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戦争についてのノート [翻訳]

戦争について  
Brian D. Orend, in stanford encyclopedia of philosophy

定義:戦争とは、政治的共同体の間でなされる、現実の、意図的で、広範囲にわたる武力衝突である。War is an actual, intentional and widespread armed conflict between political communities.

戦争と平和についての倫理には三つの伝統がある。
1. 正戦論(just war theory):Augustine, Aquinas, Grotius 以来の伝統。今日の国際        法に結実。武力の行使に訴えても倫理的に正しいと言えるのは、いかなる条件が充たされている場合かを探る。
2. リアリズム(Realism):戦争を倫理的な観点から見ることに否定的。
3. 平和主義 (Pacifism):戦争を倫理的に見るという点で正戦論に一致するが、いかなる戦争も許容しないという点で、正戦論と対立する。

1. 正戦論
 正戦論は三つの部分から成る。
a) 「戦争に向けての正義」「戦争(を開始するため)の正当な理由」(jus ad bellum, which concerns the justice of resorting to war in the first place)。
b) 「戦時下での正義」( jus in bello, which concerns the justice of conduct within war, after it has begun)。
c) 「戦争終結における正義」( jus post bellum, which concerns the justice of peace agreements and the termination phase of war).

a) 「戦争に向けての正義」(jus ad bellum):国家の長が従うべき原則
以下の原則にそむいた場合、国家の長は「戦争犯罪」を犯したとされる。戦争が正当化されるためには、つぎの六つの条件が充たされなければならない、と正戦論は主張する。
ⅰ)正当な理由(Just cause)
国家は、正当な理由がある場合にのみ戦争という手段に訴えることができる。正当な理由としてしばしば引き合いに出されるのは、外的な攻撃からの自衛、無実の人々の保護、悪行に対する懲罰等である。
ⅱ)適切な権威と宣戦布告の周知徹底(Proper authority and public declaration)
戦争執行機関が合法的権威であり、その決定が(自国民および敵に対して)周知されること。
ⅲ)正しい意図(Right intention)
戦争に訴える動機が道徳的に正しくなくてはならない。権力や国土の奪取といった裏側の理由や、復讐や民族的憎悪といった理不尽な理由は排除される。
ⅳ)最後の手段(Last Resort)
紛争を解決するための平和的な手段をすべて使い尽くした場合にのみ、国家は戦争に訴えることができる。
ⅴ)勝利への合理的見込み(Probability of Success)
戦争に訴えることが状況の改善につながると予測できない限り、国家は戦争に訴えてはならない。
ⅵ)結果の善が戦争という手段の悪にまさる((Macro-) Proportionality)
得られる恩恵が損失を上回ると予想される場合にのみ、国家は戦争を遂行できる。

ⅰ)~ⅲ)は、正戦の義務論的な条件、ⅳ)~ⅵ)はその帰結に関する条件。

b)「戦時下での正義」( jus in bello):戦闘員に対する要求事項
ⅰ)戦闘員と非戦闘員の区別。
ⅱ)求められる目的に応じた手段を用いなければならない。大量破壊兵器の禁止。
ⅲ)それ自体悪しき手段の禁止。集団レイプ、民族浄化、捕虜の拷問、生物・化学兵器などの、手におえないような結果をもたらす兵器の禁止。

c)「戦争終結における正義」( jus post bellum)

2.リアリズム

3. 平和主義

 平和主義(pacifism)= 反-戦争-主義(anti - war - ism)。
平和主義者によれば、戦争に訴えかけることを正当化する倫理的根拠はまったくない。戦争は、常に、悪いのである。
 正戦論者(またはリアリスト)に言わせれば、これは、自己の倫理的純粋性のために手を汚すことを拒む‘clean hands policy’。平和論者は、市民としての利益をすべて享受しておきながら、そのすべての重荷を共有しているわけではないという点で、「ただ乗り(free-rider)」ということになる。(←おそらく単純すぎる)。
 また、市民の非暴力的な不服従の運動を、外交的・経済的制裁と組み合わせれば、戦争に頼る必要はないという平和主義に対して、「世間知らず」という反論 がある( Waltzer, Rawls)。不服従の運動の実効性は侵略者の良心次第であるし、外交・経済の制裁が、さらなる侵略の口実になるかもしれない(ナチスの場合)。(← まだ狭すぎる批判)。
 考慮すべき平和主義にも二種類ある。
1) 戦争から得られる利益が、戦争を遂行するコストを上回るべきではないと主張する               
   帰結主義的な形態の平和主義(consequentialist form of pacifism= CP)。
2) 戦争という活動そのものが本質的に間違いであると説く義務論的な形態の平和主義(deontological form of pacifism= DP)。
DPタイプの平和論者が戦争によって侵害されると考えるものは何か。
・ 他の人間を殺してはならないという義務。(反論は容易)。
・ 罪のない人間を殺してはならないという義務。正戦論もそう主張しているのだが、事実上罪のない人間を巻き込まない戦争というものはありえないのだから、これまでもまたこれからも「正しい戦争」はありえない(Holmes, R. On War and Morality. Princeton, NJ: Princeton University Press, 1989)。

正戦論が、平和主義に対してよくもちだすのが、もともとトマス・アキナスが考案した「二重結果説(doctrine of dobble effect=DDE)」。
ある人(=X)が、ある行為(=T)をしようと考えているが、その行為は、良い(道徳的、正しい)結果(=J)と、悪い(反道徳的、不正な)結果(=U)を同時に引き起こすだろう、とXは予想している。DDEによると、XがTをすることが許されるのは、
1) Tは、ある結果をもたらすという点以外には、なんら問題はない。
2) XはJだけを意図しているのであって、Uを意図しているのではない。
3) Uは、Jに対する手段ではない。
4) Jの「良さ」は、Uの「悪さ」よりも大きい。
Xをある国家(相手国をY)、Tを戦争、Jを戦争によって死傷する罪のない人々とすれば、
正戦論は次のように説く。

