を想定すれば一応説明はつくだろうが、それが唯一の方策ではないし、「実体」を想定しない説明も可能であるだろう。たとえば、ⅰ)実はすべての属性が変化したわけではなく、蜜蝋の何らかの(目に見えない)「化学的」属性が保たれているために、蜜蝋の同一性は損なわれることはないのだという考え方。あるいは、ⅱ)かりに化学的属性を含めたすべての属性が変化したとしても、固体の蜜蝋と液化した蜜蝋との間に時間‐空間的連続性が成り立っていることは容易に認識できるのであるから、その連続性が蜜蝋の同一性の認識を可能にしているのだという考え方等々。


(1.24)     ほかにもまだ蜜蝋の例を別様に解釈することは可能であろうが((1.28)でやや詳しく見ることにする)、デカルトは、「実体」を認めないどのような解釈も拒絶したことだろう。なぜならデカルトにとって、「属性」があるならばそれを担う「実体」は存在しなければならないのであるから。それは、デカルトの哲学にとっての「公理」のようなものである。このことは、かの有名な「私は考える、ゆえに私は存在する」という命題を取りあげることによって、明らかになる。この命題は、次のような論証形式によって支えられている。

(ⅰ)ものは、その属性と、その属性が帰属する実体から成りたつ。[前提]
(ⅱ)属性が存在しているならば、その属性が帰属する実体も存在していなくてはならない。[(ⅰ)より]
(ⅲ)思考は一つの属性である。[前提]
(ⅳ)思考が存在しているならば、それが帰属する実体も存在している。 [(ⅱ)と(ⅲ)より]
(ⅴ)思考は存在する。[このことは、たとえば「私は考える」から直接明らかである]
(ⅵ)この思考が帰属する実体は存在する。すなわち、「私」は存在する。[(ⅳ)と(ⅴ)より]

「私は考える、ゆえに私は存在する」が、この(ⅴ)から(ⅵ)への推論のヴァリエーションであることは容易に見てとれる。だがこの推論の妥当性は昔から疑問視されてきた。たしかに(ⅰ)から(ⅴ)の前提をかりに認めるならば、(ⅵ)は演繹的に導き出されるように見える。しかし、

Ⅰ) 判りやすくするために、(ⅴ)を「思考は存在する。たとえば、現にいま私は考えている」と言いかえてみよう。すると「この思考が帰属する実体は存在する。すなわち、私は存在する」が導き出せるように見えるかもしれない。しかしそう言いかえてしまうと、(ⅵ)の帰結で初めて証明されなければならないこと、つまり「私」の存在を、(ⅴ)ですでに前提してしまうことになる。これは、論証過程で犯してはならない誤りの一つ、「論点先取」の誤りを犯すことである。
Ⅱ) 論点先取を避けるためには、論証の過程で一切「私」に言及してはならないことになる。すると(ⅰ)から(ⅴ)までを前提とするならば、導き出せるのは「思考が帰属する実体は存在する」だけであって、「すなわち、「私」は存在する」の導出は不可能となる。「私」の存在を帰結部分で唐突にもち出すのは論証として不適切である。また、かりに私が死んでなおかつ私以外の誰かが思考しているならば、(ⅴ)と(ⅵ)の前半部分は成り立つが、「私は存在する」は偽である。また、かりに私が確固たる唯心論者で霊魂の不滅を信じて疑わず、「私が考えるとき、実は、私の中にある不滅の霊魂が考えているのだ」と信じているならば、(ⅴ)と(ⅵ)の前半部分から「ゆえに不滅の霊魂は存在する」という帰結を引き出しても良いということになりかねない。「私は存在する」は、一義的な明瞭さをともなって、先行する論証部分に基づいて証明されているわけではない。
だから、「私は考える、ゆえに私は存在する」の論理的不整合は明白であるように見える。だが、この命題は、デカルトにとって「必然的に真」である命題と見なされている。このギャップは埋めることができるだろうか。デカルトにとって、蜜蝋の例は「だれもそうとしか考えない」ほどの明白なことを指し示している。つまり「もの」の実体性を指し示している。(ⅰ)から(ⅵ)(の前半部分)の論証は蜜蝋の例を論理的に展開したものであるから、それは、蜜蝋の例とまったく同じ自明性をもっている。「私」も一個の「もの」である。もし私が「思考」していることが疑いえないならば(実際そうなのだが)、「思考」の「担い手」である「私」も存在していなければならない。たしかにこれほど明白なことはないように見える。
だがそのように言えるのは、「思考」している「私」を「もの」の一種として考え、「思考」をその「もの」の属性として捉える限りでのことである。だがこのことは、控えめに言っても、明白であることから程遠いように思われる。デカルトがそのような疑念にとらわれないのは、「私」や「思考」を、すべて「ものとは何か」に対する特定の答えに還元して理解していたからであり、そのことになんらの懐疑の目も向けなかったからである。この理解の仕方は、たしかに、論理的に首尾一貫していた。(ⅰ)の実体論の前提がなかったならば、そもそも「私」についてのいかなる言明も可能ではなかっただろう。
こうしてデカルトの思考においては、「もの」の形而上学的構造がまず疑いえないものとしてあって、その自明性が「私」や「思考」にいわば演繹的に分け与えられるわけであるが、それはまるで「思考」が「もの」の前ではうやうやしく立ち止まらざるをえないかのようであり、「もの」にたいして「思考」はいわば思考停止の状態に陥らざるをえないかのようである(デカルトの『省察』については第四章でふたたび立ち返ることになるだろう)。


(1.25)     「ものは、その属性と、その属性が帰属する実体から成りたつ」という大前提は、デカルトにとって、「精神」にも「物体」にも等しく当てはまるものと見なされた。だがバークリーやヒュームは、まさにこの前提を掘り崩すことから始めた。「もの」は属性の集合、あるいはイギリス経験論において愛用された言葉を使うならば「観念」の集合であり、あるいはヒュームの表現を借りるならば「知覚の束(bundle)」であり、そしてそれに尽きるのである。
 この観点に立つならば、「実体」なるものは「虚構」であるだろう。もっとも、「虚構」という言葉は、始末に負えない言葉である。「観念」も「虚構」の一種であると言える余地はある。したがって「実体」に代えて「観念の集合」をもち出すのは、ある虚構を別の虚構に置き換えるだけという結果になる恐れがあるのだが、以下に紹介するバークリーの説明における「観念」は単純そのものである。それは、すべて「属性」の言いかえなのである。

 「視覚によって、私は、様々な度合いと変動をともなった光と色彩の観念をもつ。触覚によって、私は、固いと柔らかい、熱と冷たさ、運動と抵抗を知覚する…。嗅ぐことは私に臭いを提供する。舌は味を提供する。聞くことは、精神に音を、音色や配列が多様である音を伝える。そしてこれらのいくつかが相伴っていると観察されるとき、それらは一つの名前によって印づけられ、一つのもの(one thing)として見なされるようになる。たとえば、ある種の色、味、香り、形、固さが、一つに集まっている(go together)ことが観察されたとき、他とは異なった一つのもの(one distinct thing)として考えられ、りんごという名前によって表示される。観念の別の集合は、石や、樹木や書物やそれらと同様の感覚的なものを構成する…」(George Berkeley: A treatise concerning the principle of human knowledge, paragraph 1)。

 この説明は、「もの(thing)」についての説明なのであろう。しかも感覚される「もの」についての説明なのであろう。感覚は「もの」の観念を、言いかえれば「もの」の属性を提供する。それらの属性が「一つに集まる」ことが観察されるとき、一つの「もの」が構成される。だが同時に「名前(name)」も構成されるのである。バークリーにおいて、「もの」について説明することは、ものの名前の意味を説明することと等価であるらしい。「もの」としてのりんごについて説明することは、「りんご」という語を使うにあたって何をすべきか、あるいは事実としてだれもが何をしているか、を記述することである。「りんご」とは何か、という馬鹿馬鹿しい問いかけがあったとする。その問いに対して、それは赤くて、固くて、甘酸っぱい香りがして…等の属性を数えあげる以外のことはだれも思いつかない。ある言葉の意味を考えるということは、たいていの場合、そうした属性の集合を思い起こすことである。この「観念」が何らかの意味で「一つになっていること」が言葉の意味を構成し、ひいては「もの」のあり方を構成している。両者は不可分である。「もの」は、それが感覚的に知覚されるときですら、すでに言葉として、しかも誰もが共有している常識的な語義として立ち現れる。われわれが「もの」を見るとき、「もの」はすでに「語られるもの」なのである。


