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虚構を考え直す(5) [翻訳]

物語りの課題
 終わる前に、自伝的なエピソードにもう一度手短かに立ち戻る方が、今述べたことをもう少し明確にしてくれるかもしれない。私は、講演での発表に先立つ数日間に娘のことや父親との車での帰宅のことについてもっと考えるようになるにつれて、なにか洞察のようなもの、つまり,私自身の過去のある側面についての理解とも言えるようなものを得た。何らかの関連があるということは十分ありうる、ヴァンで家から遠ざかっていった時私が娘にどう反応したかということと私の大学二年生が終わった夏に何が起きたかということの間には何らかの――心的な性格の――関連があるということは十分ありうる、ということに私は気づいた。つまり、その時が最後になりうるし、いつだって最後かもしれないということである。多分、より以前に受けた傷のほうが、私がしばしば想定する以上に生々しく記憶に残っていて強力で、意識の周辺部分に、私が大切にしている人々についての私の考え方や感じ方にある種の脆さや不確かさを生み出していたのである。


 私はこのことを、「何が何を生み出した」という観点から、ほとんど因果的なセッティングのもとで述べてきた。しかし、鍵を握っているのは物語的な次元なのである。後に起こった出来事のおかげで初めて、それ以前の出来事について、そして両者の間の可能的な関係について新たに考えることが可能となったのであるから。


 あの数日間の間に起こったことは、私が洞察と呼びたいだけではなく、一つのありうべき真理、自伝的な自己理解へのありうべき一つの入り口――それは一時的でまたいつかは変更されるかもしれないが――とも呼びたいようなものであった。この種の解釈は、自伝的な物語においてはごく普通のことだが、正確さとか忠実な再現とはなんの関係もない。対応説的見解はこの文脈では全く意味をなさない。しかし、整合性という観念も大して役に立たない。自己欺瞞的な人々が、しばしば声高にそしてはっきりと、示しているように、自伝的物語は完全に整合的でありながら、至る所で妄想的でありうるのである。それにもかかわらず、時として洞察と自己理解は可能であるように見える。そしてもしこういう事が可能であるならば、真理が加える重み、真理が宿る領域というものが、やはりあるのだ。自己理解と、それがしばしば生み出す種類の真理はいったい何にかかわるのかという問いに関して言えば、私としては、やはりここでも、詩的なもの、詩やフィクションといったものの方に向かってしまうのだが、それらは、しばしば世界を意味づけようと試みているのであり、それに形式を与え、ただ単に興味深いとか整合的であるのみならず、聞くに値するようなものを言おうと試みるものだからである。どうも、良い詩や小説は――そして自伝も――真理を語ることができるように思われる。ローレンス・ランガー(Lawrence Langer)は、この書物の彼のうけもちの章で、フィクションとノンフィクション両方の力(偉大な作家の手になる場合にとりわけ感じられる力)に言及している。より多くの想像力と芸術家としての手腕が発揮されればされるほど、真理を語る可能性は高まる、と彼は示唆しているように見える。こうしたことがどうして生ずるのかを言うのは難しい。


 講演会の最中に、ボブ・ニーマイヤーの発表に対してある人がした質問を、ボブは次のように問いかけることで言い換えた。つまり、物語りについてどれほど真面目に考えているのかと言いたいのですね、と。彼はこの問いかけに対して、「面白半分の」アプローチで答えようとした。つまり、どれだけのことが出来るのか見たいだけなのだ、と。私はこの観点に共感している。しかし、私自身の答えは少し違っている。次のように言ったとしても強引な言い方にならないだろう、つまり、物語られた人生は吟味された人生なのだ、そこで人は、流れゆく物事から一歩退いて、自分の存在についてもっと自覚的になろうとしているのだ、と。こうした考え方に沿うならば、自伝的物語りは、何がいつ起きたのか等々に関わるだけでなく、いかに生きるか、今の人生が良い人生であるかどうかに関わるのである。


 したがって、真理の重みと私が呼んだものは、部分的には認識的であり部分的に倫理的である。想起、またはアナムネーシスの古典的な概念はそれ自体、この二重の責務に関わるものである。一方では、語り直し理解することに関連がある。しかし他方では、時として忘却的な人生においてとても意義深く価値があるものを集めて、思い出すということに関連する。これは、リムジン型のヴァンに乗って家から遠ざかったり、日常の仕事や関心事に没頭するあまり、あまりにしばしば見ずにすごしていた人々を見るときに経験するような真理なのである。後で判明したことだが、ブレンナの病気はそれほど重いものではなかった。ありがたい事に、結局ストーリーと言えるようなものはなかったのである。


 自伝的物語りにおいて、真理というカテゴリーはとても複雑なものとなる。虚構/現実という対概念が伝えがちなものよりもはるかに複雑なのである。この論文でこれまでに論じてきたことが、何故そうなのか、そして何故その対概念を超えて考えることが重要なのかを示してくれていることを私は望む。 



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