Xが防衛戦争に乗り出していいのは、次ぎの条件が充たされるときである。
ⅰ) Xが、戦闘行為の結果生ずる民間の死傷者を意図しているわけではなく、ただ自衛を目指しているだけである。
ⅱ)その死傷者は、Xの目的が達成される手段ではない。
ⅲ)Xが、Yの攻撃から自国と自国民を守ることの意義は、民間の死傷者が出ることの不都合よりも大きい。  

Arendt on Descartes [翻訳]

2009年6月26日
アレント on デカルト
ハンナ・アレント:『精神の生活 第一部 思考』P.56-60

  …デカルトは、人間の認識および知覚の器官に対するきわめて近代的な懐疑によって、レス・コギタンス(res cogitans、思考するもの)の性質として、古代人にまったく未知のものではなかったが、デカルトの時代になって初めて卓越した重要性を持つようになったいくつかの特徴を、彼以前の誰よりも明確に定義した。なかでもきわたっているのは自己充足、すなわち、この自我は「場所も必要としないし、なんらかの物体的なものにも依存しない」ということであった。第二に挙げられるのは、世界欠如、すなわち、自己洞察において、「私の状態を注意して吟味しながら」(examinant avec  attention ce que j’etais)、容易に「自分は肉体を持っておらず、自分がかつていた世界も場所もなかったかのように仮想する (feindre que je n’avais aucun corps et qu'il n'y avait aucun monde ni  aucun lieu ou je fusse)ことができるということであった。

 たしかにこういう発見の、いや、再発見のどれも、それ自体は、デカルトにとって大きな重要性を持ったものではなかった。彼が主に関心を寄せていたのは、疑いの余地なく、感覚知覚の錯覚を受け付けないような現実性をもったもの―ー思考する自我、彼の用語でいえば、la chose pensante{思考するもの〕――を見いだすことであった。全能の“欺く神”(Dieu  trompeur)の力をもってしても、すべての感覚経験から退きこもってしまった意識の持つ確実性を打ち砕くことはできないだろう、ということである。与えられたものはどれも幻想や夢であるかもしれないが、夢を見る人そのものは、夢の現実性を求めないことに同意するだけでも、現実に存在してなければならない。したがって、「私は考える、だから私は存在する」(Je pense.donc ie suis)°。一方では、思考する活動そのもの経験は大変に強烈なものであるし、他方で、新しい科学が「動く土」(la terre mouvante' 我々が立っているその場の流砂)を発見した後にも、確実性と持続する永続性を見いだそうという欲求は激しいものである。だから、デカルトにとっては、″思考作用″(cogitatio)や活動する自我の意識が、意識対象の現実性についての信念をすべて停止してしまい、もし実際に砂漠で生まれて身体もなければ「物質」もなく仲間もいなくて、自分が見たものは仲間も見ているとはっきり仲間が言ってくれるということがなかったならば、自分自身の現実性を自分に対して説得することも出来なかっただろう、などとは思いもよらないことであった。デカルトのレス・コギタンス〔思考するもの〕というこの仮構物は、身体も感覚もなくて孤独なものであるから、現実性というものがあるということ、また、現実のものと非現実のものとの区別や、覚醒した生活の共通な世界と夢の私的な非世界との区別がありうることを、知ることさえできないだろう。

・・・世界および自分自身が現実に存在していることに疑念を抱くようになるのはまさしく思考の活動――思考する自我の経験――なのである。思考の働きは、どのような現実的なものであっても、すなわち、事件であれ対象であれ、自分の思想であれ、それらをつかまえて捉えることはできる。しかし、それらが現実的であるということ{realness}だけは、どうしても思考の手が届かない唯一の一つの性質である。″ 私は考える、だから私は存在する″(cogito、ergo sum)が間違いであるのは、ニーチェが言ったように、″私は考える″(cogito)ということからはただ″思考作用″(cogitations)が実際に存在することが推論されるだけだ、という意味だけではない。″私は考える″ (cogito)は、″私は存在する″(sum)と同じ懐疑にさらされるのである。〈私は存在する〉は〈私は考える〉に前提されているからである。思考はこの前提を把握することはできるが、それを証明することも反証することもできない。(カントのデカルトヘの以下の反論もまったく正当なものである。「私は存在しない」という思考は「存在し得ない。というのは、もし私が存在しなかったら、私が存在しないということに気付くことができないということになってしまうからだ」。現実性は導出できるものではない。思考や反省は、それを受け入れるか拒絶するかしかできない。“欺く神”(Dieu trompeur)の観念から出発しているデカルトの懐疑は、洗練されヴェールを被った形での拒絶にすぎない。・・・・

現象するものはどれも〈私にはこう見える〉という仕方で知覚されるのだから、誤謬や錯覚の可能性があるのだが、現象そのものには、現実的であること{realness}をアプリオリに示すようなものがある。すべての感覚経験には、通常、はっきりとしたものではないにせよ、付随的な、現実性という感覚が伴っている。しかしながら、これは孤立化された感覚やものの脈絡からはずれた感覚対象によっては生みだされるものでない。