(1.26)      すこし余談に逸れるが、次の点を補足しておこう。バークリーにとってこういう観念論的説明は「精神」に適用されない。
 「観念のこうした際限もない多様性のほかに…それらについての知識をもったり知覚したり、意志や想像や記憶といった多様な知的働きを行使するものがある。この知覚する能動的な存在は、私が心、精神、魂あるいは私自身と呼ぶものである。これらの言葉によって私が指し示すのは、私のいずれの観念でもなく、観念とはまったく異なるものであって、その中に(wherein)観念が存在するもの、あるいは同じことだが、それによって(whereby)観念が知覚されるものである。なぜ同じかというと、観念の存在とは知覚されることに存するからである」(Berkeley,op.cit, paragraph 2)。
したがって、「もの」=「観念の集合」という図式は「心、精神、魂あるいは私自身」には適応されない。これはどういう意味なのか。たとえばバークリーが「私自身(myself)」と呼ぶものは「もの」ではない、ということなのか。「私自身」とは観念を知覚する当のものなのだから、その「私自身」についての観念や知覚はありえないということなのか。だが事実として、「私自身」についての観念や知覚をもつことはできる。というより、「私自身」を捉えることができるのは、「知覚」をとおしてである。後にヒュームは、そのことをまことにそっけない言葉で言い表した。
「私が、私自身と私が呼ぶものの奥深くに入っていくとき、私がつねに遭遇するのは、熱いや冷たい、光や陰、愛や憎しみ、苦痛や快といった何か特定の知覚である。いついかなる時でも、私は知覚なしに私自身を捕まえることは決してできないし、知覚以外の何ものをも観察することは決してできない」(David Hume: A treatise of human nature,PartⅣ Sect.VI)。
「私自身」と呼ばれるものも、「熱いや冷たい、光や陰、愛や憎しみ、苦痛や快といった何か特定の知覚」の集合、束にすぎないとヒュームは言いたいわけである。通常、「実体論」の否定、つまり「束理論」の考え方を、バークリーは「物体」だけに適応し、ヒュームは、「物体」のみならず「精神」にも拡大した、と評されることが多い。だがヒュームがバークリーの「不徹底」を批判できたかどうかはそれほど明白ではない。バークリーの言い分が、かりに「私自身」についても「知覚」という接近方法しかないとしても、「私自身」を知覚する「私」は知覚されているわけではないし、知覚される「私」と知覚する「私」は別物であるという言い分であるとするならば、ヒュームの批判はバークリーに当てはまらないかもしれない。上の引用文の「私が、私自身と私が呼ぶものの奥深くに入っていくとき、私が…」における「私」と「私自身」の間に同一性は成り立っていないように思われる。「私」は「私自身」に入りこむ。「私」は、「私自身」がその時々の「知覚の束」にすぎないことを見出す。そのときの「私自身」とは観察対象としての「私」である。だが観察する「私」はどうなのか。諸事実を観察し、そこから一定の帰結を導き出す「私」もまた知覚の束にすぎないのであれば、なぜことさら「私」と言わなければならない必要があるのだろうか。それは知覚の束にすぎないのであるから、非人称の誰かあるいは何か、で良いはずである。そうであるとしても、「私自身の奥深くに入っていく」という言葉を書きつけるその「誰かあるいは何か」は、やはり「私自身」とここで呼ばれているものとは別物である、と言うほかはない。ヒュームはたしかにバークリーの考え方を拡大したのだろうが、それはいささか単純かつ無邪気な拡大の仕方であった。だが「私」については第四章で述べることにするので、ここでこの点に深入りするのは控えることにしたい。

(1.27)     いずれにせよ、バークリーとヒュームにとって、「もの」とは知覚の束であり、観念の集合である。言うまでもないことだが、バークリーとヒュームは「経験論(empiricism)」を代表する哲学者であると言われる。だが、「もの」の構成要素として「実体」(あるいは「裸の基体」)をあげる立場に比べて、「もの」を観念の集合と見る立場の方がわれわれの日常的な「経験」に忠実な考え方だと言えるのかどうかは疑わしい。「経験」という言葉をあえて使うとしても、この「経験論」が問題にしている経験とは「思考」の経験であろう。
われわれが思考に従事するとき、つまり、「もの」が不在であるにもかかわらずわれわれが「もの」について思考するとき、われわれが経験するのはその不在の「もの」が立ち現れる仕方である。それを「経験論」は「観念」として語る。「観念」は部分的な仕方でしか与えられず、他の「観念」による補完を求める。それらがある種の一体性を獲得するとき、不在の「もの」として「思考」によって捉えられる。その一体性に対してわれわれは特定の言葉を付与する。あるいは、その一体性がその言葉の意味であり、その意味をとおして「もの」がわれわれに与えられる。すでに見たことから明らかなように、バークリーが「もの」について与えた説明は、言葉の意味についての説明でもあった。思考の経験において、「もの」は、「もの」の語義を通してしか立ち現れない。「もの」と「言葉」は、「属性の集合」という仲立ちをとおして相互に反映し合う一対の合わせ鏡のようなものである。このことを一面から言うならば、「もの」とはまず「思考」において語られるものであって、それに尽きる。たとえ「もの」が眼前にあって鮮明に知覚されているとしても、それに尽きるのである。デカルトも「思考」の経験の内部に徹底してたてこもった人だが、「たとえば、この蜜蝋をとってみよう」と述べたとき、思考の内部から唐突にその外部にとび出ていたようだ。ごく単純明快な意味で蜜蝋という「もの」があり、それが属性的に変化していくことを万人と同じ目線でデカルトは記述している。そこから「だれもそうとしか考えない」という万人のお墨付きが結実として得られるわけである。この点については後の(1.44)でまた立ち返ることにして、次に「実体論」vs「束理論」の対立をごく一般的な仕方でたどってみることにしよう。


(1.28)  「実体論」の原型は、デカルトの蜜蝋の例に簡潔に描かれているが、そこには「束理論」に対する反論の原型も見出しうる。かりに「もの」が「属性の束」にすぎないのであれば、その「属性」がすべて変化した後でも「同一の」蜜蝋であると言えるのはなぜかを「束理論」は説明しなければならない。それはたしかに難しいように見える。そもそも「もの」の「変化」を言うことが不可能であるように見えるからである。
かりに熱する前の蜜蝋を構成する「属性の束」を‘ABCD…’として、熱した後の蜜蝋の「属性の束」を‘A’B’C’D’…’と表記してみよう。起こったことは、‘ABCD…’の‘A’B’C’D’…’への変化である。デカルトの目の前にあって「これは、いましがた蜂の巣からとりだされたばかり」と述べられた蜜蝋をaと表記する。「束理論」によれば、a=‘ABCD…’なのだから、‘A’B’C’D’…’の集合はもはやaと表記されることはできない。それはせいぜいa’と表記されるしかないだろう。このことは、同一の「もの」の「変化」と言うよりも、aという「もの」がa’というまったく別の「もの」に置き換わったことを意味するだろう。だがこれはわれわれの直観に反する。明らかに同一の「もの」が変化したのであって、この点については「だれもそうとしか考えない」。だから「束理論」的な考え方は否認されなければならない、とデカルトならば言うだろう。
だがこのような反論に心を動かされる「束理論」の支持者はおそらく皆無だろう。蜜蝋(=a)が‘ABCD…’という属性の集合をもっていた時点をtとして、熱せられた結果‘A’B’C’D’…’という集合が目の前に見出される時点をt’としよう。「束理論」の大前提を「ものは属性の束である」と単純に捉えるならば、たしかに時点tから時点t’の間に全面的に変化してしまった蜜蝋の同一性を、「束理論」は説明することはできない。それは、「束理論」が「もの」の説明をするときに、時間という要因や変化と同一性といった要因をさしあたり考慮に入れないからである。
「束理論」は、時点tにおける蜜蝋(=a)を捉えて、aは{ABCD…}という属性によって構成されていると言い、時点t’における蜜蝋(=a´)を捉えて、a´は{A’B’C’D’…}によって構成されていると言う。その主眼点は、各時点における個体のあり方に対して、その構成要素を申し立てることにあり、それに尽きる。したがって「束理論」の原則は次のように定式化されるべきかもしれない。つまり、「ある時点における「もの」とは、そのときたまたま相互に関連しあっている属性の束である」(これを「改訂版(の「束理論」の原理)」と呼ぼう)。
では、変化しながら同一性を保つ「もの」はどうなるのか。その「もの」は、たんなる属性の束として捉えることはできない。そう批判するとき、「実体論」は、ⅰ)各時点での「もの」のあり方と、ⅱ)時点間で変化しながら同一性を保つ「もの」のあり方に対して同じアプローチがとられなければならない、と前提しているのである。たしかに「実体論」は、ⅰ)に関しては、多様な属性を一つに束ねるという役割を「実体」に帰し、ⅱ)に関しては、変化にもかかわらず維持される同一性の根拠を「実体」に帰する。つまりⅰ)とⅱ)に同じアプローチを適用しているのであり、同じことを「束理論」にも要求するのである。そして「束理論」に対して、その要求を満たすことができないといって批判するわけである。
だが見やすい道理というものだが、ⅰ)とⅱ)に対して同じアプローチをとらなければならない、という理由は存在しない。「束理論」が本来の「もの」として認めるのは各時点における(いわば瞬間的な)「もの」である(「改訂版」の「もの」)。時点をまたぎ越して持続的に存在するものを「もの」と呼んでいいとしても、それに「改訂版」の原理は当てはまらない。かりにその「もの」を、拡張された意味での「もの」(=Ⅹ)と呼ぼう。Ⅹは、たんなる「属性の束」ではありえない。各時点の「もの」が「属性の束」によって構成されているのであれば、Ⅹは「属性の束の束」によって構成されたもの、と見なさなければならない。つまりⅩは、{a(={ABCD…})、a’(={A’B’C’D’…})、a’’(={A’’B’’C’’D’’…})、…}という集合の集合によって構成されたものである。「束理論」にとって、aのあり方が{ABCD…}という集合によって申し分なく記述されるのと同じように、Ⅹのあり方は{a、a’、a’’、…}という集合の集合によって申し分なく記述される。「束理論」は「もの」の変化を捉えられないという反論は、「束理論」についての不当なまでに狭い解釈に基づいている、と言えるだろう。


