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 作品としての妄想あるいは作品としての生 [最近の論文]

  作品としての妄想あるいは作品としての生
                 

1.“I was meant to be”

 自らの死期が近いことを悟ったイギリスの詩人オーデンは、1971年、死滅しつつある肉体に向かって、そこから離脱していく魂が語りかけるという体裁の詩を書き上げた。「自分自身に語りかける(Talking to Myself)」と題されたその詩の一節を引用する。


予測もつかないことであったが、君は、何十年も前に、自然の胎内から
わき出る滝のように際限もなく生まれては消えていく生物たちの間にやって来た。
ランダムな出来事だ、と科学は言う。私の根底がランダムだと言うのだ! しかし、私に言わせれば、これこそ、まぎれもない奇跡なのだ。
なぜなら、自分が存在する定めにあったと確信しない者など一人としていないからである。

“Unpredictably, decades ago, You arrived
Among that unending cascade of creatures spewed
From Nature’s maw. A random event, says Science.
Random my bottom! A true miracle, say I.
For who is not certain that he was meant to be?”
」(1)。

 この「自分が存在する定めにあったと確信しない者など一人としていない」というオーデンの主張にどれほどの人が同調できるかは定かではない。自分がこの世に生まれたという事実は、誰にとっても取り返しがつかない過去に属しており、そこには自分が関与する余地のないランダムな事実の堆積があるばかりであると考える人にとって、この詩は単なるナンセンスとしか映らないことだろう。さらに言えば、単なる妄想としか映らないことだろう。
しかし、ナンセンスであると評するにせよ妄想であると評するにせよ、私にとって私が存在するという事実がある意味で必然的であるということは論理的に確かなことである。これは簡単に証明できる。私が「私は存在する」というとき、その言明は必然的に真なのであるから。このことは、私が「私は存在しない」と言うとき、それが必然的に偽であることを考えれば納得できることである。
もちろんこうした空虚な論理的思弁をオーデンが考えていたということはありそうもない。しかし自己の一生を一個の(詩)作品という形で語ろうとする者にとって、自己自身は存在しなければならないし、その自己がこの世に到来するという出来事も存在しなければならなかった。誕生という出来事は、一個の物理的事象として見ればランダムな出来事にすぎないが、作品において自らの生を語ろうとする者にとっては、その作品が有意味であるための絶対的な前提条件である。その作品が(おそらく有意義な形で)終焉を迎えようとしている今、オーデンはそれがかつて始まらなければならなかったと断言することで、自らの生が無意味に始まり無意味に閉じようとするから救い出そうとしたのだろうか? 自らの生を作品として救おうとしたのだろうか? いずれにせよ次のことだけは言える。偶然性を否認することは思考の本姓に根ざした行為である、と。そして、こうした思考のあり方が、この詩の上掲の一節に端的に言い表されている、と。なぜなら、思考とは事実の背後に意味を求めようとするものだからである。あるいは、事実の背後に意味を作り上げようとするものだからである。偶然や無意味ほど、思考が忌み嫌うものはないからである。

さて、以下では、オーデンが直観的に掴み取ったことを思考・妄想・ナラティヴといった概念に関連づけることによって、一種の哲学的ナラティヴ論の端緒を素描することにしたいのである。まずは「思考」を俎上にのせることから始めてみよう。

