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神的な神とその末裔  [最近の論文]

神的な神とその末裔 -  プラトン・ディオニューソス・チャタルホユックの神
                     

  晩年のある論文でハイデガーは、哲学者が語ってきた神、つまり「自己原因」としての神に言及して次のように述べている。

  「この神に対して人間は祈ることもできないし、犠牲を捧げることもできない。自己原因を前にして人間は恐れからくず折れることもできないし、この神を前に歌い踊ることもできない。したがって、哲学の神、自己原因としての神を放棄せざるをえない神なき思考(gott-lose Denken)のほうが、神的な神(g?ttliche Gott)に対して、おそらくいっそう近いのである」(1)。

  これは、ありそうもないノスタルジーを述べているように見える。晩年のハイデガーは、「哲学者の神」(あるいはこの表現がシンボライズしているもの)に対する根本的違和感から、再びそれに対して祈り犠牲を捧げることのできる神、それを前にして歌い踊ることのできる神に退避し、「神的な神」を復興することを欲したのだろうか。しかし言うまでもなく、神に犠牲を捧げ、神を前に歌い踊ることが、アルカイックな時代と同様の強度と支配力をもって、われわれの間で再び行なわれるだろうなどと考える者はいないだろうし、ハイデガー自身もそのように考えたとは思われない。
 それとも、奇妙な時代錯誤と逆行によって今日の世界に跳梁跋扈しつつある各種宗教の「…原理主義」が、「神に犠牲を捧げ、神を前に歌い踊ること」の再現だとするならば、ハイデガーの言葉は、彼自身まったく予期していなかった仕方で、現在進行形的に進んでいる歴史の根本動向を言い当てている、ということになるのだろうか。かりにそうだとしても、このことは哲学者にいかなる名誉ももたらさないだろう。今日における各種原理主義の対立は、これまでの歴史で繰り返されてきた陳腐な現実の再生産にすぎず、そこに見られる宗教的熱狂に何か哲学的に意味のあることを探ろうとするとしたら、それは歴史的無知を暴露するようなものだろう。

 そもそも「神的な神」とは、哲学の到来以前にあった(おそらくはプリミティヴな)神のことであると単純に考えていいのだろうか。たとえば、プラトンが中期以降の自説を展開するにあたって、ディオニューソス・エレウシス祭祀や秘儀を導きの糸としたことはよく知られている。もちろん、プラトンがどの程度ディオニューソス・エレウシス祭祀を真摯に受けとったかについては、意見の分かれるところではあるだろうし、プラトン哲学を純粋に見ようとする解釈者にとって、ディオニューソス・エレウシス祭祀に対する言及はたんなるエピソード以上のものではないだろう。しかし逆のように考えることもできるかもしれない。エウリピデスの『バッカスの信女』がディオニューソス祭祀の具体的手順を念頭に書かれていたことをたどることによって、シーフォートはギリシア悲劇の起源とディオニューソス祭祀との関連に新たな光を投じたが(2)、それに類似した解釈をプラトニズムに対して施してみることも可能かもしれない。この点については後に立ち返ることにする。いずれにせよ「哲学者の神」の生成に先立って、すでに神々は存在していたわけであるし、その中でもディオニューソスはひときわ異彩を放ちながらその存在感を周囲に伝播させていた。その存在を敏感に感じ取りその息吹をまっ先に受けとったのは女達であった。女達はこの神に犠牲をささげ祈り、この神を前に歌い踊った。この神は、女達の中で、歌と踊りの陶酔として顕現し、彼女達のアイデンティティ―を超え出て、彼女達を人間性の根底に残るプリミティヴで野蛮な次元へと連れ戻した。ディオニューソス祭祀において、女達は獲物を素手で捕まえそれを生のまま貪り食ったという。明かに、狩猟時代からの遺風である。供儀のアルカイックな形式でもあるだろう。この野蛮な行為は、エウリピデスの『バッカスの信女』のクライマックスでもある。ディオニューソスを追い求める陶酔と熱狂の果てに、バッカスの信女の一人アガウエは、最愛の息子ペンテウスを(もちろんそれとは知らずに)捕らえ引き裂いた。狩りの成果としてアガウエが自宅に持ち帰ったのは、息子の首だったのである。
 