 私が知覚するものが現実的であるということは、一方では、私と同じように知覚する他人がいるこの世界と、この知覚されたものがつながっているということによって保証されるのである。もう一方では、私の五官の協働によっても保証される。トマス・アクィナス以来、共通感覚、センスス・コムニス(sensus communis)と呼ばれているものは、一種の第六官であって五官をとりまとめ、私が見たり、触れたり、味わったり、匂いを嗅ぎ、聞いたりするのが同じ対象にたいしてだということを保証するために必要なのである。それは「五官の対象すべてに拡がっていく一能力である」。同じ感官でありながら、身体器官としては場所を特定できないから神秘的なこの「第六官」が、厳密な意味では私の私的な五官-非常に私的なものなので、その感覚作用の質や程度を他人に伝えることができないーを他人と共有できるような共通世界に合わせていくのである。〈私にはこう見える〉という主観的な性格が矯正されていくのは、現れる仕方が異なっているにしても同じ対象が他人にも現象するという事実があるからである。(人間たちが同じ種族に属するものだと確信するのは、身体的な見かけが類似しているからというよりも世界が間主観的であることによる。個々の対象は各個人に異なった様相で現れるが、現れる脈絡は種族すべてに同一である。この意味で、どの動物種も自分固有の世界に生きており、個としての動物は自分の身体的特徴を仲間のものと比較しなくても、仲間を仲間として認識するのである。)誤謬と仮象に満ちた現象の世界では、たしかに現実であると保証されるのは以下の三重の共通点があるときである。すなわち、相互にまったく異なっている五官が同じ対象を共有していること、同じ種のメンバーが、どの個物にもそれ特有の意味を与える脈絡を共有していること、そして、感覚を持った別のあらゆる存在者が、この対象をまったく異なった視点から見ても、この対象が同じであるという点について同意すること、である。この三重の共通性から現実性の感覚が生じてくる。・・・

Arendt on the Two-in-One [翻訳]

cahier litteraire (&papers &reports)

2009年6月26日
一者の中の二者(The-two-in-one)
① ・・・二つの積極的なソクラテスの主張とは以下のようなものである。第一には、「悪事をするよりは、される方がましだ」という主張であるが、それに対して、対話の相手であるカリクレスは、いかにもギリシア人的な返答をする。「不正を受けるなどという、そういう憂き目は、人間たるものの受けることではなくて、むしろ、生きているよりは死んだほうがましな、奴隷のような者の受けるべきことである。つまり、不正を受け、辱めをこうむっても、自分で自分自身を、また自分が面倒を見てやっている他の人を、助けることのできないような者があるとすれば、誰であろうと、そのような人間の受けるにふさわしいことだからである」。第二には、[私のリュラ琴や私の指揮する合唱隊が、調子が合わないで不協和な音を出すとか、また、世の大多数の人たちが私に同意しないで反対するとしても、そのほうが、一人でいる時、私が私自身と不調和であったり、自分に矛盾したことを言うよりもまだましなのだ」というのである。これに対してカリクレスが言うには、ソクラテスは「議論で気がおかしくなっている」のであり、ソクラテスが哲学をやめてしまうなら、その方が彼自身にとっても他のみなにとってもよいことだというのである。
 そしてこの点て彼は正しい。たしかに、哲学をしているからこそ、いやむしろ思考経験をしているからこそ、ソクラテスはこういうことを口にしたのである・・・・

②   ソクラテスの第一の発言が行なわれたときにそれにどれほど逆説的な響きがあったのか、リアルにつかみとるのは難しい。数千年間にわたって使用され誤用された後では、この言葉は安っぽい道徳に見える。さらに、第二の言葉がどう迫ってくるかを現代の読者が理解するのは難しいことだが、それをもっともあざやかに示しているのはキーワードである「一人でいる」(「私にとっては、世間の多数の人と一致できないでいるよりは、自分自身と不和である方がもっと悪いだろう」の前にくる)が近代語訳ではたいてい無視されているということである。第一の発言は主観的な発言である。悪事をするよりはされるほうが、私にとってはましだ、ということである。そして対話篇のその場で対置される発言のほうも同様に主観的な発言であり、もちろん後者のほうがまっとうに聞こえる。ここで明らかになるのは、カリクレスの語っている「私」とソクラテスが語っている「私」が別物だということである。そして一方にとって良いことが、もう一方にとっては悪いことなのである。



③・・・・第二の発言もまたすさまじく逆説的である。一人でいるときに、それゆえ自分自身と不調和であるわけにはいかないのだとソクラテスは言う。しかし、AはAであるというように、本当の意味で絶対的に一つであって自己同一的なものは、そもそも自分と調和しているとか調和していないとかいうことがありえないのである。和音を作るには少なくとも二つの音がなければならない。たしかに、私が姿を現わして他人にその姿を見られるときには私は一人の人物である。そうでなかったら、私が私だとわからないから。そして、他人と一緒にいて多少とも自分を意識している場合には、私という人間は他人に見えるとおりの人間である。ここで意識(consciousness)といっているのは(語源的には、「自分自身とともに知る」ということなのだが)、自分には自分があまり姿を現わさないのに、ある意味で自分にとっての私という奇妙な事実のことなのである。これでわかるように、ソクラテス的な意味で「一人である」ということは見かけ以上に問題を孕んでいる。私という人間は他人に対しているだけでなく私自身にも対しており、この後者の場合には明らかに私はたんに一人であるわけではない。私の一人であることの中に差異が持ち込まれているのである・・・・

 註  プラトンの対話篇『ソピステス』からの引用と解説


④・・・・自分自身であると同時に自分自身に対していることができるものがあるとすれば、〈一者のなかの二者〉以外にはない(Nothing can be itself and at the same time for itself but the-two-in-one)。この〈一者のなかの二者〉をソクラテスは思考の本質としてえぐり出し、プラトンは概念的言語に翻訳して「自分の自分自身との無言の対話」と言ったのである。しかし、ここでもまた、思考活動自体は、統一性をなしているわけではないし、〈一者のなかの二者〉を統一しているのでもない。それとは逆に、〈一者のなかの二者〉が一者になるのは、外部の世界が思考する者の中に侵入して思考過程を中断させたときである。自分の名前を呼ばれて現象界に呼び戻されたときにはつねに一者であり、思考過程がその人を二つに分断していたのにまるでピシャリと両者が再び合わさったかのようになる。実存的に見れば、思考することは孤独な仕事ではあるが、孤立した仕事ではない(Thinking is a solitary but not lonely business )。孤独(solitude)とは、自分が自分を仲間にしている状況のことである。一方、孤立(loneliness)とは、自分が〈一者のなかの二者〉に分けられることもできず、自分を仲間にすることもできない状況であって、ヤスパースがよく使った表現で言えば「自分自身を失っている」(lch  bleibe mir aus)のであり、表現を変えれば、私が一者であって仲間がいない状態なのである。