(1.29)     デカルトの蜜蝋は、時点tにおいて、{固い、冷たい、たやすく触れることができる、…}という属性の集合として私に現れた。時点t´では、{液状で、熱く、容易に触ることができない、…}という属性の集合として私に現れた。両者の集合は、両立できない一対の要素によってそれぞれ特徴づけられている。それにもかかわらず、両立できない集合間に何らかの同一性が成り立っているとすれば、その同一性は属性の概念によっては説明できず、属性上の変化の背後(あるいは根底)に求められなければならない、というのは本当だろうか。蜜蝋はあるときは{ABCD…}として、あるときは{A’B’C’D’…}として現れると述べるだけで事足りるのではないだろうか。もっとありふれた例を考えてみよう。私は直方体の消しゴムを手に持っている。それを軽く空中に放ってみる。消しゴムは、放物線の軌跡を描いて、一瞬のうちに細長い直方体から、幅のない長方形のように、あるいは鋭角的なひし形のように見えながら、直方体としてもとの手のひらに収まる。この瞬時の出来事の諸断面は、{…、直方体、…}、{…、幅のない長方形、…}{…、鋭角的なひし形、…}という属性の集合として記述できる。これらの集合は、それぞれ内容的に異なってはいるが、属性があい集まってこの消しゴムという一つの全体を構成するという点で、その全体に対して同じ関係に立っている。このことを連続的に意識することが消しゴムという「もの」についての知覚であるならば、「もの」の同一性は、属性の集合を次々と知覚することからおのずと浮かび上がってくるものである、と言うだけで充分であると「束理論」は考える。属性の集合の背後あるいはその根底(sub+stance)を求める必要はないのである。
「束理論」にとって、「もの」は私にとっての「現われ」(経験論が言うところの「観念」)、その「現われ」の中で示される属性の集合という概念によって説明し尽くされる。「もの」が私にどのように現われるか、ということはある意味で私の経験にとってもっとも身近な出来事であり、「束理論」はその内部に踏みとどまる。この観点から見るならば、「実体」という概念は「現われ」の次元を一挙に捨象してその背後あるいはその根底にある(sub+stance)と想定されるものである。言いかえれば、言葉の元来の意味での「仮設(hypothesis)」、つまり、「下に(hypo)置かれたもの(thesis)」であり、それ以外のものではない。この「仮設」という概念が「実在」に関連づけて考えられるとき、「実体論」vs「束理論」の対立は、「実在論」vs「観念論」の対立となって現れる。これまでの論述は、その古典的な側面の一部を粗描したものであった。
しかし、「実体論」vs「束理論」の対立は、その古典的な側面で尽きてしまうものではない。二〇世紀の後半ともなると、この対立は論理的な観点から論じられるようになった。次にこの新しいヴァージョンを見ることにしよう。



3. 「実体論」vs「束理論」 今日的ヴァージョン  


(1.31)      「実体論」vs「束理論」の対立が、二〇世紀後半になって「論理」という「新たな皮袋」に入れられたとき、一見その対立とは何の関係ももたないように見える「不可識別者同一」の法則に決定的に重要な意義が帰されるようになった。
ある考え方によると、ⅰ)「束理論」は「不可識別者同一の法則」を受け入れざるをえないが、ⅱ)「不可識別者同一」の法則は誤っているので(すでにマックス・ブラックが論証したように)、ⅲ)その法則を受け入れざるをえない「束理論」も誤っている、ということになる。このようなタイプの論証が、「実体論」と「束理論」の間で交わされる論争の最近のあり方に大きな影を落としていることについては、Micheal J.Loux: Metaphysics. A contem-
porary introduction, second edition,P.111f. Dean W.Zimmer-
man: Distinct Indiscernibles and the Bundle Theory, in Mind, vol.106(1997)等がよい実例を示している。この論争全体を概観するためには、まず、「不可識別者同一」の法則についての知識が必要である。この法則の適切な理解のためには論理的な定式化が不可欠なのであるが、しばらくは直観的なレベルにとどまって説明をすることにしたい。

「不可識別者同一(The Identity of Indiscernibles)」の法則については、いく通りもの定式化が可能である。そのどれを選ぶかという問題に時間を費やさないために、上記のマイケル・ルーの著作における定式を、ある理由からそのまま利用させてもらう(どのような理由かは後に判る)。さすがに日本語だけでの理解は困難なので、英語の原文もあわせて記すことにしよう。ルーの理解する「不可識別者同一」の法則を(IIn)と略記するならば、それは次のように定式化される。

(IIn): どのような具体的な対象 aと b に対しても、次のことが必然的に成り立つ。つまり、「どのような属性Φに対しても、Φがaの属性であるのは、Φがbの属性である時であり、そしてそのときに限るのであるならば、a はbと数的に同一である」ということが必然的に成り立つ。
(IIn): Necessarily, for any concrete objects, a and b , if for any attribute, Φ, Φ is an attribute of a, if and only if Φ is an attribute of b, then a is numerically identical with b.

 これは、このままの形では理解することが困難であろう。だがこれは論理学の約束事に沿った表現なので、その約束事を理解すれば多少は理解しやすくなるはずである。最初の「どのような具体的な対象 aと b に対しても、次のことが必然的に成り立つ」の部分は説明の必要はないだろう。それに続く箇所を一つの全体としてみるならば、それは、‘if …… ,then ------’という形式になっている。これは、論理的には、‘M⇒N’(「MならばN」の意。ただしM,Nは任意の命題)と形式化できる条件文である。‘ if ……’の条件節の内部は、‘ …… if and only if ------’という形式になっている。これは、論理的には‘M⇔N’(「MならばN」かつ「NならばM」、あるいは「MとNは論理的に同値」の意)と形式化される「双条件」あるいは「同値」を表わす文である。つまり、「どのような属性Φに対しても、Φがaの属性であるのは、Φがbの属性である時であり、そしてそのときに限るのである」とは、aに当てはまるどのような属性もbに当てはまる(その逆も真)ということ、つまり、aとbは属性的に同一である、ということである。aとbが属性的に同一であるということは、両者が識別不可能である、ということである。だから‘if …… ,then ------’の箇所全体を簡潔に言い表すならば、「aとbが識別不可能であるならば、aとbは数的に同一である」ということである。以上から(IIn)全体を簡潔に言い表すと次のようになる。

(IIn): どのような具体的な対象 aと b に対しても、「aとbが識別不可能であるならば、aとbは数的に同一である」ということが必然的に成り立つ。
 
 さて最後に、「数的同一性」についての説明を加えなければならない。「aとbは同じである」とか「a=b」といった表現をわれわれは何の気なし使うが、そうした表現は少なくとも二つの意味に解される余地がある。「あなたの車は彼の車と同じだ」というとき、それは「車種」がたまたま同じであるのかもしれないし(たとえば「トヨタ」の「カローラ」の2000年型)、あるいは「あなた」と「彼」がひそかに同居していて同じ車を使い回しているのかもしれない。前者の場合は「同じ」といっても、ほかに何万台も「同じ車」はある。だが後者の場合は、「同じ車」は特定の車体番号によって他のあらゆる車から識別可能であり、世界に一台しか存在しない。前者の「同じ」は「質的同一性(qualitative identity)」、後者の「同じ」は「数的同一性(numerical identity)」と呼ばれる。
 (IIn)は、二つの対象間に「質的同一性」が成り立つのであれば、「数的同一性」も成り立たなければならない、と言っている。このことを逆に言い換えるならば、数的に違う具体的な対象が、あらゆる属性を共有することは不可能である、ということである。


(1.32)     最後の文に注目してみよう。「不可識別者同一」の法則を反駁するには、「数的に違う具体的な対象が、あらゆる属性を共有することは不可能である」の反例、つまり「数的に違う具体的な対象が、あらゆる属性を共有する」ことが可能であることを示せばいい。そしてそのことを、マックス・ブラックという哲学者が試みた。「不可識別者同一」と題された彼の論文は、「実体論」vs「束理論」の論争において必ずといっていいほど引き合いに出される(そしてほぼだれもが肯定的に受け入れている)論文であるのだが、その一節を紹介しよう。
 
「B.宇宙には、まったく類似した二つの天体しかなかった、ということは論理的に可能ではないだろうか。それぞれの天体が化学的に純粋な鉄からできていて、直径一マイルで、同じ温度、色等を持っていて、それ以外には何も存在しなかった、とわれわれは想定してもいいだろう。そのとき、一方の天体のあらゆる属性と関係的特質は、他方の天体の属性と関係的特質でもあるだろう。さて、いま私が記述していることが論理的に可能であるならば、二つのものがあらゆる属性を共有していることは不可能ではない。このことは、不可識別者同一の法則を反駁しているように、私には思える」(Max Black: The Identity of Indiscernibles, in Mind, vol.61(1962))。 

この論文はAとBの対話者から成り立っていて、いま紹介した部分は、Bのもっとも基本となる主張である。それに対してAがいかなる反論をしたかは後に見ることにしよう。
見られるとおり、ブラックの登場人物Bは「数的に違う対象が、あらゆる属性を共有することは論理的に可能である」と言っている。この「論理的に可能」とは、一体どういうことなのか。ただたんに、そのように想定することに矛盾はない、ということなのか。それとも通常の論理の枠組みの中で実現可能である、ということなのか。意外なことに、B自身はその点について何も言っていないのである。
いまBの主張を、先に示した(IIn)にそくした形で具体的に展開してみよう。ここからは論理的な表記に頼らなくてはならないので、それについての簡単な説明を加えながら進めていく。

「ブラックの宇宙」は二つの天体から成り立っている。それを(IIn)にならって、aとbと表記しよう(これらは「個体」を表わす記号という意味で「個体定項」と呼ばれる)。簡略化のために、aもbも「化学的に純粋な鉄からできていて、直径一マイルである」という属性だけをもっていて、「他の天体から二マイル離れている」という関係によって特徴づけられている、と仮定しよう。つまりブラックの宇宙では、次の六つの命題が成り立つ。
(B1):「aは化学的に純粋な鉄からできている」。
(B2):「bは化学的に純粋な鉄からできている」。
(B3):「aは直径一マイルである」。
(B4):「bは直径一マイルである」。
(B5):「aはbから二マイル離れている」。
(B6):「bはaから二マイル離れている」。