思考について上に述べたような捉え方は、おそらく少なからぬ人々が表明してきたのではないかと思われる。私にとっては、ある時期以降の(「詩作」として「思索」を捉えようとした)ハイデガーやそれに倣った晩年のハンナ・アレントなどがそうした見解にコミットしていたことが何よりも重要である(そもそも上のオーデンの詩も、アレントの『精神の生活』で引用されていることから、初めて私の注意をひいたのだった(2))。アレントはこの詩の一節を「真実(事実)と意味の区別」を際立たせるために挿話的にしか使っていないし注釈めいたことも記していないが、肝心なことには触れていた。つまり、「この「存在する定めにあった(meant to be)」ということは真実(a truth)ではない。しかしこれはきわめて意味のある(meaningful)命題なのだ」と言っていたのである。
事実の地平で確証できたり反駁できるような問題を真実(a truth)あるいは事実(a fact)に関わる問題だとすると、そうした問題を解決する任務は科学に帰されなければならない。しかし科学が扱うべき問題群(真実や事実の総体を「世界」と呼ぶならば、世界に関わる問題群とも言える)で人間の理性が提起する問題が汲み尽くされてしまうわけではない。このことは既にカントが「悟性(科学的な意味での知性)」と「理性」の区別で示したとおりである。魂の不死性や神の存在については、科学が解決できないからといってその問題の有意義性が否定されるわけではないし、それが「意味」のある問題であることを止めるわけでもない。それと同様に、私が存在する定めにあったという言明は科学的に言えば偽の言明にすぎないが、偽と判定されるからといってその言明が(少なくともオーデン自身にとって)意味をもつことを止めることになるわけではない。私が誕生し今に至るまで存在してきたことは一個の事実にすぎないが、その事実の意味を求めたりそれにどのような意味を与えようかと苦慮することは科学者が真理を求めるのとは別個の活動である。アレントはこの科学とは別個の活動を、ハイデガーに倣って「思考」と呼び、その活動の本質を(真実・事実の総体としての)「世界」からの「引きこもり(withdrawal from the world)」と定義した。もちろん、思考が世界から引きこもるのは、世界の意味を求めるためなのである。
アレントがこの区別によって狙っていることはカントの「悟性(知性)」と「理性」の区別をより一般化することであり、それによって哲学的思考には科学的活動とは別の存在理由があることを積極的に示すことだったのだろうが、この小論の関心はそうした大状況の方向に向かうのではなく、もっと卑近な範囲で確認できることに照準を絞っている。「世界からの引きこもり」という表現は、何か「世界没落体験」に見舞われた人が自分の部屋に引きこもって一歩も外に出られなくなるというようなイメージを喚起するかもしれない。確かにそれも「引きこもり」の一例だろうが、アレントはもう少しありきたりで、日常誰にでも起こっている現象としての「引きこもり」を念頭においている。少し長いが、アレントによる「思考」の捉え方がはっきりする箇所を引用してみよう。

「哲学がその特別なテーマとして見なした形而上学的問いはすべて、日常的で常識的な経験から生ずる。「理性の欲求」――そのような問いを人々が発するように促す意味の追求――は、自分が目撃した出来事についての物語りを語ったり、その出来事についての詩を書こうとする欲求と異なったものでは全くない。およそそのような反省的な活動をするとき、人々は現象の世界の外側に移行し、抽象的な語に満ちた言葉を使うのだが、そうした言葉も、哲学の特殊な通貨となる前は日常の言葉遣いの一部であったのだ。・・・哲学にとってではないにせよ、思考にとって唯一の本質的な前提条件は現象の世界から引きこもることなのである。私たちが誰かのことを考えるためには、その誰かは私たちの目の前から離れているのでなければならない。その人が私たちと一緒にいる限り、私たちはその人のことを考えることも、その人について考えることもしない。思考活動には常に想起すること(remembrance)が含まれている。思考(thought)はすべて、厳密に言えば、「後からの思考(after-thought:後知恵)」なのである。もちろん私たちは、今でも自分の目の前にいる誰かあるいは何物かについて思考し始めることはあるかもしれないが、その場合私たちは、自分自身を周囲の状況からこっそり切り離してしまい、あたかも自分がもうそこにはいないかのように振舞っているのである」(3)。

少し補っておくと、「理性の欲求」とはカントに由来する表現で、科学によって解決されない問いかけを発せざるを得ない人間理性の止みがたい欲求のことであり、「想起」への言及があるのは、プラトンのイデア論(それは「想起説」として開始された)以降の哲学の伝統として、思考は常に多少なりとも想起との関連で捉えられていたという哲学史的な背景があるからである。
しかし、もちろんそうしたこととは別個に、ここで「思考」として考えられていることが日常的に誰でも経験しているものであることに異論の余地はないだろう。だが、そのように「思考」しているとき、私たちは何をしているのだろうか? アレントによれば、私たちは「意味の追求(the quest for the meaning)」に従事しているということになる。だが、これだけではまだ抽象的すぎる。なぜなら、悪名高いことに「意味」というものほど捉え難いものはないからである。意味とは何かという問いは刺激的であるとともにこの上なく不毛でもあった。その問いが刺激的であったために、あれほど多くの人々(いわゆる「言語哲学」の周辺にいた人々)がその問題に引き寄せられたのだが、20世紀後半の哲学者の多くを悩ませながらついに明確な答えに誰も至らしめることがなかった(と、私には思われる)がゆえに、この上なく不毛でもあった。おそらく、その問いかけは、問いの在り方として成熟の度合いがまだ足りなかったのかもしれない。
つまり「意味」という曖昧なものをより具体的に見なければならないのである。それを見ようとするとき、肌理の粗さや分節化の度合いがまちまちであったり、不整合や矛盾をあちこちに含んでいたりしながら、違った観点から眺められたりより広い文脈に包含されたりすることを待っている断片の数々が脳裏に広がる様が見えてくるだろう。そうした断片の間に関連をつけたり一つのまとまりとして把握し表現しようとすることが「意味を追求する」ことの不可欠なプロセスの一つであるならば、それらについて思考することは、アレントが述べたように、それらについての「物語りを語ったり・・・詩を書こうとする」ことと異なったものではないことになる。思考とは、具体的に言えば、自己の体験を想起しつつ、事後的に物語ろうとする一種のナレーションの試みであるとアレントは示唆しているように思われる(この考え方の背後には、思索を詩作として捉えようとしたハイデガーの試みがあるわけだが)。しかし、アレントに先立ちドイツ系の哲学者とは独立して、ガブリエル・マルセルも同じような見解を述べていたことはあまり知られていないが、興味深いことである。