 もう一度先に掲げた問いをくりかえそう。そもそも「神的な神」とは、哲学の到来以前にあった(おそらくはプリミティヴな)神のことであると単純に考えていいのか。つまり、たとえば、ディオニューソス神に「神的な神」の一つのモデルを求めていいのか、ということである。
 ハイデガーの意図を尊重するならば、答えは「ノー」となるかもしれない。そもそも「神的な神」とは、歴史的に存在した特定の神を拒絶するための表現かもしれないからである。ハイデガー自身は「神なき思考」を宣言している。ちょうどヘルダーリンが「神の不在がわれわれを助ける」と語ったように、既存の神から離れ去ることが「神的な神」を求めるのに相応しい態度であるとするならば、「神的な神」を既存の神に定位することはそれとはまったく逆の態度、ということになる。「神的な神」とは実在した神のことではない。それは「思考」の可能性の一つのあり方を指し示しているにすぎないのである。
 しかしながら、この試論は、いま述べた「まったく逆の態度」をとることにする。それには複数の理由がある。その一つは、この試論がハイデガーの意図を探ることを第一義の目的としていない、という単純な理由である。それにもかかわらず、ハイデガーの引用で始めたのは、やはり「哲学者の神」と「神的な神」という対比が、「神」の観念について歴史的に考える上で決定的に重要な示唆を与えてくれると思われたからである(ハイデガーの考え方については、この連作の最後で立ち戻る予定である)。ハイデガーの言葉のもっとも明瞭で具体的な例を提供するのがプラトンであろう。プラトンの「神」の考え方は単一ではない。『法律』においては典型的な「哲学者の神」が称揚されている(無神論者に対する最大の論拠は、「自らを動かすもの」という「魂」の本質を全宇宙が分有しているという事実である(『法律』892c.f)。この点については後のアリストテレスも同じ着想を繰り返す以外なく、「不動の動者」としての神を措定するにとどまった)。しかし中期の作品群においてはディオニューソス・エレウシス祭祀へ言及がしばしばなされるのである。しかもそれはたんなる言及ではない。魂の不死性という決定的な主題を開始する文脈における言及なのである(「知恵そのものはこの浄化を遂行するある種の秘儀ではないだろうか。…僕の考えでは、バッコスの徒とはほかでもない正しく哲学をした人々のことである」(『パイドン』69b-d))。ソクラテスは、秘儀への参加者が死と再生の儀式に参加するかのように、死の議論に入っていく。周知のようにプラトンは哲学の議論を死の練習に喩えたが、それは秘儀が死のリハーサル(3)というモデルをすでに提供していたからこそではなかったか。もしそうであるならば、プラトニズムはその核心部分においてディオニューソス祭祀の反復である、と言って構わないのではないだろうか。おそらくプラトン自身のなかで二つの神の像がせめぎあっていたのではないだろうか。「哲学者の神」と「神的な神」との対立に類する何かが葛藤しているのではないだろうか。これらの想定にはいずれ立ち戻るつもりでいるが、こうした想定によってプラトニズムを貶めるという意図はまったくないことは予め明示しておきたい。それとともに、ディオニューソス祭祀を称揚しようとする意図があることも付記しておく。そもそもディオニューソス祭祀は肥沃な土壌のようなものだった。それは、プラトン哲学が開花するための一つの条件を提供した。そして後に、まったく類似した仕方で、新約聖書の作者達にも益することとなったのである(その影響はとくに『ヨハネ福音書』で顕著である)。
 しかし以上述べられたことはこの試論の重要な動因ではない。仮にハイデガーの意図に忠実にとどまりながら「神的な神」を求めようとして、それをディオニューソス神に見出したとする。確かにそれはハイデガーの意図に適うものではなく、はなはだしい矛盾として映る。ハイデガーのいう「神的な神」とは特定の神ではない。それは名をもたない。それは実在した既製の神ではなく、神を「思考」するための可能性の一つを指し示そうとした表現である。さてここで、「思考」を非常にプリミティヴな様相において考えてみよう。「犠牲・祈り・歌・踊り」という行為に含まれる「思考」、それらの行為そのものと一体にな利、そこで消尽する「思考」のことを考えてみよう。「神的な神」とは、それに対して犠牲や祈りが捧げられ、その周りで歌や踊りが繰り広げられる(おそらくは空虚な)中心、と考えるべきものかもしれない。確かに存在するのは、人々の犠牲や祈りの行為、歌や踊りの行為だけであり、そのために人々が一つの場所に集まる集団的行為(religio)だけであるかもしれない。これらの行為が輪舞となって空虚な中心を形作りその空虚を充たすかぎりにおいて、その中心は中心として維持され、その中心は存在させられる、というだけであるかもしれない。この中心は時として名前をもつだろうが、おそらくそれは本質的なことではない。なぜなら、その名前の指し示すものは、つねに、人々の供犠・祈り・歌・踊りの行為の総体なのだから。もちろん、それらの行為の総体から何かあるものが立ち現れはしても、それが明瞭な文節をもったメッセージとなることはない。重要なのは行為のメッセージ内容ではなく、集団で共有される行為である。冒頭で引用されたハイデガーの言葉を、とりあえず私は次のように解する。「神的な神」に近づくためには、既成の神々を放棄して、さしあたり、人々の供犠・祈り・歌・踊りの行為のただなかに身をおいてみよ。そしてそれらの行為において言語化されることなく志向されているものに自らの思考を沈下させ、それに同調させよ。そうすれば、「神的な神」のような何かの閃きを垣間見ることができるかもしれない、と。ただし、そのためには手引きとなる具体的な例がいくつか必要である。この試論がディオニューソスを引き合いに出すのは、ある意味で、あくまでその手引きを得たいがためのことである。とは言え、手引きとして見るだけであっても、ディオニューソスは計り知れない歴史の奥底にわれわれを誘わずにはおかないのであるけれど。
 
 ディオニューソスの起源をたどっていくと、「神的な神」についていま粗描されたイメージの断片が自ずと浮かんでくる。ディオニューソス神に対して、アテナイでは複数の祭祀が開催され、そのそれぞれが決まったスケジュール・場所・形式にしたがって厳かに行なわれていたわけだが、その祭祀の中心をなす秘儀に関しても、それが秘中の秘とされていたにもかかわらず、その断片的な証言が少なからず残されており、そこから秘儀の概要を再構成することはもはや困難ではない(4)。その再構成の試みを読むと、その儀式の内容そのものに特段の意義があるわけではないことが判る。またそこには後世の大幅な改変や洗練化が見られもする。ディオニューソスで興味深いのはそこにはなく、むしろその起源の方にある。この試論で取り上げようとする「ディオニューソス」の三つの側面を挙げてみよう。
 
 ⅰ)ディオニューソスは放浪する神であった。「黄金満つるリュディア、プリュギアを後に、陽に曝されたペルシアの高原、また城壁をめぐらしたバクトリア、さてはまた霜凍るメディア、豊かに富むアラビアの国々を訪ね、つづいては、海に沿い、ギリシア人と夷人とが混ざり住み、美しく築かれたアジアの国々をくまなく遍歴した」(5)という『バッカスの信女』の前口上で語られるように、地中海東部沿岸の諸国からアラビア半島・小アジアという広大な地域にディオニューソスはその足跡を残した。おそらくそれらの土地で別様の名前で呼ばれたことだろう。今日文献や碑文で確認できるだけで優に100を超える別称があるし、中には‘Poly?nomos’(多くの名をもつ神)として呼ばれてさえいたことから(Orphic Hymn to Triet?rikos)、ディオニューソスのの多面性や越境性は当時からよく知られていたことであった。カール・ケレーニーは、『バッカスの信女』の「クレタなる清き洞」(6)という言葉に導かれて、ディオニューソスの起源をミノア期のクレタに求めたが、時代の闇に下っていくにつれて彼に見えてきたのは、ゼウスともディオニューソスとも判別できない「無名の神」(7)であった。この神は具象的な姿をしていた。それは蛇と雄牛であった。ケレーニーによると、蛇は「もっとも低次元の生」を、雄牛は「より高次の動物界の生」を表わしていた。しかしそれらは別個の生ではなかった。多分ある種の秘儀で歌われていたと推定される言葉によると、「雄牛は蛇の父、蛇は雄牛の父」(8)。雄牛は蛇を生み、蛇は雄牛を生んだ。それらは同じ円環の一断面であった。この円環そのものであるあの「無名の神」は、最低次の生命から雄牛を経て人間にいたるまで途切れることなく連続している「生の同一性」、「生の破壊不可能性」を表わしていた。こうして、ケレーニーがディオニューソスの根底に聞いたメッセージは、「生(ギリシア語のゾーエーζωη)」という破壊し得ないもの、生という不壊なるもの、であった。もちろん、不壊なる「生」とは、一つの観念として考えるならば、可能なかぎり多義的であって内容的にはほとんど空虚に近いものであるだろう。しかし、この空虚を、人々は供犠・祈り・歌・踊りの行為によって充たそうとしたのである(先ほど「「神的な神」を求めようとして、それをディオニューソス神に見出そうとするのははなはだしい矛盾として映る」と述べたが、ディオニューソス神をこの「無名の神」まで引き戻すならば、おそらく「矛盾」という印象はもはや生じないのではないかと思われる。それは特定の神ではない。生を讃えて人が供犠・祈り・歌・踊りの行為を捧げる際に顕現する何かなのであるから)。
 