これらの命題からaとbを抜き取ると、「…は化学的に純粋な鉄からできている」、「…は直径一マイルである」、「…は…から二マイル離れている」という表現が残る。前二者は「一項述語」と呼ばれ、「もの」の「属性」を表わす表現である。最後は「二項述語」と呼ばれ、「もの」と「もの」の「関係」を表わす表現である(「関係」とは二つの「もの」の間に成り立つ「属性」であると見なすこともできるのだから、以下では「関係」を「属性」に含めて理解する)。これらは、P(…)、Q(…)、R(…,…)と関数的な表記で表わされるのが慣例である。(…)の部分は、任意の対象を表わす記号が代入されうる場所を示す。それは、任意の個体を表わす変項(x、y、z…)で表わされることが慣例なので、P(x)、Q(x)、R(x,y)と表記することにしよう。すると(B1)から(B6)は、P(a)、P(b)、Q(a)、Q(b)、R(a,b)、R(b,a)と略記できる。「ブラックの宇宙」を(BU)と表記するならば、それはいま挙げた六つの命題が表わす事態によって余すことなく記述される。

(BU): P(a)、P(b)、Q(a)、Q(b)、R(a,b)、R(b,a) 

 以上に加えて、命題と命題を結合する「操作子(operator)」の説明を簡単にしておかなければならない。MとNを任意の命題とすれば、「MならばN」はM⇒N、「MかつN(MとNがともに成り立つ)」はM∧N、「MあるいはN(MとNのどちらかが成り立つ)」はM∨N、「MとNは同値」はM⇔Nと表記される((M⇒N)∧(N⇒M)の略記である)。


(1.33)     上で述べたことを一般化してみよう。論理学では、ある述語に対して二つの「一般化(generalization)」が可能である。たとえば、「xは化学的に純粋な鉄からできている」という述語に対して、「あるもの(something)は化学的に純粋な鉄からできている」(あるいは「化学的に純粋な鉄からできているものが存在している」)という形の一般化が成り立つ。これは、P(x)の「存在一般化(existential generalization)」と呼ばれ、∃ⅹP(ⅹ)と表記される(∃は「存在量化子(existential quantifier)」と呼ばれる)。この一般化と「等号」を用いて、ブラックの宇宙についてのある一般化をすることができる。この宇宙にはaとbという二つの天体しかない。かつaとbは「数的に同一」ではないのだから、a≠b。これに対して三通りの「存在一般化」が可能である。つまり、ⅰ)「あるものはbと同じではない(∃ⅹ(ⅹ≠b))」、ⅱ)「あるものはaと同じではない(∃y(a≠y))」、さらにはaとb同時に一般化を施すことができる。つまり、ⅲ)∃ⅹ∃y(ⅹ≠y)。これは「同じではない二つのものがある」と読むことができる。これを先ほどのリストに追加しよう。

(B7): ∃ⅹ∃y(ⅹ≠y) 

また、ブラックの宇宙にはaとbしか存在せず、ともにP(ⅹ)という属性をもっていることから 「あらゆるものはPである」がブラックの宇宙では成り立つ。このような一般化は、Pの「普遍的一般化(universal generalization)」と呼ばれ、∀ⅹP(ⅹ)と表記される(∀は「普遍量化子(universal quantifier)」と呼ばれる)。同様に考えて、「あらゆるものはQである」、つまり∀ⅹQ(ⅹ)が成り立つ。だが、同様に考えて、「あらゆるものはRである」と言えるだろうか。Rは二項述語であり、「あらゆるものは…から二マイル離れている」は、それだけでは意味をなさない不完全な文である。そこで、(B5)を「aはあるものから二マイル離れている」(∃yR(a、y))と、(B6)を「bはあるものから二マイル離れている(∃yR(b、y))」と「存在一般化」を施してみる。すると、aもbも∃yR(…、y)を充たしており(つまりいずれも「あるものに対してRの関係に立つ」という属性を満たしており)、aとbが「ブラックの宇宙」の「すべて」なのだから、「すべて」が∃yR(…、y)という属性をもっているということが、ブラックの宇宙で成り立つ。このことを「普遍的一般化」を用いて表現するならば、∀ⅹ∃yR(ⅹ、y)と表わすことができる。

(IIn)には「どのような属性Φに対しても…」という言い回しが登場していた。量化子は「個体」のみならず、「属性」に関わることもできる。たとえば、P(a)から「aに当てはまる属性がある」を推論することは妥当である。それは∃Φ(Φ(a))と言い表すことができる。ブラックの宇宙における「属性」は、P(x)、Q(x)、R(x,y)である。ただし、R(x,y)は、上に述べた事情から、より一般化して「あるものから二マイル離れている(∃yR(…、y))」と言い換えて、この属性をR’(ⅹ)と表記する。するとブラックの宇宙における「属性」は、P(x)、Q(x)、R’(x)となる。先ほどの(BU)を少し変更するならば、

(BU’): P(a)、P(b)、Q(a)、Q(b)、R’(a)、R’(b) 
 
「ブラックの宇宙」のどのような属性を取り上げても、それはaに当てはまる。つまり、∀ΦΦ(a)。また、bも同様に考えられる。∀ΦΦ(b)。つまり、どのような属性Φを取りあげても、Φ(a)とΦ(b)は真であり、したがって同値である。つまり、∀Φ(Φ(a)⇔Φ(b))。このことを先ほどの(B7)と合わせて表現してみよう。ブラックの宇宙では、「二つの数的に同一ではないもの」が存在していて、かつ、その二つのいずれに対しても「すべての属性」が等しく当てはまる。つまり、

(B8): ∃ⅹ∃y [(ⅹ≠y)∧∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))]

さて、(IIn)、つまり「不可識別者同一」の法則に戻ってみよう。それは、「どのような具体的な対象aとbに対しても、「aとbが識別不可能であるならば、aとbは数的に同一である」ということが成り立つ」と述べている。「aとbが識別不可能である」は、「どのような属性ΦにたいしてもΦ(a)とΦ(b)は同値である」に等しい。すると、次のような論理的一般化が可能となる。おそらくこれが、「不可識別者同一」の法則のもっとも簡潔な表記であるだろう。

(IIn)’: ∀ⅹ∀y [∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))⇒(ⅹ=y)]

この「法則」を反駁するには、その反証例を一つでも挙げれば充分である。つまり「等しくない二つのものに対して、すべての属性が等しく当てはまる」という例を挙げればいい。だがそのことは、(B8)によって一般的に、(BU’)によって具体的に示されている。以上から、「不可識別者同一」の法則は誤りである、という帰結が導かれるわけである。


(1.34)     さて本題に戻ろう(といっても本題から外れていたわけではないのだが)。なぜ、「実体論」vs「束理論」の論争で、「不可識別者同一」の法則が問題になるのか。「ブラックの宇宙」のaとbを取りあげよう。aは{P、Q、R’}という属性の集合によって構成されている。bも{P、Q、R’}という属性の集合によって構成されている。「束理論」の前提からすると、aもbも同じ「属性の集合」によって構成されているのだから、 a=bでなくてはならない。つまり、「束理論」は「不可識別者同一」の法則を受け入れざるをえない。しかしその法則が誤っていることは、(1.33)の論証で明白なのだから、「束理論」が誤りなのも同様に明白である、ということになる。
この論証の道筋は、「実体論」vs「束理論」の論争に参加するたいていの人によって是認されているようである。そのうえで、「束理論」の支持者は、この法則が妥当しないような部分的修正を試みるのである。ある者は「属性」の解釈を現象論的に変えてみたり(O’Leary-Hawthorne,J: The Bundle Theory of Substance and the Identity of Indiscernibles,in Analysis(1995))、また「束理論」の原則を経験的に適合するだけの「弱いヴァージョン」に修正したりするのである(Casullo,A: A Fourth Version of the Bundle Thoery,in Micheal J.Lou(ed):Metaphysics, contem-
porary readings, p.134-148)。
だがそのような部分的修正案の細部に立ち入る必要はない。それよりも、より原理的なことを問題にしなければならない。つまり、ブラックは「不可識別者同一」の法則を反駁できたのか、という点を問わなければならない。さらに、(1.32)から(1.33)までの論証は、最初に明記したように、マイケル・ルーの定式化に倣ったものであり、ルーはこの論証を「不可識別者同一」の「決定的な反駁」と見なしている一人であるが、彼は、はたしてブラックの洞察をきちんと言い当てているのか等々。このような原理的な問いかけがあくまで重要なのである。
もう一度整理してみよう。ブラックの論文の登場人物Bは、「一方の天体のあらゆる属性と関係的特質は、他方の天体の属性と関係的特質でもあるだろう。…このことは、不可識別者同一の法則を反駁しているように、私には思える」と述べた。それをルーは、(BU’)および(B8)に帰着するように解釈した。「不可識別者同一」法則を(IIn)’:(∀ⅹ∀y [∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))⇒(ⅹ=y)])と解してよければ、(BU’)と(B8)がその反証となりうるのは確かである。
だが厄介なことが一つある。それは、Bが描く「宇宙」はそのように解釈できないということであり、しかも当のB自身そのことをよくわきまえていた、ということである。上に挙げたBの発言に対して、次のように対話は続くのである。