「私の生は、私の反省に対して、物語りとして語られうる本質をもったものとして提示される。…このことは、まったく真実なので、物語るという行為にかかわるものをすべてそこから除いても、「私の人生」という言葉が、まだ正確な意味を保つかどうかを問うてみることは許されよう」(4)。

おそらく「記憶」、「過去」、「私の人生」といったものについては、いまだに「実体的」な捉え方が一般的だろう。つまり、誕生から今に至るまでの一生の歩みは脳のしかるべき場所に保存されていて、記憶は単にそれを(きわめて不完全な仕方で)再現するプロセスにすぎない、という捉え方がいまだに支配的であろう。そして、こうしたとらえ方の根底には実体的な意味での「人格の同一性(personal identity)」に対する抜きがたい信念がある。しかし冷静に考えてみればすぐ判ることだが、過去は――ましてや「自我」や「人格」はなおさらのことだが――再現されるべくそこに待ち構えているようなものではないし、記憶も想起する者のその時その時の立ち位置次第で変化して止まないものである。記憶や想起の際に私たちに与えられるのは過去の「四方に放射する断片」にすぎず、その周りで精神は「再構築の仕事にとりかからねばならない。…この再構築は、実は新しいひとつの構成」なのである。このことを納得させるためにマルセルは、次のような例を挙げている。

「そのことを理解するためには、われわれが、自分のおこなった簡単な旅行について、友人に物語るときのことを反省してみれば十分である。この旅行は、最初から終わりまで経験した人物によって語られるわけであるが、旅行中の経験は、その人のその後の経験――旅行中の最初の印象によって形成された観念に対して、反作用を起こしかねない経験――によって色づけられる。しかし実は、最初の経験そのものは、これから起こることへの不安な期待によって染められていたのである」(5)。

あることを思考することはそのあることの意味を追求することである。しかしそのためには想起することが必要である。想起することは、新たに構成することであり、物語として新たに再構成することでもある。こうした(再)構成への努力があって、その都度の経験に対して初めて十全な意味が与えられるようになるのだとすれば、以上述べたことは、私の経験そのものは生(き)のままでは断片的な意味しかもたず事後的な構成によって初めて統一された意味を獲得するに至るということを含意している。新たな構成によって形作られるものは、総じて「作品」と呼ぶことができよう。マルセルとしては、(私の経験の総体としての)「私の生」と「作品」を端的に等値したいのである。そこで、彼は「私の生とは、私がそれについて語ることができるかぎり、私の作品ではないのか? いま立てられている問いに対して、「私は私の作品である」と答えてはいけないのか? 」(6)と自問するのである。
 だが、もちろん、この問いに対して直ちに肯定的な答えをもって応えるのは単純すぎるだろう。マルセルの思考の流れに沿ったとしても、新たな構成としての想起の例(旅行について友人に物語る例)から「作品としての生」へと無媒介的に移行することはできないはずである。なぜなら、旅行を想起して物語る場合ならば、それらの行為の対象は旅行という期間がはっきり限定された出来事であるのに対して、「私の生」を想起し物語ろうとするとき、そこには、はっきり限定された対象は見いだし難いように思われるからである。少なくとも、旅に関して可能だった「最初から終わりまで経験」するという可能性が、「私の生」に対しては原理的に拒まれている以上、言い換えれば、想起や物語るという行為の向かう対象の全体が私にとって見渡しうるものではない以上、「私の生」に確定的な意味を付与しそれに物語としての完結性を与えることは、少なくとも私にとっては原理的に不可能である、ということになる。
「死ぬ前には、だれも幸福であると言うことはできない」という古代ギリシア人に由来する格言には、すでにそういう洞察が秘められていた。アレントはこの格言を、生という「物語りの完全な意味はそれが終わったときに初めて明らかになりうる」という形で一般化していた(7)。幸・不幸であるにせよ善・悪であるにせよ、まだ進行中である「生」に対して確定的な意味で善や悪、幸・不幸といった述語を与えることはできない。したがって、厳密に考えるならば、生が作品としてあるいは物語りとして与えられうるとしても、その可能性はその生の内部には存在しないし、より重大なことにその生に意味を付与するのは、その生を生きている当人以外の者だ、ということになる。