⑤ 人間が本質的に複数性において存在しているということを、おそらく何よりも雄弁に物語っているのは、孤独であることが、多分、われわれが高等動物と共有している単なる「自己についての意識」を、思考活動の間、二者性(duality)へと具体化するということにある。この自分自身との二者性があるからこそ、思考が真の活動たりうるのであって、私が問うものであると同時に答えるものにもなる。・・・・・


 註  「弁証法」の元来の意味。それは「(思考における)対話術」という意味であった。アリストテレスにとってこの「対話術」の犯すこと出来ない原則は「矛盾しないこと」であった。後にカントが、「自己自身と一致して、常に首尾一貫して思考すること」を「思考する者にとっての変更できない格率」としてあげたのも同じ趣旨である。


⑥・・・・思考する自我は二者性においてのみ存在しているからである。そしてこの自我――〈私は私である〉―-が同一性の内に差異性を経験するのは、まさに、自分自身にのみ係わっている-ときなのである。ちなみに、この根源的な二者性があるのだから、アイデンティティーを求める今流行の研究が不毛であるのもわかるというものである。現代におけるアイデンティテ-の危機が解決できるとすれば、手段としてはぜったいに一人にならずに絶対に考えないようにするしかあるまい。そのような元々の分裂がなければ、どう見ても一者であるような存在における調和なるものを扱ったソクラテスの発言は無意味になってしまうだろう。




⑦  ソクララテスにとって〈一者のなかの二者〉の二者性が持っている意味は、もし思考したいのであれば対話を行なう二人がいい関係にあって、パートナー同士が友人であるように配慮せよ、ということに他ならなかった。あなたが目覚めていて一人でいる時にやって来るパートナーは、(考えないでいる場合を除けば)あなたが絶対に別れることのできない唯一のパートナーである。悪事をするよりされるほうがましであるのは、被害者の友でいられるからである。殺人者の友であること、殺人者とともに生きることを望む人がいるだろうか? 結局、カントの定言命法がねらっているのも、自分と自分自身との間の同意が重要であることを比較的単純に捉えることにある。「あなたの格率がとりもなおさず普遍的な法になることを意志できるような格率に基づいて行動せよ」という命法の根底にあるのは、「自分自身と矛盾してはならない」という命令である。殺人者や泥棒でも、当然のことながら自分の命や財産は惜しいのだから、「汝殺すなかれ」とか「汝盗むなかれ」ということが普遍的な法であることを意志しないはずがない。自分をその例外だと考えるのなら、自分自身と矛盾したことになるのだから。


⑧  真作であるかどうか論争のある『大ヒッピアス』がもしプラトンによるものでない偽作であるとしても、それがソクラテスについての真正の証言であると考えて差し支えないだろう。その中で、ソクラテスは事態を簡潔にかつ正確に述べている。対話の最後、家に帰る箇所である。頭がとりわけ鈍いヒッピアスに向かってソクラテスは言う。あわれなソクラテスに比べたらきみのほうがどれほど「無上にも幸福」であるか、と。なぜならソクラテスには家に帰ると、鼻持ちならない連れが待っていて彼を徹底的に詮索してばかりいるからである。「その人は私と血のつながりが深くて、一つ屋根の下に住んでいるのだよ」。ソクラテスがヒッピアスの意見にコメントしているのを聞きつけて、その人が今度は尋ねるだろう。「人に問いかける以上、「美」という言葉の意味を知らないのは明白であるのに、美しい人生のあり方について語るなんてはずかしくないのか」と。ヒッピアスは、帰宅したときには一人である。一人暮らしではあるにしても、自分自身とつきあおうとしないからである。たしかに、意識を失っているわけではないが、意識を現実化させる習慣がないのである。ソクラテスは、帰宅すると一人ではなく、一人でいながら彼自身とともにいる。一つ屋根の下で生活しているのだから、彼を待ち受けているこの連れとなんらかの形で同意して折り合いをつけなければならないのは明らかである。仲間と別れた後でも一緒に生きていかなければならない唯一の連れとうまくいかないくらいだったら、世界全体とうまくいかないほうがよい。



⑨  ソクラテスが発見したのは、他人とつきあうのと同じように自分とつきあうこともできるということであり、この二種類のつきあいには相互関係があるということである。アリストテレスは友情について「友は第二の自己である」と述べているが、これは、自分自身を相手にするのとまったく同じように友を相手にして思考の対話をすることができるという意味である。これは依然としてソクラテス的伝統のなかにあるが、ソクラテスだったら「自己もまた一種の友である」と言ったことだろう。この問題で道しるべとなる経験は友情であって、自分との関係ではない。私はまず他者と語り合うのであって、その後、私は自分と語り合い、話題となっていたことを吟味し、そして、他者とだけでなく自分自身とも対話をすることができるということを発見する。しかしながら、共通のポイントとしてあるのは、思考の対話が友人の間でだけ行なわれるということであり、その基本となる基準、いわば至上の法は、「自分自身と矛盾するな」ということである。
            
     