「A. …君の想定は検証できないし、だから意味のある想定だとは見なしがたい。しかし、君が一つの可能世界を本当に記述したと仮定しても、君があの法則を反駁したとは、私には思えない。一方の天体を考えてみよう。それをaとするならば…  
B. いや、どうしてそんなことができるんだ。二つの天体を区別する方法がないのだから。君は私に、どちらの天体を考えて欲しいんだい。
A. なんて馬鹿馬鹿しい。二つの天体のどちらか一方を、だよ。どちらにするかは、君に任せるが。「本棚から、何でもいいから、本を一冊取り出してくれ」と言われて、「いったいどの本だい」と君が答えたとしたら、それは馬鹿馬鹿しいだろう。
B. その喩えは成り立ってないね。本棚から本を一冊取り出す仕方ぐらい知っているよ。だけど、空間にそれ以外のものは何もなく、互いに対して対称的な位置を占めているので、どちらも他方がもっていないどんな属性や特質ももっていないと想定された二つの天体の一つについて、どうやってその身分を確かめられるのか、僕にはわからない。
A. だから、それこそ、前に言ったように、君の想定が検証不可能であることを示しているんだよ。一方の天体がaと命名されることを、君は想像できないのか。
B. 僕に想像できるのは、論理的に可能なことだけだ。さて、誰かが、僕の記述した宇宙に入りこんで、左側に一方の天体を見て、それをaと呼ぶことは、論理的に可能なことだ。そんなことぐらい想像はできる、もしそれで君の気がすむならば。
A. じゃ、aについて言いかけたことを、終わりまでしゃべらせてほしいんだが…
B. そうするわけにはいかないんだよ。だって、君は、今の状況下では、aについて語る権利を持っていないのだから。僕が譲歩したことは、もし誰かが僕の宇宙に変化を持ち込んで、その結果、観察者が入り込んで二つの天体を見たとしたら、その一方の天体は名前を持つことができる、ということだけだ。しかしそうなると、僕が考察したいと思ったものとは違う想定になってしまう。僕の言う天体はまだ名前をもってはいないんだ…。君は、あるものに名前をつけて、そしてそれについて考えることがこの上もなく簡単であるかのような言い方をする。だがそんなに簡単なことではないんだ。庭にいるどれかの蜘蛛に名前をつけてくれ、と僕が君に言ったとする。まず蜘蛛を捕まえて、ある蜘蛛にだけ当てはまるような記述ができるのであれば、君はそれに名前をつけることが簡単にできる。だけど、ただ思考することによっては、ある蜘蛛を選び出すことはできないし、ましてやそれに名前をつけることなどできないんだ…」。

 Bが考え出した「宇宙」は、「ただ思考することによって」成り立つ宇宙、純粋に「思考」上の世界である。それは、a、bといった個体が存在しない宇宙である。つまり、一般的事態しか存在しない宇宙、隅から隅まで一般性しか見出せない宇宙である。おそらくそこでは、(B8): ∃ⅹ∃y [(ⅹ≠y)∧∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))]は成り立つかもしれない。すると当然、(IIn)’:(∀ⅹ∀y [∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))⇒(ⅹ=y)])は成り立たない。では、Bの言うように、ここでは「不可識別者同一」の法則は成り立たない、ということになるのだろうか。
  Aはaに言及しようとしてはその都度制止される。Aは、Bの「宇宙」を{a、b}という集合として捉えようとする。だが、aやbという名前が用いられるやいなや、Bの想定に変質が生ずる。Bは一般的に「二つの天体」と言っているだけであるのに、Aはそれを、‘a’が命名する対象aと、‘b’が命名する別の対象bと解釈する。だが別々の名前をもちだすとき、Aにとって、aとbは別のものとして認識されているのでなければならない。たとえば観察者にとって左側にあるのがa、右側にあるのがb、という具合に。‘a’と‘b’という名前を使用することによって、「性質的同一性」を破綻させるある種の差異がもちこまれる。そしてこのことを、Bは禁じるのである。
だが考えてみれば、AにはAの言い分がある。「ブラックの宇宙」では、∃ⅹ∃y [(ⅹ≠y)∧∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))]という一般性をもつ事態が成り立っているだろう。以前に、任意の述語P(ⅹ)にたいして二つの「一般化」がありうることに触れた。「存在一般化」(∃ⅹP(ⅹ))と、「普遍的一般化」(∀ⅹP(ⅹ))である。論理学では通常、その逆の手続きも許容されている(推論規則として)。かりに∃ⅹP(ⅹ)が成り立っているのであれば、P(ⅹ)を充たす「もの」が存在しているわけだから、その「もの」をかりにaとすれば、P(a)が成り立っていると推論してかまわない(ただしaはまったく任意のものでなければならない)。これは「存在例化(existential instantiation)」と呼ばれる。同様に、∀ⅹP(ⅹ)からP(a)を推論することは「普遍例化(universal instantiation)」と呼ばれる。いずれも論理学にとって必要不可欠な推論規則であるが、∃ⅹP(ⅹ)や∀ⅹP(ⅹ)といった一般的命題が成り立っているのであれば、それに対して特殊例を当てはめて考えることは、とくに「論理学」に限定される必要もない、いわば当たり前の思考の道筋である。そして、その「当たり前の道筋」に沿ってAは議論をしようとしたにすぎない。そして重要なことに、ルーをはじめとする「実体論」vs「束理論」の論争に関与するほとんどすべてが、実は、Aの立場に立って「ブラックの宇宙」を見ているのである。つまり、彼らにとって、その宇宙が{P(a)、P(b)、Q(a)、Q(b)、R’(a)、R’(b)}という形で記述できるということは、言うまでもない「当たり前なこと」として始めから前提されているのである。だがこれはAが試みようとしたことであり、Bが禁じたことである。ここには何という奇妙な不整合があることか。Aは「不可識別者同一」の法則の擁護者であるのに、それと同じ観点に立ってルーは「不可識別者同一」の法則を反駁しようとしているのだから。


(1.35)     Bは、自分が描く宇宙を「論理的に可能」であると言っている。ところで、何が「論理的に可能」で何が「論理的に不可能」かを決めるには、特定の(タイプの)論理に訴えることはできない。標準的な論理をもち出して、Bの想定の論理性を判定するわけにはいかない。だが少なくとも次のことは言えるであろう。Bの描き出す宇宙には「個体」が存在しない。少なくとも「個体」を表わすための名前の使用が禁じられているのだから、「個体」を直接表現することは原理的にできない。せいぜい量化子を介して間接的に表現できるだけである。つまりこの宇宙で成り立つのは、(B8): ∃ⅹ∃y [(ⅹ≠y)∧∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))]のような一般性をもつ事態だけである。Bは「不可識別者同一」の法則を反駁しようとした。残念ながら、Bはその法則を論理的な定式という形で表明していない。そこで、かりにマイケル・ルー以下の人たちがしているように、次のような定式を持ち出してみよう。

(IIn): どのような具体的な対象 aとbに対しても、「aとbが識別不可能であるならば、aとbは数的に同一である」ということが必然的に成り立つ。

 だがこの定式は、Bの宇宙では成り立たないし、そもそも表現することすらできない。Bが容認できる定式があるとすれば、より一般的な(IIn)’であろう。しかし、この定式も、実は、(B1)から(B6)、さらには(BU)、(BU’)からの「一般化」によって得られるものなので、‘a’や‘b’といった表現の存在を間接的に前提していると言えるだろう。もしそう言えるならば、「不可識別者同一」の法則を(IIn)としようと(IIn)’としようと、おそらく、Bは自己の目的に達することはできないだろう。通常の論理を基準にして考えるならば、Bは「不可識別者同一」の法則を論理的に定式化することができない、と言うしかないからである。Bは、おそらくその法則を論駁しうる事態を「想像」できたのだろうし、その事態は「論理的に可能」である、と言えるのかもしれない。だがそれを通常の論理的手段によって言い表すことはBにはできない。論理的に「言い表せない」ものを、どうして「論駁」できるだろうか。したがって、通常の「論理」を基準にするならば、「ブラックの宇宙」は、Bの主張とは逆に、論理的に可能ではない、と言えるかもしれない(ただし、まったく個体を含まない論理が可能であるならば、その限りではない。だから、Bの主張を「論理的ではない」と断定することはできないのだが)。
 他方で、「不可識別者同一」の法則を(IIn)の意味で理解した人々は、Bが望んだ意味での「不可識別者同一」の法則に対する反例を提示することに失敗している。Bにとっては、‘a’と‘b’といった表現手段に訴えかけながら、なおかつそれらの「数的同一性」を主張することは、そもそもの始めから根本的に間違っているのだから。‘a’と‘b’といった表現を使う以上、それらは「数的に同一でないもの」を指し示していなければならない。(IIn)は、「同一でないもの」が「同一である」と公然と主張しているのだから、そこには明白な矛盾が含まれている。少なくとも、Bはそのように言うであろう。
 

(1.36)     「ブラックの宇宙」には、「まったく類似した二つの天体しかなかった」。かりに、この想定を「論理的に可能」であると考えてみよう。この想定は「不可識別者同一」の法則を反駁しているのか。だが肝心の「不可識別者」同一の法則を、Bの意図に沿うように定式化することは困難である。すでに挙げた

(IIn)’: ∀ⅹ∀y [∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))⇒(ⅹ=y)]

はBの意図に沿わないだろうか。おそらく沿うとは言えないだろう。(ⅹ=y)は(a = b)と同タイプの表現であり、(a = b)はBの想定する状況では許容されない表現だからである。もしそうだとすると、そもそもBは「まったく類似した二つの天体」に言及することがどうしてできるのだろう。そもそもどうして「二つの天体」と言えるのだろうか。
 「二つの天体」はたんに「思考」の可能性を述べただけであって、そこにはそれらを識別する観察者がいないのだから、‘a’や‘b’
という名前を使うことはできない、とBは言う。だがBが‘a’や‘b’に訴えることができないことには、別のごく単純な理由がある。かりに「ブラックの宇宙」が、{a、b}から成り立っているとしよう。そのとき、aは「aと同一である」という属性(「自己同一性」という属性)をもつ。同様に「bとは異なる」という属性(「他者との差異性」という属性)をもつ。これらの属性は、bによって所有されていない属性である(同じことはbについても言える)。つまり「ブラックの宇宙」を{a、b}として表わしてしまうやいなや、二つの天体が「まったく類似している」こと、つまり「あらゆる属性を共有している」ことは成り立たなくなってしまう。だからBは、あれほどまでに‘a’や‘b’という名前が議論に登場することを拒み続けるのである。
だからBによれば、「二つのまったく類似した天体」は{P、Q、R’}という属性の集合によって構成されている、ということ以上のことは言えないはずである。したがって、「ブラックの宇宙」が「論理的に可能」であるならば、この「可能世界」は次のように構成されている、としか言えないはずである。つまり、