しかしながらこのことは、もちろん、生を生きる当人がその生の流れを決定的な仕方で遮断し、それを一個の他者として対象化できるようになる(その限りで、それを物語るようになる)という可能性を排除しはしない。そうした「遮断」や「他者としての対象化」がいかに欺瞞的で虚偽であろうと、この可能性自体は認めておかなくてはならない。ちょうどそれは、「思考」なるものが、文字通りこの世界との縁を切ることではありえないにしても、やはり一種の「世界からの引きこもり」であるのと同じである。自己の生についての振り返ってみるとき、自己の生の連綿たる流れの中にいることには変わりがないにせよ、「あたかも自分はもうそこにはいないかのように」振る舞っているのと同じことである。すでに述べたように、私たちはこうしたパラドクシカルで両義的である行為を、日常的に絶えず行っている。おそらくこうした行為は、日常生活を送る上で絶えず必要な平衡を保持しようとするバランシングの行為なのだ。ほんのつかの間、思考に没頭するというちょっとした行為の断片においてでさえも、日常生活の四方八方に散逸してゆく流れの中で自己の生が四散せぬようにその生を支えようとする行為なのだ。まして、膨大な過去を含む自己の生は、絶えず再構成し作品という形で数々の断片を拾い集め一個の完結したまとまりのうちに統合しようとする営みを欠いたままであると、すぐに風化し始め空洞化していくものなのだ。
マルセルの言うようにそのような作品化としての想起が私たちの生に意味を与えるものであるとしても、それは何も際立った特別の行為ではない。私たちは、日常のちょっとした間隙とも言えるような行為においてでさえも、自らの生の風化を防ぎ、それに意味を与え、それに生気を送り込み、それを支えようとしているのである。つまり、生を作品化し物語りという形式で保持しようとする試みは、生に対する無償の美化や装飾なのではなく、生の実質を支えようとする生そのものに内在する試みなのである。次節では、そうした試みの際立った例を紹介することにしたい。


  2. 生の肯定としての妄想

 以下で紹介するのは、「妄想」として分類される心的現象である。「妄想」には、それを定義するという最初の手続きからして著しい困難がまとい付いているが、今はそうした問題には立ち入らない。おそらくそれは「現実検討能力」の欠如であり、「現実」と「非現実」を峻別する能力に欠陥があることに由来するのであろう。もちろん、こうした指摘に基づいて定義を形成するためには、「現実」なるものが明瞭に限定される必要があるわけだが、周知のように、その必要条件が満たされることは決してない。しかし、妄想に関しては、これまで思考について述べてきたことを繰り返すだけで当座の目的としては充分である。妄想とは「世界からの引きこもり」の一様態である。それに妄想は一種の作品化であるだろう。それが杜撰な作品で隅から隅まで安易な断言・安易な一般化によって成り立っているものであっても、それが作品であることには変わりがない。そして、妄想は、前節の最後で使った言葉を繰り返すならば「生の実質を支えようとする生そのものに内在する試み」の一例なのである。
 1980~90年代以降に学問的な観点から「妄想」に取り組む者に対して、浸透力のある影響力を及ぼした学者にブレンダン・マーハー(Brendan A. Maher)がいる。マーハーは進化論的な観点から妄想の積極的意義を見直すことを強力に推進した専門家であったが、今はマーハーの少し難解な見解を仔細に紹介する余裕はないので、マーハーの見解を非常に具体的に要約してくれたエドワード・ハンダートの論文を紹介することにしよう(8)。
 ハンダートは、自説を展開するに先立ってあるケース・スタディーを紹介している。少し長いが引用しよう。

「あるケース・スタディ:ティモシーG.
  
 私がティモシーG.と呼ぶことにする患者は、32歳、独身、白人、失業中の男性で、その精神病的症状は、ほぼ20歳のときに始まった。その頃まで、彼は成績もよく、彼の高校の通知表は、彼のことを、皆から好かれ、遊び好きな人間と記述している。しかし大学二年のとき、彼の社会生活は悪化し始め、次第に孤立しうつ状態になった。彼には顕著な不眠傾向とパラノイアがあり、地元の幾人かの女性にセクハラ行為を行ったために、最初の入院ということになった。
 