 ⅱ)ディオニューソス神の来歴をその同一性が消え去るまで追い求めるならば、そこに見出されるのは、他の多くの農耕神、豊饒・多産の神々とさほど変わることのない生の連続性に対する祈念のような何か、が残るだけのように見えるかもしれない。ケレーニー自身も、「不壊なる生」を見出すことで、解釈の作業を打ち切ってしまったように思われる。しかしながら、ディオニューソス祭祀の本質をプリミティヴな「生の讃歌」のように捉えそれを他の豊饒・多産の神々との共通性に還元しようとするならば、それはまだ「不壊なる生」を一つの観念としてしか捉えていないことになるだろう。とりわけ、ペンテウスの末路が示唆するようなディオニューソスの破壊的側面を等閑にすることになるだろう。
 もっとも、「不壊なる生」がなぜ破壊性に結びつくのかということの説明はそれほど困難ではない。「不壊なる生」に対する信仰は自然の近くにとどまることを求める。蛇や雄牛は自然のありふれた風光の一部であった。ディオニューソスを求めて女達が向かった場所は、決まって、欝蒼とした木立の茂る山であった。その行動形態から察するに、ディオニューソス崇拝は都市共同体における生活のあり方の(一時的な)拒絶を含意していた。だから、都市共同体での生活や既成の宗教(つまりは既成の秩序)によって主に抑圧されていた女達に支持されたのである(し、特定の共同体を超え出て支持されたのである)。女達は獲物を狩り出しそれを生肉のまま貪り食うことで、日常隠蔽されている「不壊なる生」を自らのうちに復活させようとした。これは既成の秩序をあえて転倒させ、それ自体不壊なる自然に一時的に戻ろうとする欲求を含んでいるからこそ意味のある破壊的熱狂なのであって、さもなければ無意味な錯乱にすぎないだろう。この熱狂は、文化・民族の境界線を越えて、小アジア一帯から東部地中海沿岸に広がっていった。ディオニューソスは自然が存在するかぎり存在することができたし、文明の成熟が抑圧の度合いを高めるにつれて、支持者の輪が広がっていった。ギリシアは鷹揚にこの秩序破壊的・越境的運動を受け入れた(既成の権威との衝突はあったにせよ)。後に、男たちも参加できるように神話の内容を作り変えて、ポリス公認の祭祀に仕立て上げさえした。これは、ギリシア文明がかなりの程度多様な民族の混交の上に成り立っていたからであろうか、異質なものに対する寛容のなせるわざである。それとは対照的に、ディオニューソスの破壊的性格を敏感に察知し、それを徹底的に弾圧した民族もいた。イスラエルの民である。
 旧約聖書学者の一部でここ20数年来熱い議論の対象となったトピックの一つに、「アシェラとは何か」という問題があった。アシェラとは偶像の一種なのか、神なのかという論争である(ある意味で奇妙な論争だった。なぜなら、神抜きの偶像とはいったい何だろか、という素朴な疑問によって一挙に解決される論争だからである)。思うに大勢はアシェラを神と捉える解釈に傾いていて、今後はアシェラ神の起源の探求に重きが置かれることだろう。おそらくまだ萌芽的な段階にすぎないにせよ、若干の鋭敏な研究者は、アシェラ神(あるいはバアル神)の起源をディオニューソスに求めようとしている(9)。具体的な手がかりは、生肉を食うという行為や蛇や葡萄酒や木立の象徴、歌や踊りを含む祭祀のあり方に限定されるが、しかし最大の手がかりはイスラエルの宗教エリートの主流がアシェラ神(あるいはバアル神)に示した激しい敵意に求められるのではないかと思われる。ヤハウェ神に対する一神教的イデオロギーは、いく度かの国家的危機によって段階的に強化されていったものだが、当然その過程は異質なものを排除するということによって成し遂げられた。そして最大の攻撃目標の一つが、カナーンの土着民に広範な支持を得ていたアシェラ神(あるいはバアル神)であった。それは、上で述べたようなディオニューソス崇拝の秩序破壊的・越境的性格が、イスラエルの宗教エリートの推進する一神教化・中央集権化の運動(申命記主義の運動と呼ばれる)と根本的に相容れないためであったからだろう。激しく糾弾され徹底的に弾圧されることが、消極的な仕方ではあれ、この神の性格を雄弁に物語っているのである。
 しかし、このように、ヤハウェとアシェラの二神の対立は(少なくとも旧約聖書の字面の上では)明瞭ではあるが、以前ディオニューソスに関連して見たのと類似した事態がここでも指摘できる。つまり、歴史に遡及していくと、ディオニューソスの同一性が希薄になり、ディオニューソスとゼウスの区別が不分明となって「無名の神」に転化していったように、ヤハウェとアシェラの対立も次第に曖昧なものになっていかざるを得ない、という事態である。というよりそもそもヤハウェの歴史的起源が不明であることが最大の問題なのだが、今日の旧約聖書学者の大半は、かつてヤハウェとアシェラがカナーンの土着的信仰のなかで不可分の関係にあったという見解に傾いている。最大の証拠とされるのは、シナイ半島北部のクンティレト・アジュルドで1972-5年に出土したヘブライ語碑文である。碑文の解釈はいまだ定まっているわけではないが、それは「サマリアのヤハウェと彼のアシェラの前で私はあなた方を祝福する」と訳せる文言を含んでいる(10)。「彼のアシェラ」という表現は、アシェラがヤハウェの配偶女神であったことを示唆する。神が配偶神をもつことはオリエントの宗教ではごく普通のことであって、むしろ神々は人間の家族の形態をモデルにして捉えられていた。この家族モデルが有意味と見なされるのは、過去から受けつがれ未来にわたって存続するはずの共同体の連続性に対する信念があればこそである。しかしまさにこの連続性に対する信念が王国の滅亡と捕囚とによって打ち砕かれたために、イスラエルの民は彼らの神を家族モデルから引き離さざるをえなかった。こうしてヤハウェ神は親や配偶者から切り離されて、孤高で単独の神に絶対化されるようになる。今日見られる旧約聖書における一神教的表現は、こうした歴史的要因の結果作為的に創作(付加・削除・改変)されたものであって、その「創作」が集中的になされたのはバビロン捕囚以後の紀元前2-4世紀だったろうとマーク・スミスは推測している(11)。もしこの推測が大きく的を外していないのであれば、旧約聖書という作品は(基になった素材がきわめて古いものであるにせよ)、プラトンの作品とせいぜい同時代のものであるか、それより新しい作品ということになる。同時代の精神的風土という言い方はあまりにも安直かもしれないが、プラトニズムの運動とイスラエルの一神教への純粋化の運動は、その内実のまったくの違いにもかかわらず、何か共通する方向性を持っているように見えるのだが、この点はいま措いておくとしよう。
 クンティレト・アジュルドで出土した碑文には絵が描かれていた。そのスケッチを下に掲げておこう。この描画についても定まった解釈は存在していない。ただし、クンティレト・アジュルドは巡礼者が立ち寄る砂漠の礼拝所であり、祭祀に関わる何かがここで描かれていると想定して構わないだろうし、そのことに異論は出されていないようである。
 いま異論の余地を招くことを極力排除して素朴な直観に限ってみよう。前面に描かれている二柱の神は、碑文と関連づけるならば、「サマリアのヤハウェと彼のアシェラ」となるだろう。こうした関連づけを否定する解釈もあるが(12)、広い支持は得られていない。二柱の神は、美術史的な知識を持ち出すならば、「べス型の神(Bes-type god)」と分類される特徴をもっていると言うべきなのだろうが(べス型の神とはエジプト起源の神で、ときには音楽と踊りの神、ときには戦争と殺戮の神として描かれた)、素朴な直観を信用すれば、二柱の神は、頭部は牛(角がないので子牛)、その下は人間の姿であるように見える。上半身は動物、下半身は人間という造形は決して珍しいものではないし(石器時代に描かれた壁画には、豹人間や鳥人間がよく登場する)、また不可解な心理のメカニズムによるものでもない。その起源は狩猟時代であり、それを生み出すメカニズムは狩猟者の獲物に対する(畏怖の念からの、あるいは親密さの表現としての)同一化である(ちなみにウィルソンによれば、最前面の神の右肩の上に描かれているのは「角の生えた蛇」であるそうだ(13)。詳細はここでは述べないが、ここでも「蛇と牛」の混交としての神というイメージを得るのである。あの「無名の神」がシナイ半島で顕現した姿をここに認めるべきであろうか)。
 