(B1)’:「{P、Q、R’}は化学的に純粋な鉄からできている」。
(B2)’:「{P、Q、R’}は化学的に純粋な鉄からできている」。
(B3)’:「{P、Q、R’}は直径一マイルである」。
(B4)’:「{P、Q、R’}は直径一マイルである」。
(B5)’:「{P、Q、R’}は{P、Q、R’}から二マイル離れている」。
(B6)’:「{P、Q、R’}は{P、Q、R’}から二マイル離れている」。

(B5)’と(B6)’は同じことに帰着し、「{P、Q、R’}は{P、Q、R’}から二マイル離れている」を意味する。だが、いったいこのことは何を意味するのか。「実体論」的に考えて、一方の{P、Q、R’}と、他方の{P、Q、R’}があくまで「二つの天体」と見なされるならば、それに別の名前を与えざるをえない。そしてBの前提に違反する。おそらくは、Bの想定そのものが整合的でないと考えるよりないだろう。
他方、「束理論」的に考えるならば、一方の{P、Q、R’}と他方の{P、Q、R’}は「同じもの」である。P、Q、R’いずれも「属性」を表わす。「束理論」の前提が、たんに「個体は属性の束である」というだけにとどまらず、「世界には個体は存在せず、属性だけが存在する」という強い意味に解釈することにしよう。「属性」は、「個体」とは違い、時間‐空間的に制約されることはない。a(あるいはb)が同時に二つの場所を占めると考えることはありえない想定だが、{P、Q、R’}が同時に二つの場所を占めると考えることには矛盾はない。(B5)および(B6)を「aはaから二マイル離れている」と解釈することは矛盾を含むが、「{P、Q、R’}が{P、Q、R’}から二マイル離れている」と解釈することには矛盾はない。したがって、「{P、Q、R’}はそれ自身からニマイル離れている」と解釈することには矛盾がない。Bの宇宙では、{P、Q、R’}は同時に「二マイル離れた」場所を占めているのである。奇妙に映るかもしれないが、Bの想定に見合う解釈があるとすれば、このような解釈しかないだろう。そしてこの解釈は「束理論」的なものであるから、Bの描き出す宇宙は、通常の想定とは逆に、「束理論」的な宇宙なのである。Bは、ただ一点を除けば、束理論の思考パターンを描いている。その一点とは「不可識別者同一」の法則を反駁したと思い込んでいる点である。だが遺憾ながらその反駁は成り立っていない。だから、ほとんどの論者がBの主張に「実体論」の理論的裏づけを見出したのは奇妙としか言いようがないことであった。
おそらく「実体論」vs「束理論」をめぐる議論全体が、何らかの点で理論的に不徹底なものを内蔵していると言えるのではないだろうか。このことを次に見ていくことにしよう。


4. 思考の空間と「もの」の名前


(1.41)     「もの」をめぐる対立が論理的レヴェルで扱われることによって、何ほどかの進展は見られただろうか。おそらく答えは「ノー」である。「実体論」vs「束理論」の対立は解決されていない。では、問いの立て方の意匠が変わっただけということなのだろうか。そう結論づけるのは性急すぎるだろう。「実体論」vs「束理論」の対立の新旧のヴァージョンを簡単ながら見てきたわけだが、ブラックの思考実験をめぐる論争から、旧ヴァージョンからは決して得られない洞察を垣間見ることができる。それは、「ものとは何か」と問うとき、その「もの」を言い表すための手段、つまり「名前」についての省察を欠くことはできない、という洞察である。
ブラックの思考実験で起こったことを単純に考えてみよう。Bは「宇宙にはまったく類似した二つの天体しかなかった」という状況を想像した。あるいはその状況が可能であると考えた。A(やたいていの解釈者)は、この想定を(a≠b)∧∀Φ(Φ(a)⇔Φ(b)として受けとろうとした(あるいは、受けとった)。Bは‘a’‘b’という名前を用いた解釈を拒む。Bによれば「ただ思考することによっては、ある蜘蛛を選び出すことはできないし、ましてやそれに名前をつけることなどできない」からである。
この主張はどれほどの説得力があるのだろうか。Aには通じたのだろうが、たいていの解釈者によって無視されているところをみると、説得力はあまりなかったのだろう。たいていの人にとっては、「思考の対象」に名前をつけることくらい簡単なことはないように見えるのだろう。「二つの天体」と言った以上、Bはそれらを{a、b}のような形で表象せざるをえなかったと考えることは不自然ではない。おそらくB自身、自ら公言したこととは裏腹に、潜在的には、そのような名前に訴えて思考しているのかもしれない。
いま、両者の主張を少し妥協する形で、Bの言い分を次のように修正してみよう。つまり、ⅰ)たしかに、誰にでも「まったく類似した二つの天体」を考えることはできるが、ⅱ)かりにその「二つの天体」に対して‘a’や‘b’という名前を導入することができるとしても、ⅲ)aやb「について」語ることはできない、という仕方で、Bの言い分を理解してみよう。実は、ブラックの思考実験において、「名前」が使えるかどうかは真の問題ではなく、かりに「名前」が使えるとしても、それが使用される文脈が特殊なために、名前が通常の機能を果たすことができない、という仕方で理解することができるからである。「特殊な文脈」とは、Bの述べることがBの純粋な思考内容である、という点にある。つまり、Bの発言は、すべて潜在的には従属文であって、「…と私(=B)は思考している」を補わなければ意味をなさない、という文脈において発せられている。いま論理学の慣例にしたがって、「…とBは思考している」をδというオペレータで言い表すことにしよう。Bの発言は、(a≠b)∧∀Φ(Φ(a)⇔Φ(b)という形で理解することはできない。それは、‘a’や‘b’という名前が使えないからということではない。B自ら思考したことは、δ{(a≠b)∧∀Φ(Φ(a)⇔Φ(b)}という形でしか言い表せないからなのである。少なくともBの自己了解にしたがえば、そう言わざるをえない。
Bの宇宙において‘a’や‘b’という名前を用いることができないというBの言い分と、Bの発言はすべて潜在的には従属文であるという主張は表裏一体の関係にある。一般に、「…と思う」、「…と信じる」などの動詞によって支配される文脈は「内包的文脈(intensional context)」と呼ばれることが多い。その文脈に登場する名前に関しては、「存在一般化」のような通常の論理的法則は成り立たない。Bは「まったく類似した二つの天体がある」と思考している。しかし、その「二つの天体」を、Bの思考から切り離して、その「天体」について語ることはできない。Bの思考から切り離されるや、その「天体」は何ものでもなくなるわけだから、その「天体」の存在を推論によって引き出すことはできない。
このような内包的文脈に対する特別な対処法を多くの論理学者が追及してきた。問題点を単純化すれば、内包的ではない文脈で登場するa(つまり、{ … a … }であるようなa)と、内包的な文脈で登場するa(δ(… a … )であるようなa)は、名前としての機能という点でまったく異質である、ということに帰着する。このことを「スコープ」の概念によって説明することにしよう。
 

(1.42)     「スコープ」の概念を初めて導入したのはバートランド・ラッセルであるが、ここではその経緯については触れず、単純化して述べるだけにとどめる。「現在のフランス国王は幸福ではない」という文を考えてみよう。「…は幸福である」という述語をH、「現在のフランス国王」をf、「…ではない」というオペレータを¬で表わそう。「現在のフランス国王は幸福ではない」に対しては、二通りの読み方が可能である。

ⅰ) ¬(Hf)
ⅱ) (¬H)f
ⅰ)は、「現在のフランス国王」がある属性をもつこと、つまり「幸福である」という属性をもっていることを否定している。それに対して、ⅱ)は、「現在のフランス国王」がある属性をもっている、つまり「幸福ではない」という属性をもっている、ということを述べている。現時点では、フランスには国王が存在しないのだから、fは存在しているものを指し示していない。「存在していないものは属性をもちえない」というラッセルの前提に立てば、ⅰ)は真であるが、ⅱ)は偽である。なぜなら、ⅰ)は、現在のフランス国王が属性をもつことを否定しているので真であるが、それに対して、ⅱ)は、現在のフランス国王が属性をもっていると述べているのであるから、偽でなければならないからである。