  20歳から22歳の間に、この患者は、ほとんど死んでもおかしくなかったような自殺の試みに続いて、重い鬱の治療のために何度も短期間の入院をした。この自殺の試みには、ナイフで自分の腹を突き刺す(それは肝臓に障害をもたらした)、ガソリンで焼身自殺を図る、橋から凍った川に飛び込む、手首を切る、睡眠薬の過剰摂取などがあったが、最後の過剰摂取では2日間意識が戻らなかった。最後の自殺の試みの頃に、彼は、自分が「聖霊を冒涜したことがあった」と感じ始めた。23歳の頃、ティムは、その後10年間にわたり強弱の違いはあれど常に存在し続けた妄想の体系を抱くようになった。その体系には、自分は戦争犯罪の償いをするために生まれ変わったアドルフ・ヒトラーであるという信念も含まれていた。彼の言うところによると、自分はヒトラーの墓に5年間埋められていたが、それから多くの自殺の試みや入院の苦しみを味わうために地上に戻ってきたという。比較的病状が安定しているときでも、具体的ではない形ではあるが、自分は今償いをしているのだということを主張し続けた。しかし、何らかのストレスがかかると、ヒトラーの生まれ変わりであるという彼の信念が、多くの詳細を伴って戻ってくるのであった。
事態を複雑にしていたのは、この患者が12歳のときに多発性硬化症と診断されたことであった。MRIは彼の脳のあちこちに多様な白質病斑があることを示していた。彼は、ここ10年間、発病時に見せた神経学的症状が進行していないために、多発性硬化症の典型的な特徴のすべてを持っているとはいえなかった。彼が10歳のときひどい自転車事故を起こし意識を失ったことが、脳のスキャン画像で見られる損傷の原因であり、これが多発性硬化症のような症状を引き起こしているのではないか、という仮説を立てる者もいた。
 ティムの家族の病歴としては、母方の大叔母と叔父が鬱病を何度も発症したということが目につく位であった。彼は、今更正施設にいて、パラノイアの症状や鬱が深刻になったときだけ、再入院するという暮らしをしている。彼は、約10年間、自傷の試みをしていない」(9)。

 見られるとおり、ここにあるのは古典的と言っていいパラノイア的妄想である。ここに現実と非現実の峻別の失敗があるのは言うまでもない。おそらくMRIに映った脳の異常がこうした妄想の原因であると想定するのが普通であろう。しかし、マーハーやハンダートは妄想をある種の異常の所産とは考えない。むしろ、MRIに映っていない健全な脳の部分こそが妄想を生み出したと考えるのである。
 「現実と非現実の峻別」の能力が「正常」と「異常」を分ける判別基準だとしても、その「現実」なるものがティモシーGをあの執拗で容赦のない自殺の試みに追い込んだ当のものであるとすればどうであるか? ひょっとしたら、MRIに映った白質病斑が、あるいは鬱病への遺伝的傾向性が、あるいはまったく未知の理由が、ティモシーGにとって「現実」に留まることが「死」以外の選択肢を与えなかったとしたら、「現実」を放棄することの方がむしろ理性的な判断だったと言えるのではないだろうか? 「生」を根本の大義として据える限り、死を選択するよりもまだ現実を放棄するほうが望ましいことは言うまでもない。
 言い換えれば、ティモシーGの妄想は、彼を自殺の試みから救ったのである。少なくともそのように機能したのである。いかにネガティヴな形をとって、「償いをしなければならない」という形ではあれ、その妄想はティモシーGに生き続ける理由を与えたのである。ハンダートは巧みに次のような説明を与えている。
 「しかし,彼の生に意味が与え返されたのである。この意味は彼の妄想から生じたのだが、それは、多くの精神病の患者と同様、彼の症状の全体が、彼の継続的生存を組織的に支えたからである。彼の生を終わらせることは、ナチスのホロコーストの犯人に裁きを下すという世界の希望を終わらせることであるだろう。彼の脳がこのことを理解してからというもの、彼の継続的な生存が危機に瀕するようなことはなくなったのである」(10)。