 
 
 この絵は「サマリアのヤハウェと彼のアシェラ」を描いているのか。それを否定する理由は何もない。あるとすれば不快感・嫌悪感であろうか。申命記主義運動の担い手達ならば、ここに唾棄すべきプリミティヴな(あるいは、不純で汚らわしい)要素、神に対する冒涜や偶像崇拝の破戒的行為しか見ないだろう。旧約聖書が描くヤハウェ像とのあまりの隔たりのために、ここで描かれている事柄について研究者の歯切れが悪くなるのも当然といえば当然である。牛の姿をした神。牛としての神。牛という神。旧約聖書にはこのようなプリミティヴな神観念に対する激しい非難の言葉がいくつか見られる。たとえば『ホセア書』 8:5~6(訳文は新共同訳による)。
 「サマリアよ、お前の子牛を捨てよ。わたしの怒りは彼らに向かって燃える。いつまで清くなりえないのか。それはイスラエルのしたことだ。職人が造ったもので、神ではない。サマリアの子牛は必ず粉々に砕かれる」。
 また『列王記上』12:28~30は、ヤロブアムについてこう記している。
 「彼はよく考えたうえで、金の子牛を二体造り、人々に言った。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上がったあなたの神である」。彼は一体をべテルに、もう一体をダンに置いた。このことは罪の源になった。民はその一体の子牛を礼拝するためにダンに行った」。
 後者の言葉からは、イスラエルの破局の原因をヤロブアムに帰するという後代の作為が明瞭に読み取れるが(同様の作為は、『出エジプト記』の有名な「金の子牛」のくだりにもある)、しかし他方で「イスラエルをエジプトから救い出した」神が元来いかなるものであったかが暴露されている、という読み方も可能である。この「救い手」は、後に絶対化されるヤハウェというより、それ以前に、子牛によってシンボライズされる何か、おそらく「サマリアの子牛」であり、そしておそらくは「サマリアのヤハウェと彼のアシェラ」だったという推測は充分成り立つのである。
  以上の粗描からもちろん妥協の余地のない対立がおのずと導かれるのだが、しかしその対立を妥協の余地のないものとしたのは一神教的イデオロギーの不自然さ、イスラエルの民の多分に歴史的偶然に左右されて形成されたイデオロギーの不自然さであって、元来の「サマリアのヤハウェと彼のアシェラ」にはそうした妥協の余地のない対立などなかった。そしてクンティレト・アジュルドの絵が推測させてくれることは、後にヤハウェに対する一神教的運動になった原動力も、徹底して弾圧されるアシェラ崇拝(豊饒・多産性に対する信仰)も、同じ神の一族から分岐した末裔にすぎないだろう、ということである。一方には暴力的なまでの共同体中心主義的なイデオロギーがあり、他方には自然の源泉に戻ろうとする越境的喜びがある。後にそうした方向に分岐していくにせよ、その根源にはクンティレト・アジュルドの描画に見られる祭祀の行為、「供犠・祈り・歌・踊りの行為」がある。実際、この絵には歌や踊りが満ちあふれているように感じ取れる。手前に描かれている牛の母子は、神話的背景がそこに込められているにせよ、やはり最終的には供儀のための牛であり、供犠という形式をとる祈りがこの描画全体に浸透している。ただし、供儀は供犠である以上、それは暴力性の発露以外のものではありえない。そしてこの暴力性がもっとも純粋な形で発現したのが、あの一神教の運動の暴力性なのではないだろうか。
 