⑩  「自分自身とかみあわない」のは「いやしい人」の特徴であり、連れを避けようとするのは邪悪な人の特徴である。彼らの魂は自分に反抗している。自分の魂がそれ自身と調和せずに争っているときには、自分自身とどのような対話が可能なのであろうか。シェイクスピアにおけるリチャード三世が一人でいるときに我々が耳にする対話がまさしくそれである。
  
  なにを恐れる? おれ自身をか? 他に誰もおらぬ。
  リチャードはリチャードを愛している。つまり、おれはおれだ。
  ここに人殺しがいるか? いない。いやたしかにいる、このおれだ。
  では逃げろ。何だと。このおれから? なぜ逃げねばならぬ?
  おれが復讐しないように。何だと。おれがおれに復讐する?
  だが、ああ、おれはおれを愛している。なぜ?      
  おれがおれになにかいいことをしたからか?
  とんでもない! おれはおれを憎んでいる。
  おれがおれに憎むべきかずかずの罪を犯したから!
  おれは悪党だ。いや、おれは嘘つきだからな、おれは悪党ではない。
  馬鹿め、自分のことを褒めろ、馬鹿め、見えすいたことを言うな。


 しかし、真夜中を過ぎると様相は一変する。そしてリチャードは自分との付き合いをやめて、もとの悪党に戻るのである。

  良心(Conscience)などというものは臆病者が使うことばにすぎぬ。
  もともとは強者を恐れしめるために作られたものだ


 町のにぎわう所が大好きだったソクラテスでさえ、家に帰らなければならない。そこで彼は、一人になり孤独になって、もう一人の連れと出あわなければならないのである。



⑪   私が『大ヒッピアス』におけるきわめて簡潔な箇所に注意を喚起したのは、そこで与えられている比喩が、困難であるがゆえにつねに過度の複雑化の危険をともなっている問題を、――過度に単純化し過ぎる危険はあるもののー―単純化するのに役立つからである。ソクラテスを家で待ち受けている連れに対して、その後の歴史は「良心」という名前を与えている。カント的な言葉を使えば、良心の法廷を前に我々は出頭し、自分自身を説明しなければならない。そして私が『リチャード三世』の文章を選んだのは、シェイクスピアの語彙には「良心」という語がありながら、彼がここでその語をいつものように使っていないからである。言語において「意識(conscious-ness)」と「良心(conscience)」が分離するのには長い時間がかかった。いまでも言語によっては、たとえばフランス語のように、両者が分離されていないこともある。道徳的あるいは法的な事象において理解されるような良心は、意識とちょうど同じように、つねに我々とともにあることになっている。そしてこの良心は我々に何をなすべきか、何を後悔すべきか、教えてくれると考えられている。それは、自然の光 (lumen naturale)、カントの実践理性になる以前には、神の声だったのである。

 このようにつきまとう良心とは違って、ソクラテスが話題にしている連れは家に残されている。『リチャード三世』の殺人者が良心をー―その場にいないものとして――恐れるように、ソクラテスは連れを恐れている。この場合の良心は「再考」として登場しており、リチャード自身の場合で言えば犯罪によって引き起こされたのであり、ソクラテスの場合で言えば吟味されていない意見によって引き起こされている。リチャードによって雇われた殺人者のように、「再考」を予期して恐れることであるかもしれない。このような良心は、我々の内なる神の声や自然の光と違って、積極的な処方瀋を出したりしない。(ソクラテスのダイモンや、その神的な声は、何をしてはいけないのかを教えるだけである。)シェイクスピアの言葉でいえば、「それは人間を障害だらけにしてしまう」。人がそれを恐がるのは、帰宅するときにだけ待ち受けている証人の出現を予期できるからである。シェイクスピアにおける殺人者は言う。「うまく生きようとする人は……それなしで生きようと……努める」。そしてそれはたやすいことである。なぜなら、我々が「思考」と呼んでいる無言の孤独な対話をけっして始めず、家に帰らず、物事を吟味しなければよいからである。これは頭がよいとか悪いとかいう問題でないように、凶悪さや善良さの問題ではない。(我々が自分の発言や行動を吟味する)無言の会話を知らない人は、自分自身と矛盾しても平気なのであり、自分の発言や行動を説明することができないし、そうするつもりもない。犯罪を犯しても平気な人は、そんなことはすぐに忘れられるだろうと決め込むだろう。悪人は「後悔の念」で一杯になるとアリストテレスは言っていたが、そんなことはないのである。



⑫   認識を目的とせず、専門化されたものでない意味での、人間生活における自然な欲求としての思考は、少数者の専売特許ではなく、能力としては万人につねに開かれている。それと同じく、考えることができないという状態は、知力の足りない人々のおかす失敗なのではなく可能性としては万人にとってつねに存在しており、科学者や学者のような精神的営為の専門家たちも例外ではない。自分自身との会話の可能性と重要性に最初に気づいたのはソクラテスであったが、誰だってそういう会話を避けたくなることもある。思考は生に伴うものであり、思考自体が生きることから物質的な面を取り除いた精髄なのである。人生は過程なのであるから、人生の精髄は実際の思考過程にこそあるのであって、出来上がった思考の結果とか特定の思想にあるわけではない。考えることのない人生も十分可能である。その場合には人生の本質を広げていくことはない。無意味であるだけではなく、十分に生きているともいえないのである。考えない人は夢遊病者と変わらないのである。・・・


妄想-生き延びる戦略 [翻訳]

妄想-生き延びる戦略

The brain's capacity to form delusions as an evolutionary strategy for survival.

Edward M. Hundert


in Phenomenology,Language & Schizophrenia


 上記の論文のほぼ4/5にあたる部分の翻訳を以下に掲げる。
 

「 あるケース・スタディ:ティモシーG.
  