 全人類の憎悪を一身に背負って生きることは、まったくの無の中に消え去ることに比べると、なんと希望に満ちたことであったことか。自己自身の度重なる自殺の試みをヒトラーの復活に結びつけて、贖罪という形で自己の生を正当化したティモシーGの妄想は、生き続けることが脳にとっての至上命題であり理性の不可欠な前提であるならば、なんと理性的であったことか。一般的に言って、脳は人類の生存(サバイバル)を目指して進化したと考えられる。その生存(サバイバル)を阻害するような行為や肉体の形態は、進化の過程で容赦なく自然選択の篩(ふるい)に掛けられ消滅して行っただろう。しかし、妄想を生み出す脳の機能は篩に掛けられ消滅することはなかった。つまり、それは人類の生存を阻害するものではなかったのである。むしろ、いわゆる「現実」が死のオプションしか残さないような過酷な環境を人類が何度となくくぐり抜けた過程で、脳は「現実」に尽きることのないオプションを常に自らのために創造し、生存が可能になるチャンネルの幅を広げてきたのである。そういう意味で妄想は生存のために脳があみ出した戦術であったとさえ言えるのである。
 進化とは個体ではなく種全体の方向性を根底的に規定するものである。人間の脳は、その進化の過程において、社会的・集団的生存という方向に向けて大きな舵を切り、言語的な意思の疎通をとおして信念を共有することに生存の基盤を置くにいたった。この集団性・社会性は生存のための強力な戦術であったに違いないが、しかしそれは同質性・単一性という脆弱化のリスクを抱え込むことでもあった。言い換えれば、人間の進化は種内の多様性を犠牲にする方向に向かったのだが、しかし完全に多様性を犠牲するまでにいたらなかったし、一蓮托生で全滅するリスクを回避する程度の多様性を残す進化だったのである。だから、思考の多様性は集団の存立に不可欠でさえあったはずだ。ハンダートによれば「妄想を形成する脳の能力は、集団が生き延びるための戦略の一部として進化してきた。しかし、その集団としてのサバイバルは、もっと大きい適応的能力、つまり、共有された現実観にあまり依存しない世界で生きていくという能力に依存しているかもしれない」(11)。つまり進化の法則は集団単位での適応にかかわるが、それ以前に、自分の所属している集団がどうであれ、個体が生き延びる能力が一番根本にあるはずなのである。集団全体が、ある特定の現実に突っ走っていっても、その中の個人が、その現実を無視して、個人的な信念を形成する余地がなければ、逆に、集団も成り立たなくなってしまう(はるか昔にフンボルトやJ・S・ミルが力説していたことである)。すでに述べたように、個人は、その存在のほとんどを規定する社会的生活の只中においてでさえ、その生活からの「引きこもり」を間歇的に実行しており、そうした間隙において現実から離脱することがなければ、おそらくは生きるためのバランスが取れないはずだ。このことは、集団レベルにも当てはまるのだろう。集団的に統制のとれた人間の社会は、その中にそこから離反する要因をあえて存続させることによって、かえって均衡を保ってきたのである。

さて、ハンダートは妄想のこうした捉え方をマ-ハーのみならず、それよりもはるか以前のミンコフスキーの古典的著作からも学び取ったようだ。来る日も来る日も「死刑の執行が必ず明日の夜おこなわれる」と断言して止まない66歳の男性患者との共同生活を経た後に、ミンコフスキーはその繰り返される妄想を病的な想像力の産物や判断力の障害ではなく、「正常な思惟の試み」と見なすようになった。

「実際われわれも皆、ときには、つまりわれわれの人格的躍動が衰弱し、われわれの前に未来が閉ざされるような場合には、死刑囚となるのであるから。患者の態度はこの同じ躍動のもっと持続的な衰弱によって生じた、と考えることはできないだろうか。時間と生命との複雑な観念が瓦解して、われわれが皆潜在的に自分のなかにもっているより低い次元に下落したのである。このように妄想念慮は、想像力の手で一から十まで構成されるのではない。それは、われわれの生命の総合機能が衰弱し始めるとき必ず働き始める一つの生命現象の上に、接木されるのである。処刑念慮という特殊な妄想念慮は、結局、崩壊した建造物の瓦礫の間に論理的な関連をつけようとする、それ自身は正常な思惟の試みにすぎないのである」(12)。
 
 ミンコフスキーの描くところによると、この男性は没落念慮と罪責念慮が顕著であった。彼はフランスの市民権を選ばなかったといって自分を責め、税を納めなかったといって自分を責めた。その一生は罪の連続だった。その罪滅ぼしのために、彼には「死刑の執行」がつねに明日予定されているのだった。さらには街中のすべての物が彼に敵対的に思われ、街中のすべて者が廃物によって彼を苦しめるべく陰謀を画策しているのであった(彼はこれを「廃物政策」と呼んだ)。こうした死刑の観念や「廃物政策」が、その妄想的な外観にもかかわらず、「正常な」思惟の試みとしてミンコフスキーが評価するのは、それが(崩れつつある)生とその外部との関係を維持することに役立っているからであろう。死刑執行や憎悪に満ちた陰謀への加担という形ではあれ、自分をまだ待ち受けてくれる人々がいるということは何という「救い」(13)であるだろう。結局のところ、彼は自己を断罪していたのだから、「自己を断罪する者」としての彼は陰謀をめぐらす人々と連携していたのである。彼を処罰しようとする人々との連携は、生きている実感を与えてくれるとともに、不正を許さない彼の倫理的意識を維持するのに役立った。つまりそれは、彼が人間の存在としてまだ生きていることを可能にしていたのである。