 ⅲ)今ここで追及しようとしていることをもういちど確認してみると、それは狭い意味では、ディオニューソス祭祀の起源である。しかし、このテーマは「神的な神」とは何かというテーマのサブテーマの一つである。さて、この試論の全体的分節を明瞭にするための区切りをつける段階に至ったようだ。ディオニューソス祭祀の起源を遡っていくと、やがては無名の神に消え去り、雄牛を生み出す蛇を生み出す雄牛…という終わりのない生殖運動の円環に行き着く。それは終わることのない生そのものである。他方で、ディオニューソスは越境する神であり、多くの文化・民族の中に分け入って多様な姿で顕現した。アシェラ・ヤハウェはその一例のように思われる。さらには、エジプトのオシリス、クレタの両手に蛇を握って掲げる無名の女神や小アジアのキュベレ、さらにはウガリットの神々(とくに最高神エール、「雄牛の神」であるエール神。アシェラは、ウガリット神話において、元来エールの配偶女神であった。最近の研究が徐々に明らかにしていることだが、エール神は、秘匿されながら、旧約聖書の随所に姿を現している)…。こうした歴史的詮索は多種多様な神話の比較作業(ほとんど尽きることはない作業)を必要とするだろうが、とりあえずそのような作業にとっての歴史的座標軸の原点となるものを見定めなくてはならない。
 歴史をさらに遡ってみよう。これまでディオニューソスやヤハウェで見てきたように、雄牛(等の比較的大型の動物)は神が顕現するための非常にアルカイックな形態の一つであった。その理由は狩猟時代の生活形式に求められる他ないだろう。具体例にそくして考えてみよう。以下の画像は、紀元前6000年ごろのものと見られるチャタルホユックの壁画の一つであり、豹に扮した男たちが雄牛や鹿を狩っている様を描いたものである(14)。
 
 
 チャタルホユック(?atalh?y?k)は、現在までに発掘された新石器時代の集落としては最大規模であり(平均の人口は5000人から8000人と推定されている)、その出土品の内容から判断して最も洗練度が高いと評されている遺構である。その最古の地層は7500年ごろと推定されているが、その上層の出土品からは、すでに農耕(大麦・小麦などの穀物や豆類)が行われ牧畜(羊や牛)が開始されつつあったことが判明している。狩猟はいぜんとして生活の糧を得る主要な手段であっただろうが、徐々に農耕を主体とした生活様式に移行しつつあったということであろう。興味深いことに、壷や黒曜石の道具といった製作物に混ざって地中海産の貝殻やシリア産の火打石が出土することから、当時すでに交易と、交易目的の製作活動が行なわれていたらしい。しかし何より人目を惹くのは、宗教的活動を示唆する様々な痕跡、たとえば、念の入った埋葬、石膏で固められた雄牛の頭蓋骨や規則的に並べられた牛骨、数多くの女神像などである。
 とくに女神像は、その数の多さと独特の存在感でもって発掘者に感銘を与えた。チャタルホユックの最初の発掘者メラートの報告によると、男性像もないではなかったが、「女性神の立像は男性神のそれをはるかに凌駕している」(15)。そして男性像は、ある時期以降、まったく造られなくなったようである。原初の宗教において、男性という性は二次的だったのであろう。さて、女神像についての具体的な記述を見てみよう。あえて、メラ―トの記述からブルケルトが要約・整理したものを引用する。「一柱の女神、ときには二柱の女神の大きな石膏像が、家の神棚で、死者の骨の上に立てられている。女神は、子を生み落とすように足を大きく開いた姿で造形されている。その隣で、雄牛の角と豚の頭蓋骨が部屋を睨んでいる。いくつかの例では、雄牛の頭蓋骨、ある例では雄羊の頭蓋骨が、女神の両の太腿の間から現われている。女神は、狩られ供犠に付される獣たちの母、死者を支配し生を与える権威である。壁画では、豹皮を着た男達が鹿や雄牛に群がっている。立像になると、女神は両側を豹にはさまれた姿で現われる。つまり、女神に付き添っているのは、肉食獣に同化した狩猟の共同体、ホモ・ネカンス(homo necans(引用者註:殺戮するヒトの意))なのである。この像はただちに、二頭のライオンにはさまれて玉座に座っているキュベレの像を想起させる」(16)。
 
 「キュベレ」はその起源を小アジアのプリュギア(チャタルホユックと同様、現在のトルコにあった)にもつ大地の女神であるが、ギリシア神話に取り入れられて後にしばしばレアと同一視された。レアは、またしばしばデメテルと混同された。レアの娘のペルセポネ、またはしばしばデメテル本人がディオニューソスの母とされるのだが、ディオニューソスの同一性が安定していない以上、その母親の素性が安定を欠くのは当然である。しかしその起源にチャタルホユックの女神を思い描いたとしても大きく的を外したことにはならないように思われる。ところで、この女神は、上の引用文の言葉を額面どおり受けとるならば、死者や動物界の「支配者」となる。そうだとすれば、チャタルホユックはバハオーフェンが夢想したような母権制の社会だったのだろうか。しかしそれはたんなる夢想というものだろう。現実のチャタル・ホユックは、階層化や性差別のない非常に平等な社会であったと考えられる反面、基本的に狩猟社会であった。そして狩猟の場面では、先ほどの壁画を見るまでもなく、もっぱら男達だけが参加するわけであるし、男たちだけがイニシアチヴをもちうる。そのような生活形態を度外視するような支配形態はありえない。たしかに、狩猟が生活の糧を得るほとんど唯一の手段であった共同体においてはそうであっただろう。ただし、チャタルホユックは農耕社会に移行しつつある段階に差しかかっていたのだから、絶対的な男性優位の構造の中で、共同体全体が女性という性の方へと関心の比重を移しつつあったと考えることは可能であり、その軌跡の一断面をかの女神像は物語っていると解釈することも可能であろう。
 ただし、それ以前に確認しなければならないことがある。先の壁画をもう一度見てみよう。これは、そもそも狩猟の様子を描いているのだろうか。そうには違いないだろうが、ここにはたんに生活の糧を得る様を描くというリアリズムとはまったく異質の何かが存在している。たとえて言えば、モンドリアンの絵のような軽快なリズム感を感じないわけにはいかない。男達は、狩りをしているというより、歌いながら踊っているかのようである。もしこの直観が正しければ、これは狩猟というよりは供犠であると言うべきである。あるいは、供犠としての狩猟であり、狩猟にその起源をもつものとしての供犠である。この供犠の踊りの輪のなかに、動物達も参加しているようにさえ見える。
 