 私がティモシーG.と呼ぶことにする患者は、32歳、独身、白人、失業中の男性で、その精神病的症状は、ほぼ20歳のときに始まった。その頃まで、彼は成績もよく、彼の高校の通知表は、彼のことを、皆から好かれ、遊び好きな人間と記述している。しかし大学二年のとき、彼の社会生活は悪化し始め、次第に孤立しうつ状態になった。彼には顕著な不眠傾向とパラノイアがあり、地元の幾人かの女性にセクハラ行為を行ったために、最初の入院ということになった。
 
  20歳から22歳の間に、この患者は、ほとんど死んでもおかしくなかったような自殺の試みに続いて、重い鬱の治療のために何度も短期間の入院をした。この自殺の試みには、ナイフで自分の腹を突き刺す(肝臓に障害をもたらした)、ガソリンで焼身自殺を図る、橋から凍った川に飛び込む、手首を切る、睡眠薬の過剰摂取などがあったが、最後の過剰摂取では二日間意識が戻らなかった。最後の自殺の試みの頃に、彼は、自分が「聖霊を冒涜したことがあった」と感じ始めた。23歳の頃、ティムは、その後10年間にわたり強弱の違いはあれど常に存在し続けてきた妄想の体系を抱くようになった。その体系には、自分は、戦争犯罪の償いをするために生まれ変わったアドルフ・ヒトラーであるという信念も含まれていた。彼の言うところによると、自分はヒトラーの墓に5年間埋められていたが、それから多くの自殺の試みや入院の苦しみを味わうために地上に戻ってきたという。比較的病状が安定してるときでも、具体的ではない形ではあるにせよ、自分は今償いをしているのだということを主張し続けた。しかし、何らかのストレスがかかると、ヒトラーの生まれ変わりであるという彼の信念が、多くの詳細を伴って戻ってくるのであった。

 事態を複雑にしていたのは、この患者が12歳のときに多発性硬化症と診断されたことであった。 MRIは、彼の脳のあちこちに多様な白質病斑があることを示していた。彼は、ここ10年間、発病時に見せた神経学的症状が進行していないために、多発性硬化症の典型的な特徴のすべてを持っているとはいえなかった。彼が10歳のときひどい自転車事故を起こし意識を失ったことが、脳のスキャン画像で見られる損傷の原因であり、これが多発性硬化症のような症状を引き起こしているのではないか、という仮説を立てる者もいた。
 ティムの家族の病歴としては、母方の大おばとおじが鬱病を何度も発症したということが目につく位であった。彼は、今更正施設にいて、パラノイアの症状や鬱が深刻になったときだけ、再入院するという暮らしをしている。彼は、約10年間、自傷の試みをしていない。


 臨床的パースペクティヴと進化的パースペクティヴ

 ティムは、それと判る脳の病理と非常に古典的な妄想体系を持っているがゆえに、われわれの議論にとって興味深いケースを提示している。妄想は、患者が自分のことを悪である、罪深い、あるいは何らかの点で世界や周囲の人々を汚していると考える場合には、こういう形式をとるのである。MRIの画像でくっきりと現れる脳の病理的現象が、自分はヒトラーの生まれ変わりであるというティムの固定的な信念の直接の原因であると想定することは魅力的なことである。
 しかし、彼の病気の経過は別の物語を語っている。その物語とは、たぶん彼の脳神経の状態のために、たぶん遺伝的抑うつ的混乱のために、またはたぶん何か別の未知の理由のために、患者が20代の初期に自殺をするほどの欝状態に陥り、そして、彼が知っているような「現実」が彼にたった一つの選択肢、つまり自殺という選択肢しか残さなかった、という物語である。無意味な苦痛による孤立化が、ティムをあれほど印象に残るほど執拗に自分の命を奪おうとする試みに駆り立てたのであり、ティムが今日生き延びていることはほとんど奇跡に近いものがある。

 しかし,彼の生に意味が与え返されたのである。この意味は彼の妄想から生じたのだが、それは、多くの精神病の患者と同様、彼の症状の全体が、彼の継続的生存を組織的に支えたからである。彼の生を終わらせることは、ナチスのホロコーストの犯人に裁きを下すという世界の希望を終わらせることであるだろう。彼の脳がこのことを理解してからというもの、彼の継続的な生存が危機に瀕するようなことはなくなったのである。
 ティムを精神病の患者と呼ぶことで、私は、妄想を精神病という一般的なレッテルのもとに含めているわけだが、これは若干の説明を要する。メルジェスは通常の定義を要約して次のように述べている。「精神病という術語は、欠陥のある現実検討能力を指し示す。簡単に言って、欠陥のある現実検討能力とは、現実的なものを非現実的なものから区別することが困難である、ということを意味する」。ティムの妄想が精神病的なのは、彼が現実的にはヒトラーの生まれ変わりではなく、従って彼が現実的なものを非現実的なものから区別することができないとわれわれが考えるからである。
 しかし、われわれがここで考察していることは、「現実的なもの」との継続的接触は、ティムの生命の終わりをもたらしただろうという可能性である。われわれは次のことを考えてみるべきなのかもしれない。妄想を生み出したのは、MRIの画像に映った損傷を受けた部分なのか、それとも、脳のもっと健康な部分が彼を助けにやってきて、彼に生命を終わらせない理由を与えることによって、彼を生き続けさせているのではないか。

 妄想とは、人間の経験の別の部分が崩壊したことに直面した脳がそれを代替したりそれを修復する努力なのだという考え方は、50年以上前に、ミンコフスキーによって周知のものとなった考え方である。彼の有名な患者は、自分は次の日に処刑される予定であるという固定した妄想を持っていた。この患者の経験と折り合いをつける努力の後で、ミンコフスキーは次のように結論づけた。
 「…妄想は想像力の産物ではまったくない。それは、人の生命の一部である現象に接木されるものであり、生命を総合している部分が弱体化し始めるときに、活動し始める。処刑という観念は、精神の正常な部分が、いま崩れかけようとしている建物の色々な箇所の間に論理的なつながりを打ちたてようとする試みなのである」。