  3. 作品の完結としての死

 私自身がハンダ-トやミンコフスキーの臨床例に接して初めてもった印象は、死の間際になりほとんどすべてのものを失いかけているときでもなお人間は自らの生について物語ろうとする欲求をけっして手放さないことだった。それが妄想というレッテルを貼られてしまう硬直した物語りであるということは二の次にすぎない。こうした妄想は、まるで生の全体が消え去ろうとして瓦礫ばかりになったときでも、なお(マルセルの言葉を使えば)構築の作業をし続ける精神の基底部分を直截的な形で私たちに提示しているかのように見えるのである。
 しかし、私のこの最初の印象は部分的に修正されるべきであるかもしれない。つまり、「死の間際になっても物語ろうとする欲求を手放さない」と言うよりも、「死の間際になったからこそこの物語りへの欲求が前面に現われた」と言うべきなのかもしれない。死の接近は、あらゆる人間にとって、生の全体にいまだ欠落部分があることを強く意識させる。生が本質的に語られる作品であるとしても、それがエンディングを欠いたままであるならば、それは作品として語ることはできないのだから、その欠落を何らかの仕方で埋めなければならない。ミンコフスキーのこの男性患者は、妄想を通してその欠落部分の補填を先取りすることによって、自らの生の物語りの終結を語ろうとしたのであろう。
 しかし、死は単なるエンディングではありえない。それは単に第九章に続く最終章といった空間的な隣接関係における最後という意味ではない。むしろ、それなしでは作品が完結し得ない(そして確定的意味をもち得ない)という意味で、死は作品として考えられた生を完結へともたらすものであり、生という作品を「最初から終わりまで」再構成しようとする最後の機会を提供するものなのであろう。ミンコフスキーの患者の例で言えば、その患者が至る所で見いだした「廃物政策」も、おそらくは、この患者によって妄想的に先取りされた死が彼の生を再構成した所産としてのナラティヴの断片だったに相違ないのである。

 マーク・フリーマンがトルストイの『イワン・イリイチの死』のうちに読みとったように、死の物語的な意義とは、生という作品に「物語りとしての完結性(narrative integrity)」を与えることにある(14)。死に直面して、多くの人は初めて知るのだ。生とは自らが構成しなければならない一つのナラティヴであることを。生とは、誕生と死によって区切られた時空に自らが分節を導入しなければならないものであることを。しかも多くの人は、自らの生を充たす区々たるエピソードを超えて、それらを「一つのナラティヴ」として統合し、語るに足る一つの全体として提示できないことに気づき、さらに悪いことには、そこに語るべきものが何もないことを見いだして、絶望的な思いに駆り立てられるのだ。無意味な生を引きずったまま死に突入するよりは、妄想的に自らに処罰を与える方がまだ救いがあるのである。ティモシーGの妄想は、文字通り自己の生命を救ったのであるし、ミンコフスキーの患者の妄想は、自己の一生を断罪することでまだ生を維持している自己の倫理的意識を救っていた。いずれも、死に直面した者が自己の生を一つのナラティヴとして生きることができる(語ることができる)ようにするための試みと言うことができるのではないだろうか。あるいはすでに使った言葉を繰り返すならば、その試みは一種のバランシングの行為であり、そこで使用される妄想は、生全体が無意味のまま沈んでいくのを回避するために、その対蹠物として置かれるものなのだろう。こうした妄想は、それ自体がバランシングの行為であった「思考」の究極のあり方なのである。
 最後に、『イワン・イリイチの死』に軽く触れておきたい。イリイチは、官僚として成功裡に終わりつつあった生において、一度たりとも死について意識することはなかった。死について意識しないということは、生の全体について見渡すことがなかったということである(イリイチの周囲の人間は皆そうだった)。生を語るに値するような一つの物語として考えることのないままに生きてきた、ということである。死の接近に急かされる形でイリイチは自己の生を回想してみるのだが、彼がそこに見いだしたのは、幸福だった幼年時代を除いては、「無意味でけがらわしい」(15)断片的な事実の集積だけであった。意味のない人生を送り、意味のない家庭を築き、意味のない仕事をしてきた挙句、憎悪しか抱くことのない家族に囲まれていま死を迎えようとしている。僅かな慰めは下男のゲラーシムだけというイリイチの寄る辺ない状況の描写が『イワン・イリイチの死』のほとんどを占めている。
 これは言ってみれば、トルストイの周りに張り巡らされた「廃物政策」だったのかもしれない。しかし、その延長線上に「処刑」が迫っているわけではなかった。もちろん、死が切迫していることは確実なこととしてイリイチには意識されているのだが、その死に対してトルストイは過大な意味づけを行ってはいない。むしろ、ひたすら恐ろしいものという一般的な意味づけがあるだけのように思われる。そしてそれにも増して恐ろしいのは、無意味な生を引きずったまま死に至ることだった。はたして、トルストイは、この恐るべき無意味を回避するために、(先ほど使った表現をまた使うならば)その「対蹠物」として何を置こうとしたのか。
 イワン・イリイチが死に到達するためには、一つの条件があった。それは、自分が「生き方を間違っていた」ことを認めることであり、イリイチは死の間際にその認識に到達する。「だれかが自分の手に接吻しているのを感じた」ときだった。それは息子だったのだが、「彼には息子がかわいそうになってきた」。また妻もやってきた。絶望的な表情で彼を見ていた。「彼女もかわいそうになってきた」。おそらく、もう家族という絆に縛られた関係になくなりつつあるこの2人に対して、イリイチは初めて人間的な感情を抱く。あらゆる関係の外側で、一人の人間が他の人間に対して抱く真の感情が彼の内に湧き出たのである。