 宗教的行為の最古の形態を供犠に、さらには狩猟時代における儀式行為に求める考え方がある。考え方としては以前からあったといえばいえるだろうが、考古学上の発見を踏まえた学問的価値のあるものとしては、古代ギリシアの供犠の詳細と(旧石器時代中期の)狩猟民の風習の類似性に心を捉われたカール・ムーリの研究あたりから本格的に追求されるにいたったと言えるだろう(17)。ムーリは最初、熊の頭蓋骨と大腿骨を洞穴の中に丁寧に並べたネアンデルタール人の熊の埋葬と、聖なる場所に獲物の骨や頭蓋骨を納めたシベリアの狩猟民の風習との類似性に注目し、そこから古代ギリシア人が獣の骨(とくに大腿骨)を神に捧げた儀式との関連に思いを馳せたのであった。ムーリの知見はシベリアの狩猟民の風習に限られていたが、今日では、骨の扱いに関する狩猟民の風習が地域的にも時代的にも広範囲にわたって存在していることが確認されており、ムーリの洞察の基本的な正しさが実証されることとなった。チャタル・ホユックで発見された多くの牛の角(一列に並べられるか石膏の頭に刺された)は、その実証の過程の一こまをなすものであったし、あの壁画も、儀式としての狩猟あるいは狩猟としての儀式を描いていたに違いなかった。
  こうした発見から、宗教の起源を狩猟行為そのものに求めることに注目が向かうには時間がかからなかったし、ムーリ自身がそのことを充分詳細に述べていた。文献で確かめうる古代ギリシアの供犠の内容、浄化と禁欲を含む準備作業から始めて、骨、頭蓋骨、皮の処理を含む儀式の終結部分にいたるまでの供犠の内容は、そのまま狩猟民の狩猟行為の一部始終に対応していた。供犠は狩猟行為の反復であった。ここから宗教的行為の起源を人間の殺戮行為に求める解釈が浮上してくる。この殺戮行為は様々な代償行為(歌、踊り、饗宴)を伴うにせよ、殺戮は殺戮にかわりがない。殺戮は人間の暴力性の発露であり、その行為を共有するため集合する(religio)共同体は、「ホモ・ネカンス=殺戮するヒト(Home necans)」の共同体である。ギリシア古典学徒であったヴァルター・ブルケルトがアルカイックな宗教行為の根底に見たのはまさにその事態であった。彼は、同名の書物のなかで、ムーリの洞察を補って、次のように述べている。
 「民族学的研究が近づきうる狩猟社会では、狩猟民は、殺される動物に対してはっきりと罪悪感を表明したと言われている。儀式は、許しと再生を提供する。もっとも、しばしば下卑た性格を帯びるので、ムーリは「罪のない茶番」という造語をひねり出しているが。儀式は、死に直面しながら生を継続することへの根本的な不安を露わにしている。血なまぐさい「行為」は、生を継続するために必要なのであるが、しかしそれは、新たな生が再び開まることのできるためにも、必要なのである。だから、骨を集め、頭蓋骨を掲げ、皮を延ばすことは、再生の試み、もっとも具体的な意味での復活として理解すべきである。自分たちの栄養源が引き続き存在してくれるようにという希望と、そうはならないかもしれないという恐れが、狩猟民の行為、生きるために殺すという狩猟民の行動を規定している。
 こうした風習には単なる物珍しさ以上のものがある。なぜなら旧石器時代の狩猟民の狩猟は、単に多くの活動のうちの一つなどではないからである。狩猟への移行は、むしろ、人間と他の霊長類の間のもっとも決定的な生態的変化の一つである。人間はほとんど「狩猟するサル」と定義することができるだろう(「裸のサル」の方がもっと人目を惹くタイトルではあろうが)。こう定義すれば、人は自ずと異論の余地のない事実に向き合うことになるからである。つまり、狩猟民の時代、旧石器時代が、人類の歴史の圧倒的大部分を占めているという事実がそれである。その推定値が95%から99%の間のどこに落ち着くにせよ、人間の生物としての進化がこの時期に成し遂げられたのは明らかである。比較するならば、農業の発明以降の時期―多く見積もっても、せいぜい10000年―は、バケツの中の一滴の水にすぎない。この観点から見れば、われわれは、人間の残忍な暴力が、捕食性の動物の行動に由来するものとして理解することができる。人間は、捕食性の動物の特質を、人間になる過程で獲得するにいたったのである」(18)。
  もう一度チャタルホユックの壁画に戻ろう。これが狩猟の場面を描いたものなのか供犠を描いたものなのかは、実質的な差異をもたらさない問いである。だがかりにこれは狩猟の場面を描いたものであるとしよう。根底にあるのは、人間が捕食性の動物から受け継いだ暴力性である。それに加えてあの壁画にはある種の和やかさや一体性が感じられる。実際ムーリも述べていたが、狩猟民はその獲物となる動物に対して友愛や親密の情を、ときには畏怖の念を、いずれにせよ人間が同類に対して抱く感情を抱かずにはいられない。獲物は自己と同類であり、自己と同じ魂をもつものと見なされる。「生にとっての最大の危険は、人間の食料がすべて魂から成り立っていることである」とあるエスキモーのシャーマンは述べたそうである(19)。あの壁画に描かれたのは同じ魂をもったもの同士の輪舞であった。狩猟とは魂の殺害であり、一種の殺人である。同胞がひざを屈してその体から鮮血をほとばしらせている様を見るのは、つねに、身の毛もよだつ戦慄であっただろう。しかし狩猟者はこうした感情を抑制し克服しなければならないし、集団的な規律にしたがって所定の作業を続けなくてはならない。生物学的な意味での男が社会的な意味での男になるには、こうしたメンタリティ―が何よりもまず求められた。男という性はもっぱら殺戮に向けられ、殺戮のうちに消費される性であった。
 人間が捕食性動物から受けついだ暴力性は、共同体外部での狩猟行為の場面では不可欠な動因であったが、共同体の内部で発揮される場合は深刻な危機をもたらした。ごく初期の段階から人間は絶えず共食いの危機に陥ったようである。ブルケルトによれば、供犠という儀式の存在理由の一つは、こうした暴力性のコントロールにあった。供犠は、共同体のメンバー全員の注視の中、殺戮の行為を、それにわざわざスポットライトを当てるような形で、再現する。それは、共同体の存立基盤である行為を全員に共有させ、なおかつ殺戮という行為が共同体の指揮下で行なわれ、共同体の利益のために行なわれることを、身をもって知らしめることに本来の目的があった(身をもってと言えるのは、動物の殺害がつねに総毛立つような戦慄を見ている者に喚起せずにはおかないからであり、その儀式のメッセージは記憶のうちに消え去ることのない痕跡を残すからである)。殺戮は、共同体全体の意志として行なわれ、共同体の将来の存続のために行なわれる。殺戮と鮮血は、それが不可逆的な過程であるゆえになおさら、人間を恐怖という原始的で動物的ですらある次元に転落させるが、それは一瞬にすぎない。儀式の進行そのものが共同体の秩序を、以前にも増して重々しい形で、参加者に意識させる。その後の再生・復活の儀式は人々の不安と罪悪感を和らげ、そして饗宴と歌・踊りが平穏で楽しい時の再来を告げる。後には、連綿として続いていくはずの共同体の日常生活が残るだけである。チャタルホユックの壁画が描いているのは、やはり、狩猟行為そのものというより、狩猟あるいは供犠がもたらす平穏無事な共同生活のありようであるだろう。