一般に、「述語」、「名前」、「オペレータ」という三つの要素が登場する文に対しては、上述のように二通りの読み方が可能である。なぜこのように二通りの読み方が可能になるのかといえば、「名前」と「オペレータ」にはその影響力を及ぼす範囲があって、ときには「名前」の範囲が広い場合もあれば、「オペレータ」の範囲が広い場合もあるからである。「スコープ」はこのことを説明するために導入されたのである。
先に進む前に、論理的な用語について触れておこう。これまで「オペレータ(operator)」という語を何気なく使ってきた。ここでこの語の定義などはとてもできないが、そのニュアンスだけでも伝えておかなければならない。論理学における「オペレータ」とは、文字通り‘operation’をする記号の総称である。¬は、任意の文をその否定に(あるいは、任意の述語を反対の意味の述語に)変換するというオペレーションをする。δは、任意の文をだれかの思考の対象に変換するというオペレーションをする。その他論理学では「時制オペレータ」や「様相オペレータ」等と頻繁に使用されるのであるが、ここで詳細に立ち入ることはできない。
だが実は、「名前」も一種の「オペレータ」と見なすことができる(そのように呼ぶことは慣用ではないが)。それは、ある記号によってある「もの」を指し示すというオペレーションをしている。名前とオペレータを含む文では、これら二つのオペレーションが干渉しあい、ときに曖昧さを生み出す原因となる。この曖昧さは「スコープの曖昧さ(scope ambiguity)」と呼ばれる。 
「スコープ」とは、ある表現が及ぼしうる「作用範囲」ほどの意味であるが、主に名前とオペレータにそくして語られる。それら二つのオペレーションのいずれが強力な作用を及ぼしているかで、「広いスコープ」、「狭いスコープ」という言い方がなされる。たとえば、ⅰ)において、fは¬の作用範囲の中にあるのだから「狭いスコープ」をもち、¬は「広いスコープ」をもつ、と言われる。ⅱ)において、fは¬の作用範囲から独立しているので、「広いスコープ」をもっていることになる。
 実はこの「スコープ」の概念を用いて、(論理的な意味での)「名前」を定義することができるという考え方がある。「オペレータ」をδ、「述語」をΦ、「名前」をNとすれば、Nが論理的な意味での「名前」であるのは、ⅰ)とⅱ)で見られる「スコープの曖昧さ」が成り立たないとき、言い換えれば、δ(ΦN)と (δΦ)Nが論理的に同値であるとき(δ(ΦN)⇔(δΦ)N)、である(Arthur Prior: The Objects of Thought, p.150)。
 いま、このプライアーの考え方を受け入れてみよう。するとⅰ)とⅱ)は同値ではないのだから、そこで一見「名前」のように見えるfは、論理的な意味での「名前」ではないことになる。ⅰ)とⅱ)を少し変えて、オペレータをδ(「Bは…と思っている」)としてみよう。「Bは現在のフランス国王が幸福であると思っている」は、やはり二通りの読み方ができる。

ⅲ) δ(Hf)
ⅳ) (δH)f

ⅲ)は真であるかもしれない。Bは「現在のフランス国王は幸福だ」と考えているかもしれない。Bがフランスの大統領を「フランス国王」だと思い込んでいて、国王の地位にある人間は幸福にちがいないと思っているならば、ⅲ)は正しいことを述べている。ここでのfは「狭いスコープ」しかもっておらず、δに従属している。言いかえれば、fはBの思考のオペレーションの一部である。Bの思考内部では、「現在のフランス国王」はだれかある人(おそらくは「現在のフランス大統領」)を指し示しているのであるから。
しかし、ⅳ)におけるfはδに従属してはいない。それは、Bの思考とは独立したオペレーションである。それは、「Bは現在のフランス国王が幸福であると思っている」と思っている(あるいは、述べている)第三者のオペレーションであろう。その第三者がラッセル的な考え方の持ち主であれば、その人にとって(つまりBの思考の外部で)、fが何かを指し示すことはないし、なんらかの属性をもつこともない(「Bによって幸福であると思われている」という属性すらもたない。なぜなら存在しないものは属性をもたないのだから)。したがって、ⅳ)は偽である。ⅲ)とⅳ)は同値ではない場合がありうるのだから、fは「名前」ではない、ということになる。

 この例で、δ(ΦN)⇔(δΦ)Nが成り立つとしたら、それはどういう条件のもとで、なのか。Bがテレビに映っているフランス大統領の姿を見て「フランス国王は幸せだね」と述べて、その場でそれを聴いたAが皮肉っぽく「君は、フランス国王は幸せだと思っているんだね」と言うとする。したがって、「Bは、現在のフランス国王は幸せであると考えている」は、AにとってもBにとっても真である。ここでの「フランス国王」は、BにとってもAにとってもテレビに映っている大統領その人を指し示しているのであるから、言い間違いが介在しているにもかかわらず、BとAの観点は一致している。「フランス国王」という表現によってなされるBのオペレーションと、Aのオペレーションは同じ「もの」を指し示しており、その際、その「もの」がいかに呼ばれるかということは重要ではない。その「もの」をaとすれば、aに対する呼称がまったく見当はずれな‘xyz’であっても、δ(Φxyx)も(δΦ)xyzもともに、「Bはaが幸せだと思っている」ということに帰着する。BとAの観点、あるいはオペレーションが一致しているかぎり、aがどう呼ばれるかは問題ではない。どう呼ばれようと、aはaである。「現在のフランス国王」は、この場合、「名前」として機能していて(すくなくともBとAの間では)、一切の呼称が問題ではなくなるようなaを端的に指し示しているのである。

 ここでブラックの例に戻ろう。かりにBの思考内容を
δ{(a≠b)∧∀Φ(Φ(a)⇔Φ(b)}と表わすことができたとしても、この場合‘a’や‘b’という記号が「名前」として機能している、と考えることはできそうもない。
 かりにBが密かに‘a’や‘b’という名前を使いながら思考実験を行っていたとしても、Bの言い分にしたがうならば、‘a’はδの束縛から脱して「広いスコープ」をもつものとして使用されることはできない。テレビに映った「フランス国王」の例のように、誰かがBと観点を共有してaを「見る」ことは原理的に排除されている。したがって‘a’のスコープは「狭い」ままにとどまる。つねに「狭いスコープ」しかもたない「名前」などというものがあるだろうか。おそらく「ゼウス」や「シャーロック・ホームズ」といった虚構上の名前がそのような「名前」の候補であるかもしれない。たとえば「ゼウス」が「ギリシア人が・・・という特徴をもつと考えたもの」と言い直せるならば、「ゼウス」は、単独で用いられているとしても、つねに「狭いスコープ」しかもたない。Bが密かに‘a’という「名前」を用いたとしても、それはBの思考から切り離せない。その意味でおそらくは虚構上の「名前」に近いものとしてしか扱えないのである。
それにもかかわらず、‘a’をBの思考から切り離して「広いスコープ」をもつものとして使用しようとしても、それはB以外の誰か、例えばAのオペレーションとなるにすぎないし、しかもAの思考のオペレーションの一環としてしか機能しない名前となるにすぎないだろう。およそ‘a’を思考のオペレータの外側に置くことは不可能である。それは思考の可能性を表わしているにすぎないのである。

最後に、いま述べたことに補足的な説明を加えよう。δHfというタイプの表現に対して成り立つ二つの解釈に対して、しばしば‘de dicto’、‘de re’という術語で説明されることがある。名前が「狭いスコープ」をもつとき(=δ(Hf))、δHf全体は(Hf)という「命題」(ラテン語で‘dictum’)にかかわっている、つまり、「命題について(de dicto)」何かを語っている。それに対して、名前が「広いスコープ」をもつとき(=(δH)f)、δHf全体はfが指し示す「もの」(ラテン語で‘res’)にかかわっている、つまり「ものについて(de re)」何かを語っている、と説明されることがある。
この区別についてはまた語る機会があるだろうが、これをブラックの思考実験に当てはめるならば、Bの発言はすべて‘de dicto’的な発言であることが判るだろう。そこで「二つの天体」が登場してくるにしても、その「天体」「について」語ることは誰にもできない(Bですらできない)。ただ単に「まったく類似した二つの天体がある」等の「命題(dictum)」を思考し想像することができるだけなのである。この「天体」は「命題」の一部にすぎず、そこから切り離すことはできない。Bが名前の使用を拒否した理由は、最終的に、この点に求められるだろう。


(1.43)     ここで「実体論」と「束理論」との対立に戻ろう。いままで(自明であるため)明確に言わずにおいたことが一つある。つまり、いずれの考え方も、「ものとは何か」という問いを純粋に「思考」の中で解決しようとする試みである。そもそも「ものとは何か」と問いかけることそのものが、「もの」をすでに「思考」に解消することである。いずれも「もの」を思考の対象として、(あるいは冒頭で使った区別をもう一度使うならば)「広義のもの」という形で捉えているのである。しかしその「もの」を‘a’や‘b’という「名前」によって表現するやいなや、まるで一挙に「思考」のスコープが雲散霧消して「狭義のもの」を扱うことができるかのように万事が進んでゆく。ブラックの思考実験をめぐる解釈者たちの混乱はまさにそのことに起因している。「名前」と「もの」の関係についての把握が曖昧なまま放置されているのである。

 いま、「思考」と「名前」の関係に焦点を絞ろう。Bの発言は、もしそこに「名前」を導入することができるとしても、その全体がオペレータδによって支配されているものとしてしか理解することはできなかった。そのようなタイプの文をδ{…a…}と表わそう。そのような文脈(しばしば「内包的」文脈と呼ばれる)におけるaが、通常の「名前」とは異なる機能をもつことはすぐに示すことができる。すでに述べたように、その「名前」に対しては、「存在一般化」のような論理的規則が必ずしも適用されない、ということがしばしば決定的と見なされている。これに対して、論理学では通常、次のような対処策がとられている。
つまり、内包的文脈δ{…a…}におけるaは、通常の文脈でaがもつ通常の「意味」(あるいは指示対象)をもたない、と見なされる。つまり、そのような「名前」に対しては「特殊な」扱いが必要である、というわけである。
ところで、いままで、オペレータδを「Bは…と思考している」という意味においてだけ考えてきた。しかし「内包的文脈」を形成する要因は「思考」だけではない。「信ずる」、「…のように見える」、「期待する」、「夢見る」といった従属節を要求する動詞や、「求める」、「探す」といった単純に目的語をとる動詞なども同様である。たとえば、「コロンブスが2度目の航海で金を発見して以来、欲に目がくらんだスペイン人は中央アメリカ征服にのりだし、ゴールドラッシュが始まった。やがて彼らは、北アメリカにも金を求めてやってくる。1513年、ポンセ・デ・レオンPonce de Leonは不老長寿の泉を求めてセント・オーガスティンに到着し…」は歴史的事実を述べている。「ポンセ・デ・レオンは不老不死の泉を求めていた」は真であるが、そこから「存在一般化」によって、「ポンセ・デ・レオンが求めていたものが存在する」を推論することはできない。ポンセ・デ・レオンは何かを求めていたのだろうが、その「何か」はポンセ・デ・レオンの思考から切りはなすことができないし、それ「について」その思考とは独立に語ることもできない。
このような「特殊な」文脈を生み出す源泉を、いま単純化して、「思考」に求めることにしよう。論理学がそのような文脈を「特殊な」文脈と見なすのは、それが扱おうとする世界から「思考」に関連する一切を排除しているからである。その結果登場するのが「通常の」(「外延的(extensional)」と呼ばれる)文脈である。ブラックの思考実験におけるBの発言を、ただちに(a≠b)∧…と解釈しようとするのも、その思考法の延長線上にある。これは、論理学的なフィクションである。
ところでまったく逆に考えることもできるのではないか。つまり、論理学で「特殊」として扱われている文脈が、むしろ「通常」である、と考えることもできる。われわれが自分の考えを述べたり書き記すとき、あるいは単に何かを意識するとき、わざわざ「…と私は考える」などとは付け加えたりはしないし、そもそも意識することもない。ただ端的に「aはbであり…」と述べたり書き記したりするだけである。だが厳密に考えるならば、われわれの活動のすべてに、潜在的な仕方で、「私は…と思う」が伴っている、と考えるべきではないか。それは、カントが意識の統一性を記述するにあたって、「「私は考える」は、私のあらゆる表象に伴うことができるのでなければならない」(Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.131)と述べたことに符合するのではないか。
いま、この有名な言葉に、カスタネーダとともに、言語哲学的アレンジを加えてみよう(Hector-Neri Castaňeda: The Phenomeno-Logic of the I, p.188)。