「そのとき、彼には、自分の生活はほんとうではなかった、しかしそれはまだ訂正できる――こういうことが啓示されたのだった。『ほんとう』とは、いったい何か? そして、耳をすましてしずまりかえったのであった」(16)。

この瞬間はイリイチにとっては死の間際であったかもしれないが、おそらく生涯で一度きりの「思考」の、「世界からの引きこもり」の瞬間でもあったのだろう。その瞬間に、同時に二つのことが生じたようにトルストイは描いている。一つは「自分の生活はほんとうではなかった」という認識であった。しかしその認識と同時に、死に対する恐れは消え、死は希望に転化した。それは偽の人間関係から解放されたときに初めて生じる喜びの感情でもあった。死に対する恐れとは、あの無意味な生活に縛られている人々が作り出す幻影だということがイリイチには見て取れた。

「彼は、昔から慣れっこになっている死の恐怖をさがしてみたが、見つからなかった。死はどこだ? 死とはなんだ? どんな恐怖もなかった、死がなかったからである。
 死のかわりに光があった。
 「ああ、これだったのか!」不意に彼は声に出してこう言った。「何という喜びだ!」」(17)。

 このイリイチの最後の言葉の内に、パウロの有名な「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(『コリントの使徒への手紙 一』15:54~55)のヴァリエーションを見ないわけにはいかない。それはともかく、これまでの生の無意味さと死に対する恐怖が、「光」によって十二分に相殺されるという構図は、ここで「光」として捉えられたものが「自分がヒトラーの生まれ変わりであるという信念」や、明日に迫る「死刑の執行」というあの妄想のメタファーであることを理解するならば、もはや理解に困難であるはずはないだろう。
こうした理解の仕方は、パウロやトルストイにとって全く異質な基準を当てがうものでしかない。しかし、作品としての生という観点から見るならば、パウロやトルストイの死の捉え方とティモシーGやミンコフスキーの患者の妄想は、詰まるところ同じ営為に帰着すると見る他はない。つまりそれらは、生きるという営為に、そして少し補足をすれば、より良く生きるという営為に帰着するのである。


(1) W.H.Auden :Talking to myself, in Selected Poems, Vintage International(1989), p.297.
(2) Arendt,Hannah :The Life of the Mind, Harcourt, p.60~61.
(3) Ibid.,p.78.
(4)『存在の神秘』-マルセル著作集5、松浪信三郎、掛下栄一郎訳、p.161.
(5)同、p.162~163.
(6) 同、p.165.
(7) Arendt,Hannah :The Human Condition, The University of Chicago Press,p.192.
(8) Hundert, Edward M: The brain’s capacity to form delusions as an evolutionary strategy for survival. in Spitzer,Manfred et al.(ed): Phenomenology, Language & Schizophrenia, p.346~353.
(9) 同、p.347~8.
(10) 同、p.348.
(11) 同、p.352.
(12) E.ミンコフスキー:『生きられる時間-2』みすず書房 p.25.
(13) 同、p.29.
(14) Freeman,Mark: Death,Narrative Integrity and the Radical Challenge of Self-Understanding: a Reading of Tolstoy’s Death of Ivan Ilych, in Aging and Society,17,1997,p.373~398.
(15) トルストイ: イワン・イリイチの死、『トルストイ全集6 後期作品集上』(河出書房新社)、中村白葉訳、p.151.
(16) 同、p.157.
(17) 同、p.157~8.


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