 聖なるものあるいは神が、こうした供犠という儀式に緊密に結びつけられていたのは確かであり、古典期の古代においては自明のことであった(それは、ιερον/ ιερειον、sacer/sacrificareという言葉に刻印されている)。神は供犠の獣にしばしば姿を変えた。ゼウスやディオニューソスは雄牛や山羊に変身した。このことを単純に反転すれば、供犠において屠られる獣そのものが神、ということになる。チャタルホユックの壁画の動物は狩猟者とともに踊っているように見えるが、そこには、すでに述べた同朋意識の親密さ以上のものがある。ひときわ大きく描かれた牛(あるいは鹿か)は、生殖器から、雄であることが判る。この動物は、それ自身が男達の狩猟集団のメンバーなのである。ひときわ大きく、男という性をもち、集団のメンバーであり、死という運命がすぐに待ち受けているこの動物は、「一種の父、父のシンボル、父の身代わり」(20)と見なすことができる。アルカイックなギリシアの壷に描かれた狩猟の場面において、獲物となる動物はほとんど決まって雄であった。『申命記』は(15:19)、「初子の奉献」を「すべての雄の初子を、あなたはあなたの神ヤハウェに聖別しなければならない」という形で伝えている。たぶん、元来、供犠の対象は雄でなければならなかったはずである。それは、既述のとおり、供犠とは、元来、共同体によって是認された形式における暴力性の発露であり、それが女性(雌)や子供に向けられることは、共同体の秩序にとって望ましいことではないはずであったから。それは、大きくて、雄であるものに向けられるべきであった。こうして共同体の是認を経たうえで、父なる神の原初の姿が、供犠の動物と二重写しになって顕現する。チャタルホユックの壁画が描いているのは、まさにその顕現の様子であるだろう。そしてまさに「犠牲・祈り・歌・踊り」という行為の原初のあり方であるだろう。神の顕現については、この壁画が伝えること以上に言うべきことは何もないように思われる。それはちょうど、神の顕現について例外的な(したがって、後の潤色を一切免れた、最古層の伝承に由来すると考えられている)仕方で語っている『出エジプト記』の箇所が、「彼らは神を見て、食べ、また飲んだ」(24:9-12)という実に簡潔なものであったのと同様である。これは供犠の後の饗宴であったのだろうが、供犠とは、つまるところ、屠り、祈り、食べ、踊るという人間の単純な共同行為に尽きるものだからである。

 だがこの神をめぐる「犠牲・祈り・歌・踊り」の行為は、決して永続的な表象とはなりえなかった。それは、供犠の根底にある暴力性が共同体に一時的安定をもたらしはするが、同時に、絶えざる葛藤と不和の種ともなったからである。殺戮という行為に消費される男性という性は血に汚れ、早晩死に行き着くほかはない破壊的性である。この「ホモ・ネカンス=殺戮するヒト」の共同体とその雄牛の姿をした父なる神は、ほとばしる鮮血と死から救い出してくれる者がなければ、殺戮行為の瞬間と罪深さに固着したまま、およそ生を継続することはできなかった。こうして、チャタルホユックの共同体は、あの壁画が伝える行為を補完してくれるものとして、「キュベレを想起させる」数多くの女性神の立像を生み出したのである。古代ギリシアの多くの女神、たとえばヘラやデメテルは「供犠の女神」、「獣たちの女主人」であった。それらは、狩猟者である男達が、元来、殺戮の責任を転嫁するための仮構であっただろう。狩猟者は、女と子供のために狩猟をする。女と子供たちのために、長い期間性的禁欲を強いられ、死の不安や殺戮の罪悪感と戦わなければならない。この労苦と重圧は、一切が偉大な女神の意志のもとで行なわれ、偉大な女神のためになされたものであるという仮構のもとで、耐え忍びうるものとなる。
 「古代人は、誕生の神秘的な過程、子宮を通して新たな生を解き放つ女性が、死地をふさぐことができることを見てとった。だから、死を超えて生を継続することを請け負ってくれるのは女性であった。血の供犠と死はそのなくてはならない引き立て役だった。女神の隣には死にゆくパートナー、供犠の動物がいた。チャタルホユックやミノア期のクレタにおける人間の姿をした女神の側らには、男性性を表わす雄牛が、死ななければならない雄牛がいた。女神イシスは玉座の永続性を表わす一方、ファラオはホルスとして職務に当たるが、つねにオシリスとして死ぬ。男性社会において人類のパラダイムである男は、若者として永続的な秩序に参入し、ファラオの碑文の一つから判るように、儀式的・象徴的に「母親の雄牛」に姿を変えられ、供犠の動物とまったく同じように、早晩死ななければならない。こうして、神話は、偉大なる女神に、息子でもあり恋人でもある選ばれた伴侶を与える。彼は、女神が愛し、去勢し、殺す「父なる」アッティスとして知られる」(21)。
 地域や時代で多少の変動はあるものの、男性はつねに死ぬ運命にあるものとして供犠の雄牛に擬せられ、女性の神格がその死を超えて永続的に玉座に君臨するという筋立ては、小アジアからエジプト・地中海東部の沿岸地帯にまで及ぶ広い範囲にわたって確認できる、それこそルーチン化された神話素であった。男性性は短命で死の運命にさらされる性であるのに、女性性は永続的な生を与える性であった(もっとも、女神像が表わす女性性はほとんどつねに狩猟者に祭り上げられたものであって、男性による仮構にすぎないのであるが)。これらは、言うまでもなく狩猟時代からの伝承された記憶であり、農耕社会への移行を果たし終えた時期になっても依然として共同体の底に保持された記憶であった。この保持された記憶は、言葉で伝承されたというよりも、供犠の儀式によってその都度反復されることで、覚醒させられたはずである。したがって、供犠は、やはり、人々に過去との連続性を再確認させ、未来に続く共同体の永続性を祈願させるための、一言でいって、共同体存続のための核心的行為であり続けた。こうして、古代の共同体は、その基礎に、「ホモ・ネカンス=殺戮するヒト」の血なまぐさい行為を通して、どこまでも自己自身の存立を目指そうとしたのであった。