(Ⅰ)  思考を表現する発言はすべて(それが話者によって信じられていようといまいと)、原理的に、潜在的な「私は・・・と思う」に従属している。
(Ⅱ)  あらゆる言明は、潜在的にせよ顕在的にせよ、「間接話法(oratio obliqua)」という形式においてあり、唯一真の「直接話法(oratio recta)」は、語られていない「私は・・・と思う」の部分である。
 
 この洞察が正しいと仮定して、「名前」のことを考えてみることにしよう。すると、「思考」が関与する場において、「名前」は、原理的にいって、それに論理学において通常与えられている役割を果たすことができない、ということになる。だが「「思考」が関与する場」とは、「「私は考える」は、私のあらゆる表象に伴うことができるのでなければならない」のであるならば、われわれの表象の活動が関与する場であり、要するに、われわれの活動のすべてである。われわれが関与する「通常」の場において、「名前」は、論理学が期待する「通常の」役割を果たすことはない。むしろ「特殊」な役割が常態である、ということになる。論理学が期待する「名前」の「通常の」機能とは、「もの」を指し示す機能である。したがって、われわれが関与する「通常の」状況では、「もの」にも「通常の」役割が帰されないということが成り立つ。「名前」として使われているものは、すべて「思考」のオペレーションの一部である。それと相関的に、「もの」も「思考」のオペレーションの一部である。その枠内で「実体論」と「束理論」の対立が生じているのだが、いずれも「思考」のオペレーションの一側面であるにすぎない、ということになる。


(1.44)    このように「思考」と「名前」は折り合いが悪い。「思考」とその「名前」が名指す「もの」とは一層折り合いが悪いだろう。だが通常、このようなことは意識されない。一人で考え事に没頭しているときに、「名前」の使用に躊躇いを覚えるという人がいるだろうか。おそらくここには慣習と錯覚が入り混じっているのである。
このことを説明するために、デカルトの『省察』に戻ろう。「思考」の閉じた世界を描くことにおいて、『省察』が類を見ないほど徹底していたことは言うまでもない。その方法的懐疑では、一切の「もの」が懐疑に付され、それと平行して、すべての文が「わたしは疑う」という懐疑のオペレータに覆われる(はずである)。そこで「名前」のようなものが登場するとしても、それは二重のハンディキャップを背負わされている(はずである)。それが指し示すはずの「もの」は、すでに懐疑の過程ですべて雲散霧消しているわけであるし、それを言い表わすはずの「名前」も思考のオペレーションに統合されている(はずである)。懐疑的な場面で、「名前」と呼ぶにふさわしいものが登場する余地はおそらくないのだから、懐疑が続くかぎり、デカルトが「もの」について語ることのできる条件は根本的に欠落しているように見える。
だが例外があって、それは「私」と「この蜜蝋」という二つの「名前」である(「私」については後に触れる)。デカルトが「たとえば、この蜜蝋をとってみよう」と書いたとき、彼の眼前には蜜蝋があったのかもしれないし、なかったかもしれない。いずれにせよ、デカルトは、読み手に、「この蜜蝋を見たまえ」と名指しの身振りをしているのである。読み手はこの身振りに応えて、「この蜜蝋」を「名前」として受けとり、それが指し示す「もの」をデカルトとともに見ているような振りをする。
だが当然ながら、デカルトが「この蜜蝋」によって指し示そうとした「もの」は、読み手には伝わらない。読み手に伝わるのは、『省察』で記述されているとおり、「固くて、冷たく、たやすく触れることができる…」という属性の集合であり、(熱せられた後は)「液状となり、熱くなり、ほとんど触れることができず…」という別の属性の集合である。その箇所を読む読み手の理解を厳密に捉えるならば、それが「この蜜蝋」「について」、つまりいわば‘de re’な仕方で行われている、ということは原理的に排除されている。読み手ができるのは、‘de dicto’な仕方でデカルトの言葉をたどることだけである。そして読み手は、両立しない属性の集合を融合させ、眼前に蜜蝋の変化を描きだそうする。そしてこのような変化が「この蜜蝋」という「個体」に生じているかのような振りをする。読み手がそのように想像力を行使することを、デカルトは疑うことはない。そもそもそれは懐疑以前の事柄、思考以前の事柄、要するに慣習の事柄である。懐疑論を、文字を通して、展開するということには少なからぬ滑稽さがある。なぜなら、慣習を根こそぎ覆すかのような振りをしながら、その実、慣習に対する深い信頼を寄せているのであるから。慣習のもっとも深いレヴェルには、ある語が何かを指し示すということが自他にとって成り立っているはずだというアプリオリな感覚がある。それは意思疎通が成り立つための原始契約のようなものであって、それを覆す懐疑「論」は原理的に存在しないのである。
「名前」を用いてある「もの」について語るとき、ひとは、他者がその「もの」に対して自己と同じ観点に立つことができることを暗黙のうちに認めている。つまり、自己と同じ観点を共有できる他者の存在を暗黙のうちに認めている。だがこのような承認が行われる場所は、デカルトが描き出した「思考」の世界ではない。その世界は「私」だけの世界であるのだから。したがって「この蜜蝋」を「名前」として機能させるためにはその「思考」の世界から離れて、思考のオペレーションを一時的に停止しなくてはならない。「名前」を使用するためには(‘de re’な仕方で)、思考のオペレーションの外側に立たなくてはならないからである。その外側に立つ他者と、「名前」が指し示す「もの」を何らかの仕方で共有できるのでなければならないからである。デカルトが「この蜜蝋」と言うとき、彼は計らずも他者に呼びかけている。呼びかけられた他者の視線を一点に向かわせ、そこに蜜蝋という「もの」を措定するように求めている。だがそれは、「思考」のなすことというよりは、「名前」の本性が要求することなのである。

たしかにそれは『省察』の例外的な一瞬である。「この蜜蝋」に言及するやいなや、『省察』はふたたび「思考」の世界にもどって、「実体」概念を導き出そうとするのだから。だが、それは既述のとおり異論の余地のない論証ではなかった。「実体」に至るためにはまず「属性の集合」に訴えるほかはない。『省察』も、読み手に「この蜜蝋」をその都度「属性の集合」として表象させるしかなかった。そしてその集合を「この蜜蝋」へと個体化させるとき、『省察』は密かな仕方で、自他が眼前に同じ「もの」を所有しているという「思考」以前の場に戻るのである。
おそらく「実体論」と「束理論」との間には一見するほどの対立は存在しない。いずれも、「もの」を「思考」においていかに解消するか、についての理論である。ただし「思考」は、実体論的な観点から「名前」を用いて「もの」を言い表そうとするとき、「思考」の営為のはるか手前のところに戻っているように見える。われわれは、ある名前を聞いてある方向におのずと視線を向ける。それは「思考」の営為というよりは、慣習の一環であり、‘thing’の語源が示唆しているように、「公共の集いの場」ですでに共有された身振りである。デカルトの「思考」はそのような場から離れることで成り立つのであるが、しかしデカルトの例が示しているように、ある「もの」に言及するためには、その場から完全に離れ去ることはできないのである。


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 1

Scottmic

スーパーコピーブランド専門店
https://www.007kopi.com/product/8072.html

ルイヴィトン、シャネル、エルメス、ルチェ&ガッバ―ナ、
バレンシアガ、ボッテガ ヴェネタ、ミュウミュウ、クリスチャンディオール
その他の偽物バッグコピー、偽物財布コピー、偽物時計コピー、偽物ベルトコピー、偽物指輪コピー、偽物キーケース、商品は全く写真の通りです。
高級腕時計(N級品),スーパーコピー時計(N級品),財布(N級品)バッグ(N級品),靴(N品),指輪(N級品),ベルト(N級品),マフラー (N級品)
人気の売れ筋商品を多数取り揃えております。
全て激安特価でご提供.お願いします.
★100%品質保証!満足保障!リピーター率100%!
★商品数も大幅に増え、品質も大自信です。
★スタイルが多い、品質がよい、価格が低い!
★顧客は至上 誠実 信用。
★歓迎光臨
★送料無料(日本全国)
ホームページ上でのご注文は24時間受け付けております
https://www.007kopi.com/product/2428.html

by Scottmic (2019-09-28 06:21) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

Arendt on Descartes土壌の哲学 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。