 …進化的パースペクティヴから見ると、なぜ脳が死より妄想を優先するかは明らかであるはずだ。個人の心的な経験は、それが適応性のない行動を生み出したり、生殖に必要な肉体的特長の変化を生み出さない限り、結局、自然淘汰のかかわる事柄ではない。マーハーが言うように、「自然淘汰は肉体の構造と行動に作用するのであって、思考そのものに作用するわけではない」。脳が進化したのは、他でもない生存(サバイバル)のためであった。「現実の」世界が個人に、自殺(または殺人)以外の選択肢を残さないとき、われわれは、当然ながら、健康的な脳がその現実の世界を手放すことを期待するだろう。セムラードがかつて言ったように、「精神病とは…生命を維持するために現実を犠牲にすることである」。「妄想」は脳のより健全な部分(ティムの脳のMRIの画像に映らなかった部分)の代償的努力なのであるという点を見逃して、善意の治療者が患者に、自分の過去のためにいま処罰されているなどということは正しくありませんと言って、患者から、彼らの脳が創造した意味を奪ってしまうとき、われわれは多くの自殺を促しているのではないだろうか。


 ところで一体、誰の現実のことか?

 上でメルジェスがしたように、「現実的なもの」と「非現実的なもの」を区別する能力の欠如という観点から、単純に、精神病を定義することにまつわる周知の問題は、何を「現実的」と見なすかという点についての意見の一致(consensus)がまったくないことである。確かに、生まれ変わりに対するティムの信念を額面どおり受け取る文化は数多くあるだろうし、唯一の問題は、ティムが本当にヒトラーなのかどうか、であるかもしれない。われわれが、妄想を形成する脳の能力を、生存のための進化的戦略としてみなしたとき、われわれが留意しなければならないのは、進化を通して生存し続けるのは、個体のみならず、種であるということである。「適応」性をもつものとは、集団としての全体にとって適応性をもつものなのである。このことは、何を「現実的」とみなすかという問題についてのいかなる見解にとっても大きな意味合いをもっているのである。
 
 われわれが妄想を形成する脳の能力を進化論的戦略として理解できるのは、個体というよりも種という文脈内でのことなので、単一の「真理」が存在するかどうかという哲学的な難問に立ち入る必要はないのである。ミラーが「哲学者は狂気をどう扱えばいいか知らなかった」と書いたとき、まったく正しかったわけではないが、「ここに新しい方向性のための絶好の機会がある」という彼の結論はたしかに正しい。ストローソンは、『意味の限界』で、「客観的の別名は公共的である」と述べている。別の哲学者、カントは、次のように書いたとき、妄想をまさにこのような仕方で理解している。つまり「狂気の唯一の一般的特徴は、万人に共通する観念に対する感覚(sensus communis)の欠如であり、その共通感覚が、自分ひとりに特有の観念に対する感覚(sensus privatus =私的感覚)によって置き換えられてしまったことなのである」。

 個人的なレベルではなく集団的レベルを問題にすることを難しくしているのは、人間の経験が、現実的であるか非現実的であるかの注目すべき可能性を示していることである。いずれも、人間の経験の「現実的な」部分であり、ティムが自分の経験について間違っていると示唆することはきわめて不適切であろう。現実との接触は、われわれ一人ひとりにとって、流動的なものであって、だからこそ、クラインは、多くの発達心理学の理論がそうしているように、現実検討の段階について語るのではなく、現実検討の「位置」について語るように促しているのである。ボクサーが前進して新たな位置を占めるが、攻撃されて元のもっと守備的な位置に戻るように、われわれは皆、自分の体系へのストレスに応じて、現実との接触の段階も、その時々で変わるのである。この能力が進化論的意味でいかに適応的であるかは容易に見て取れる。なぜなら、それがなければ、必要なときに元のもっと守備的な位置に戻ることができないボクサーと同じ運命を蒙ることになるだろうからである。
 
 別のパースペクティブから見れば、われわれのほとんどは、ほとんどの時間、「妄想」しているのではないかどうかと思案してみることは魅力的である。通常の気分が良いときのわれわれは、現実と最大限に接触している状態にはないのであって、それは、上司によい仕事をしていると思われいるとか、家族は自分のことを愛しているとか等々の思い込みで気持ちよくやって行けているからである。ティムが思い起こさせてくれるように、重い欝状態は、いっそう粗雑な現実の歪曲を生み出しうる。しかし、穏やかな欝状態が、自分が置かれた状態のポジティブな要素とネガティブな要素のいずれをも現実的に評価しているので、現実との接触を最大化するのかもしれない…

 個人個人で経験された現実に劇的なまでの違いがあることを経験的に研究してみればわかることだが、「現実的」ということに関して意見の一致は驚くべきほど欠如しているのである。ウィリアム・ジェームズは「現実的なもの(the real)」と「非現実的なもの(the unreal)」のいかなる区別をも放棄して、その代わりに、「さまざまな現実(the realities)」、つまり、「科学的現実」の世界や、彼が「部族の偶像」(共有された神話、幻想、想像)の世界からなる多様な世界について語らざるを得なかったのである。人類学者のカスタニェーダも、同様に、さまざまな文化の研究によって、現代の科学的精神の思考にとってまったく異質な異なった諸現実(separate realities)が存在しているということを認めざるを得なかった…。しかし、多様な現実の存在という観点から、精神病理学についてわれわれが知っていることのすべてを放棄する必要はない。われわれは、ただストローソンとともに、「客観的なもの」とは、何か単一の統一的な真理ではなく、公共的なものを指し示しているということを認識するだけでいい。「公共的なもの」とは、集団的な全体のことであり、つまり今の場合、その生存が、妄想を形成する脳の能力を含む進化的戦略によって維持される集団なのである。