 アルカイックな宗教祭祀のすべては共同体存続という一点に集約される営為の集合であった。ディオニューソス祭祀で興味深いのは、内容面ではいぜんとして血なまぐさい行為を核心にもっていることからしてアルカイックな性格を引きずっていると言えるものの、遍歴・放浪する神の経歴を反映して、この祭祀で目指されるものがもはや特定の共同体の存続ではなくなった、ということである。ディオニューソス祭祀は「秘儀」であり、秘儀は公共の祭祀に対して「私秘的な(private)」な性格をもつ。しかも、秘儀への参加は、個人の自由な選択に任された。ディオニューソスに限らず各種の秘儀の隆盛は、紀元前六世紀ごろにはすでに顕在化していた個人の「人格性の発見」あるいは「精神の発見」という出来事に関係していたのであろう(22)。そこから、プラトンのように共同体からの離脱を企てる者の「魂」の浄化という、かつての基準からすればまったく考えられない宗教的祭祀の解釈が登場することになる。「神的な神」から「哲学者の神」への移行の背景には、こうした共同体からの個人の離脱という要因が強く働いていることは確かであろう。「精神の発見」は同時に「犠牲・祈り・歌・踊り」という行為を捨て去ることでもある。こうして「神的な神」は次第に姿を消していくのである。
 他方で、かりにアシェラ神・バアル神がカナーンにおけるディオニューソスの降臨の姿だとして、申命記主義の宗教エリートがそれを弾劾したのも、アシェラ神・バアル神が人々を共同体の埒外に連れ出すからであった。それらの神を奉じるのは、一言でいってエゴイズムなのであった。少なくとも、共同体の存続を何よりもまず優先する申命記主義の担い手達からは、エゴイズムに見えたに違いないし、もっと言うならば亡国的なエゴイズなのであった。しかし、申命記主義は、エゴイズムの蔓延に逆らって、単に伝統的な宗教観を復興しようとする復古主義ではなかった。彼らの奉じる共同体は「祭司の王国」(『出エジプト記』 19:6)でなければならない。イスラエルの民はすべて祭司にならなければならない、というのである。これはおよそありえない理想、二重にありえない理想である。プラトンが構想した国家像、哲学者を王にいただく国家像がよく嘲笑の的とされたが、そのプラトンでさえ国民すべてが哲学者にならなければならない、などと主張することはなかった。申命記主義の理想は、プラトンの国家像以上に理想的であり、現実から遠くかけ離れている。しかも、おそらく申命記主義的な文書が最終的に編纂された頃、イスラエルの民は国家を喪失していた。現実が深刻になればなるほど、申命記主義の掲げる共同体は精神主義的なものに純化(あるいは希薄化)せざるをえなくなった。だから申命記主義は、単なる伝統的な宗教観の復古運動ではありえない。それは、復古運動の姿を借りた純粋化、精神主義的化の運動なのであり、おそらくディオニューソス祭祀からプラトニズムが生じた文脈で語るのが相応しい。いずれも、狩猟時代からもちこされた供犠的暴力性からの離脱という点では軌を一にしているのである(もっともそれは別の暴力性に移行した、と言えるかもしれないが)。
 
 さて、以上は素描にすぎない。そこには多様な神、チャタルホユックの神、ディオニューソス、カナーンの神々、プラトニズム、その世俗化としてのキリスト教の神が含まれている。しばらく、これらの神々の相貌をより子細にたどり相互に関連づける作業をしてみたい。それによって、神的な神から哲学者の神への移行がいかになされたのか、その移行はどう意味づけられるのか、(ある意味でハイデガーが望んだ)そこからの逆行は意味あることなのか、いまだ「神的な神」というものを引き合いに出すことにどういう意味があるのか、といった諸問題を順次考えていくことにする。
 


(1) Martin Heidegger: Identitat und Differenz, Pfullingen:G.
Neske,1975,70-71.
(2) Richard Seafort:Dionysos, Routledg,2006,Ch.7.
(3) Ibid.,81,108.
(4) この点については、ブルケルトの著作がもっとも信頼できる記述を与えてくれる。Walter Burkert HOMO NECANS, Ch.Ⅳ.
(5) エウリピデス:バッコスの信女、松平千秋訳、筑摩書房『世界文学大系02:ギリシア・ローマ古典劇集』1983、240。
(6) 同書、242
(7) Carl Kerenyi: Dionysos, 113.
(8) Ibid., 117.
(9) Leslie S.Wilson: The Serpent Symbol in the Ancient Near East,38ff.
Dany Nocquet: Le Livret Noir de Baal,14f.
(10) Leslie S.Wilson, op.cit., 113f. なお画像は、(12)の213ページより。
(11) Mark S.Smith: The Memoirs of God,120-122.
(12) Othmar Keel and Chritoph Uelinger: Gotter,Gottinen und
Gottessymbole.Questiones Disputatae No.134.
(13) Leslie S.Wilson, op.cit., 116.
(14) Burker:HOMO NECANS, Figure3.
(15) James Mellaart: Catal Huyuk: A Neolithic Town in Anatolia.1967, ?181.
(16) Burkert, op.cit., 79
(17) Karl Meuli: Griechische Opferbrauche, 1946, in Phyllobolia
(Festschrift Peter Von der M?hll ).
(18)Burkert, op.cit.,17
(19) Karl Meuli, op.cit.,226.
(20) Burkert, op.cit., 75
(21) Burkert, Ibid.,81
(22) Burkert:Antike Mysterien,4.Auflage,2003,17f.
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