 現実とサバイバルの政治

   私は、この議論を拡大して、現実とサバイバルの問題の政治的側面を考察することで、結論に導きたい。私は、これまで、個人にとっての妄想の適応的価値を強調してきたが、社会史を勉強してみれば、「皆の意見が一致している現実世界」とは違った現実なるものを知覚した者がいかにひどい代償を払わなければならなかったか、そうした例がどんな時代にも見られることはすぐ判ることである。部族や、共同体や、国家や文化が違えば世界観もひどく違ってくるわけだが、その中の大きな集団が、いつも、自分達とは違った仕方で現実を知覚する人々を非難、迫害、はては殺してきたのである。ガリレオからセーレムの魔女、今世紀ではソ連の反体制派の人々もそうだが、多数が一致してもっている見解を疑問視した人々によって提起された脅威は、文化を強固にしているのが共有された信念であるということを想起させてくれるものだ。火あぶりの刑にされたりシベリア送りにされる危険は、政治的世界にあって妄想を形成する脳の能力が、最終的には、サバイバルに結びつく価値をもつものだというわれわれの見解に対して、重大な問題を提起するものである。
 
  つまり、サバイバルが脳にとって至上命題であるならば、みすみす生命の危機をもたらすような考え方をあえて脳が生み出すということは、つじつまが合わないのではないか、と疑問にもつ人が出てくるかもしれないし、それは、たしかに、もっともな疑問である。

  
 『われわれは現実を必要としているか』という挑発的な論文で、カール・ロジャースは、いかに多くの現実をわれわれは同時に経験しているかを、想起させた。空を見上げれば、天空が私の周りを回っているのが目に入るし、私は、宇宙の運行の中心点であると同時に、そのちっぽけで無意味な一部にすぎない。私は、足元の大地の上にしっかりと立っていて、同時に、息もつかせぬほどのスピードで宇宙を進んでいる。私が握っているペンは、固体であると同時に、原子によって構成されているというよりも空間によって構成されている。こうしたことを考えてみるだけでも、「われわれはみな現実の世界が何であるかを知っている」という安心できる信念が嘘であることが判るのである。
 妄想を形成する脳の能力は、集団が生き延びるための戦略の一部として進化してきた。しかし、その集団としてのサバイバルは、もっと大きい適応的能力、つまり、共有された現実感にあまり依存しない世界で生きていくという能力に依存しているかもしれない。大量の人間が、社会的・文化的現実の本性について完全に意見の一致を見るという贅沢を味わうふりができたのは20世紀で一度しかなかった。これこそ、西欧文明をほとんど破壊したアドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツによってもたらされた意見の一致であった。さまざまな現実を受け入れる度合いを増しながら一つの種として生き延びていくわれわれの集団的能力は、そのような諸現実との接触を生命を守るために喪失する妄想というものを生み出すために元来進化してきた脳に依存しているとしたら、それは、運命の皮肉といえるかもしれない。

  集団が共有された信念のもとで生きるということが、生物の集団としては理想なのかもしれないが、その理想が現実になった稀な例、つまりナチスドイツの例は、理想とはかけ離れたものであった。そもそも、誰もが一致している現実なるものは疑わしい代物でしかない。進化の法則は集団単位で割り出される現象であるが、それ以前に、個体が、自分の所属している集団がどうであれ、生き延びる能力ということが、一番根本にある能力であるはずだ。つまり、集団全体が、ある特定の現実に突っ走っていても、その中の個人が、その現実を無視して、個人的な妄想を形成するという多様性がないと、逆に、集団も成り立たなくなってしまうのである。ここら辺で、脳の柔軟性というか、自分を取り巻いている環境がどれほど変化しようと、時にはそれに適合し、時には、それを真っ向から否定し自分の妄想世界を形成する(それが場合によっては、サバイバルにつながることだってある)、という脳の柔軟性、可塑性が充分感じられるのではないかと思われる。


 
 「ヒトラーの生まれ変わりだというティムの妄想にははっきりとした皮肉があって、それは、彼が、われわれは二つの危険な極端の間の細い道を歩いているのだ、ということを思い出させてくれるからである。第一の危険は、集団全体と違った仕方で現実を知覚する個人の迫害である。(もしティムの信念は変わらなくても、彼が女性にセクハラ行為をしたり自殺を試みたりしなかったならば、彼は入院させられて「精神病的」というレッテルを貼られずに済んだのでは、とわれわれは思うのである)。もう一つの危険は、われわれの脳の適応的能力が、同胞に対する配慮をしなくなる、それも、同胞がわれわれと同じであることに安心できるからという理由ではなしに、彼らがわれわれとは違うがゆえにわれわれは彼らを評価しするという理由から、同胞に対する配慮をしなくなるならば、それは、われわれが知っているような文明に対する脅威になる、ということである」。

 違うから迫害するという危険と、みんな違って当然だから、他人に対しては無関心でいるのが一番と思う危険。


 「たぶん、ティムの言う「償い」は、われわれ人間の脳―様々な現実を、必要に迫られる範囲で、縦横無尽に移動する能力によって、生き延びるべく適応してきた脳―は、われわれに、共有された現実についての単純すぎる考え方をもはや必要としない新たな時代においてともに生きていくという能力を提供してくれるだろうという一筋の希望である。進化は驚くべき仕方で進む。だからこれからどうなるかは誰も判らない。妄想を形成する脳の進化した能力は、現代の世界においてもわれわれが集団としてもサバイバルすることを請け負ってくれる新たな戦略の基礎を提供することになるかもしれないのである」。

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